第25話:水神さまの、貯金箱
堰の後始末を終え、いったん里へ戻って支度を整えた。その出立の朝、荷馬車の幌の下から、見覚えのある靴の先が覗いていた。
「隊長どの。今回の従軍は、却下です」
「なんで! おれ、浮きの係もできるし、鐘だって——」
「だから、よ。あなたには里でいちばん大事な係を頼むの。毎朝、蛇行部の標を読んで、帳面に付けておくこと。わたくしたちの留守中、この領の水を読めるのは、あなただけなんですもの」
隊長どのは口を尖らせたが、「読めるのはあなただけ」が効いたらしい。俸給は揚げ菓子の前払いで、手を打った。
顔ぶれは、私と閣下、ドナル親方、ガレン。禁域の入り口の青い札を、杭ごと迂回する。札を破らずに脇を通るあたり、私たちもたいがい小心である。
禁域の道は、思ったより歩きやすかった。
藪に呑まれてはいるが、古い荷道である。路肩の石組みはしっかりしていて、勾配は荷車の理屈で切ってある。岩の面には、轍の彫れた痕が二筋。百年前、ここを重いものが、何百回も上り下りしたのだ。
「嬢ちゃん、この道……造った奴は、素人じゃねえぞ」
「ええ。水の道も、荷の道も、引く理屈は同じですもの」
途中の平場には、石を輪に組んだ焚き場の跡が残っていた。人足たちが夜営した場所だろう。百年前の現場の匂いが、藪の下から立ちのぼってくるようだった。
昼を過ぎて、谷が狭まった。両側から山が迫り、水の匂いが重くなる。
その匂いに、覚えがあった。夢の中で、何百回も嗅いだ匂いだ。
〈……嘘でしょう〉
藪を抜けた先で、私たちは足を止めた。
石の壁が、谷を塞いでいた。
バルテルの堰など、あれは子どもの砂遊びである。人の背丈の十倍。谷の肩から肩まで、布積みの石がびっしりと隙なく組まれ、冬の陽を鈍く照り返していた。壁の向こうには、水面。細長い湖が、山襞の奥まで静かに続いている。
鳥の声ひとつ、しなかった。水面には波もなく、立ち枯れの木々が岸に沿って骨の列を作っている。ひと谷ぶんの水が、音もなく、そこに座っていた。
「……嬢ちゃん。ありゃあ、堰なんてもんじゃねえ」
「ええ。貯水の——ダム。それも、王国のどの普請台帳にも載っていない」
ガレンが、兵隊の目で壁を測って唸った。
「セラ様。おれァ攻城なら二つ三つ潜りましたがね。……あれより立派な城壁を、見たことがありませんぜ」
「ええ。しかも城と違って、あの壁の敵は内側にいますの。——溜まった水が、攻め手ですわ」
帳簿に載らない水は、目方にしておよそ、うちの領の雨季ふた回りぶん。渇きの年もここが水を呑み、嵐の年もここが水を吐いていたなら、下流の百年の帳尻は、ぜんぶ合ってしまう。
水神様の、貯金箱である。氾濫という利息付きの。
*
岸辺に下りて、私はもう一度立ち尽くした。
水際に、白い石の水位標が立っていたのだ。
子どもの頃から夢に見続けた、あの標だった。目盛りの刻み、頭の丸み、指でなぞられて磨り減った縁まで。夢は絵空事ではなかった。ここに、実物があった。
「セラ」
閣下が短く呼んだ。声に、案じる色があった。私はよほど、ひどい顔をしていたらしい。
「……閣下。笑わずに聞いてくださいます?」
「聞こう」
「わたくし、この標を知っていますの。物心ついた頃から、何百回も夢に見ました。狭い谷、暗い水、白い標。誰かの手が目盛りをなぞって、上流を指す夢。……今世でも前ぜ——ええと、昔も、一度も来たことのない場所ですのに」
言いかけて呑んだ言葉ごと、閣下は黙って聞いた。それから、標と私を見比べて言った。
「夢の中で、その手は、あんたを脅かしたか」
「いいえ。……道を教える手、でしたわ」
「なら、招かれたんだろう。悪い招きなら、そう長くは待たん」
この人の理屈は、ときどき水より素直である。おかげで、膝の震えが止まった。
そのとき、壁に張り付いていたドナル親方が、妙な声を出した。
「……あった」
親方は、壁の隅の石を撫でていた。ほかより一回り大きな、隅の要石。その面に、小さな刻みがある。鑿を交差させた、単純な印。
「うちの合印だ。石工が、自分の積んだ石に残す判よ。じいさまの、そのまたじいさまの……五代前の判が、ここに」
節くれだった手が、印の上で止まった。
それから親方は、額を石に押し当てた。旧水門の夜と同じように。ただ今度は、肩が震えていた。
「……こんな山奥で、独りで、こんなでけえ仕事をしてたのか。家の者にも言えねえで。手間賃の帳面も残せねえで。自慢のひとつも、できねえで」
誰も、急かさなかった。ガレンが黙って帽子を取り、閣下は谷の風下に目を配っていた。五代ぶんの対面である。長くていい。
*
「——それで親方、検分ですけれど」
「おう。……おう、そうだ。仕事だ。しんみりは石の上でやるもんじゃねえ」
目元を拭った親方と、壁を端から見ていく。そして、すぐに笑えなくなった。
壁が、孕んでいた。
中程の目地が縦に走り、白い水垢の筋が幾本も垂れている。滲んだ水が、冬だというのに壁面を濡らしていた。石積みは押される力で保つ。孕んだ布積みは、身重の堤と同じ——いつか必ず、破水する。
「親方。あとどのくらい」
「わからん。明日かもしれんし、十年保つかもしれん。ただな、次の『満水』は越せねえ。わしなら、この下には住まん」
この下には、住んでいる。ロディ村も、カセルも、城下も、葦の海も。全部この水の、通り道の上に。
白い水位標の、いちばん上の目盛りに、古い彫りがあった。私は角灯を寄せて、読んだ。
『これより上、石が保たぬ』
百年前の誰かが遺した、最後の警告線。
いまの水面から、そこまで——指三本。
ガレンが、掠れた声で言った。
「……セラ様。おれの見間違いなら、いいんですがね」
彼は岸の濡れ石を指した。水際の石が、帯のように黒く濡れている。それも、いまの水面より下ではなく——上に向かって。
「水位、上がってやせんか。……この真冬に」
谷の空は晴れていた。雨の匂いは、どこにもなかった。それなのに、湖は静かに、確かに、太り続けていた。
本日の収支——帳簿外の湖ひとつ、五代前の判ひとつ、百年前の警告線ひとつ(残り指三本)。
雨も降らないのに水位が上がっています。……こういうときの水は、どこかで嘘をつかれているのです。




