第26話:神罰の、造り方
夜明けから、壁の検分に取りかかった。
まず探したのは、水の逃げ道である。これほどの器なら、造った者は必ず二つの口を付ける。増えた水を上から逃がす溢れ口と、器を空にするための底の栓——底樋だ。両方あって、初めて器は道具になる。どちらも殺されていたら、それはただの、大きくなり続ける刃物である。
溢れ口は、壁の東の肩にあった。石を階段状に組んだ、立派な越流の道。谷の岩盤まで丁寧に均してあり、受けの先は旧河道の筋へ滑らかに繋がっている。零れた水が、まっすぐ葦の海へ落ちる設計。ここだけ見れば、教科書に載せたいくらいの仕事だった。
そして、潰れていた。
崩れた岩と土砂が、道をみっしりと塞いでいる。土の色は新しい。
「親方、これは」
「崩れて、まだ一年経ってねえな。……嬢ちゃん、あの嵐だ。あの晩、ここも相当に呑んで、吐いて——吐いた勢いで、肩ごと持ってかれたのよ」
あの夜、谷から来た出所の知れない水。私たちの堤を殺しかけた、あの想定外の水量。
あれは、この溢れ口を越えた水だったのだ。百年、嵐のたびに。器から零れた水が旧河道筋を駆け下り、下流では「神罰の氾濫」と呼ばれてきた。零す口があったから、器はかろうじて保ってきた——そして零れ口は、いま塞がっている。湖の水に、逃げ場がない。真冬の水位上昇の正体である。
「底樋は」
「こっちだ。……こっちは、もっと質が悪い」
壁の基部、青銅の枠に囲まれた四角い口が——石でみっしりと詰められていた。
目地には漆喰。崩落ではない。人の手だ。それも、詰め口の漆喰は何度も塗り直されていて、いちばん古い層は、壁と同じくらい古い。
「造ってすぐ、誰かが栓をした。それから百年、誰かが栓を守り続けた」
親方は詰め石の目地を、鑿の尻でこつこつと叩いて回った。
「……詰めた奴も、腕は確かだ。百年、水の重みに抜かれなかった詰め口だぞ。——腕の確かな職人に、こういう仕事をさせるんじゃねえよ」
吐き捨てた声が、壁に籠って、谷に消えた。
水を抜く道だけを、百年、殺し続けてきた者がいる。
器を空にできれば、危険は消える。危険が消えれば、氾濫も消える。氾濫が消えれば——神罰も、寄進も、消えるからだ。
〈神罰の造り方。一、水を溜める。二、逃げ道を塞ぐ。三、零れたら神の怒りと呼ぶ〉
*
昼、ガレンが谷の西の斜面に庵を見つけた。
石積みの小さな番小屋である。囲炉裏の灰は冷えて久しく、寝板は一人ぶん。壁の釘に、青い法衣が一着、埃をかぶって下がっていた。ここに人が通っていたのは間違いない。住んではいない。通って、見て、帰る場所だ。
棚には油紙に包まれた帳面が、何十冊も年の順に並んでいた。
表紙の文字は擦れていたが、読めた。『水見帳』。
開いて、指が止まった。
ひび割れの図。目地の走りの写し。水位の記録。朔と望の日付。——実測だ。それも、百年ぶんの。測り方は素人くさいのに、続け方だけは玄人だった。月に二度、百年、一度も欠けていない。
「……教団は、測っていましたのね。神のものだから測るなと、わたくしたちを脅しておきながら」
「セラ様。こりゃあ……坊主どもは、怖かったんでさ」
ガレンが、帳面の山を見回して言った。
「おれも夜番で覚えがありやす。怖いもんほど、見ちまう。目を離した晩に来る気がして」
「ええ。……怖かったのなら、なおのこと。怖いと知りながら、下流には百年、祈れとだけ仰ったのよ」
頁を繰るほど、手が冷えていった。三十年前『中程の目地、指一本開く』。二十年前『孕み、進む。水位、警告の彫りに迫る』。あの年だ。閣下が母君と妹君を喪った、あの氾濫の年。彼らは知っていて、測って、書き留めて——黙っていた。
閣下は、その頁を長いこと見ていた。何も言わなかった。言わないまま、頁の角を、指で一度だけ揃えた。
そして最後の頁。まだ墨の新しい、揉み手が見えるような筆跡で。
『溢れ口、崩る。水位、上がり始む。大司祭様に言上のこと』
この筆跡には、見覚えがあった。聖女様の先触れの書状の、あの字である。
「コルネオ師……。見回り役は、あなたでしたの」
*
帳面を写し取っていた夕刻、それは起きた。
溢れ口の崩落を検分していた閣下の足元で、緩んだ岩が抜けたのだ。私はすぐ下の岩棚にいた。頭の上で石の鳴る音がして、考えるより先に体が竦んだ。
影が、落ちてきた。岩ではなく、閣下が。
閣下は落ちながら私の帯を掴み、岩棚の奥へ投げるように押し込み、自分は縁の岩を掴んで止まった。一呼吸あとに、人の頭ほどの石が、いままで私のいた場所で砕けた。
「——手を」
「っ、はい」
引き上げられて、岩棚の奥で二人、しばらく息だけをしていた。閣下の掌が、擦り剥けて血が滲んでいた。
「閣下、お手当てを」
「あとでいい。……あんたが下敷きになるよりは、ずっと安い」
「安くありませんわ。この手はうちの領の、大事な資本ですのよ」
包帯を巻く私の手が、少し震えていた。閣下は何も言わず、巻き終わるまで、じっとしていてくれた。巻き終わってからも、少しの間。
*
野営の火を囲んで、写しの束を油紙に包んだ。
これで揃った。器の構造。殺された底樋。崩れた溢れ口。そして教団自身の手による、百年の実測記録。神罰の正体を、神罰の帳簿が証してくれる。水は嘘をつかない。測った者が嘘をつくだけだ。
「明日、山を下りますわ。この束を持って、ヴェルナー卿のところへ——」
ガレンが、鋭く手を挙げた。
谷の入り口の方角、暮れ残る雪の白さの中に、点々と灯りが列を作っていた。角灯の列。その先頭に、青い法衣。
思い出す。最初にこの谷の入り口を測った日、番小屋から出ていった早馬。教団の耳は、最初からこちらの足音を数えていたのだ。
夜目にも、輿がひとつ。輿に乗る司祭など、この王国にひと握りしかいない。
「……大司祭様の、お出ましだ」
空は晴れ、初雪がちらつき始めていた。湖の水位、警告線まで指二本半。
本日の収支——殺された底樋ひとつ、崩れた溢れ口ひとつ、百年の水見帳ひと棚(写し取り済み)、閣下の掌ひとつ(要治療)。
神罰の造り方が、わかりました。……造った方が、いらしたようです。




