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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第24話:水は、誰のものか

 裁定は、堰の天端で読み上げられた。


「——王命検分の結果を告げる。バルテル家の堰は防災の用をなさず、流水を私し、これを售った事実が認められた。よって王国古法水条第一に照らし、バルテル家のヴェルガ本流に関わる水利の権を剥奪。堰は王領の扱いとし、その管理をアルドナート辺境伯家に委任する。徴収した通水の礼金は利息を付して返還、あわせて罰金を科す。バルテル卿は追って王都にて沙汰を待て。……以上」


 ヴェルナー検分使が書面を巻き終えると、天端の風だけが鳴った。

 バルテル伯爵は、指輪の手で顔を覆っていた。三代の商売が、一枚の紙で終わった。水を人質に取った商売は、水を調べられたら終わるのである。最初から、そういう商売だったのだ。


「そんな……あ、あの堰は、あれは……」


 そして伯爵は、うわ言のように口走った。


「わ、私は、ただ預かっていただけだ……! あの堰も、あの谷も、もとはといえば——」


 言いかけて、伯爵は自分の言葉に自分で青ざめ、ぴたりと黙った。

 目が、泳いだ先を私は見逃さなかった。谷の奥。禁域の札の方角。

 預かっていた。誰から?

 護衛に促されて馬車へ向かう伯爵は、最後まで、その先を言わなかった。言えば紙一枚では済まない相手から預かっていたという顔で。

 ヴェルナー卿が、その背を目で追いながら低く言った。


「……検分使としての職分は、ここまでです。ですがセラフィーナ殿。あの『預かっていた』は、私の調書の中で、いちばん寝覚めの悪い一行になりそうだ」

「ええ。わたくしの帳面でも、ですわ」


 *


「開門——!」


 昼、王命のもとで通水門が引き上げられた。

 軋みを上げて栓が抜け、堰に溜まっていた水が、どっと喉を鳴らして下流へ走り出した。ひと月あまり、売り物にされていた水である。

 最初に来たのは音だった。乾いた川底を、水の頭が石を鳴らしながら駆けていく。次に匂い。埃っぽかった谷風が、一瞬で湿りを帯びて、水と土の匂いに変わる。手を浸すと、指が切れるほど冷たかった。冬の水は、生きのいい刃物である。


 私たちは馬を駆って、水と競走で川筋を下った。途中の村々で、歓声が水を追い越していく。

 渡し場では、船頭が三年ぶんの領収書を焚きつけにして、祝いの火を焚いていた。岸の子どもたちが、走る水面に向かって石を投げては叱られていた。

 オルム村の前では、村長と若い衆が土手に鈴なりになっていた。


「来年は、こいつがうちの分水路にも回るんだな」

「ええ。この水は、もう誰の売り物でもありませんわ。——皆さんの働き手ですの」


 夕方、領境の観測点で、ガレンの班が旗を振った。


「来たぞ——水が来た!」


 痩せて骨の見えていた川が、みるみる肉を取り戻していく。洗い場に女たちが戻り、止まっていた水車が一回り、二回り、思い出すように回り始めた。粉屋の女将が水車小屋の前で、前掛けを振り回していた。

 畑では、古老が畝に手を突っ込んで土を握り、しわだらけの顔をさらにしわくちゃにした。


「……間に合うわい。冬麦、間に合う」

「賭けはなさいませんの?」

「せんわ! 賭けはもう懲りたと言うとろうが!」


 ピノの桶隊は、その日で解散になった。隊長どのは少し寂しそうだったので、来年から「水位見習い」に昇格させることにした。俸給は、揚げ菓子である。ちなみにこの俸給、袖の大きな領主様の分より多い。


「見習いって、なにをするの?」

「毎日おなじものを、毎日おなじように見るの。——それがいちばん難しくて、いちばん強いのよ」


 *


「これで、めでたしめでたし——という顔を、あんたはしていないな」


 夜、堰の天端で、閣下が言った。

 裁定の後始末で、私たちはもう数日、上流に残っている。眼下では水位を下げた堰が、初冬の月を映していた。


「ふふ。閣下も、なさっていませんわ」

「……ああ。あの伯爵の顔だ。『預かっていた』と言った、あの顔が気に食わん。あれは、金の亡者の顔じゃなかった」

「ええ。——怯えた駒の顔でしたわ。どこかで、見たばかりの」


 台本を演じた聖女。堰を預かった伯爵。駒はもう、二枚めくれた。盤を見ている手だけが、まだ闇の中にいる。

 私は帳面を開いた。埋まらないままの、あの数字の頁を。


「閣下。この堰、壊しませんわ」

「……使うのか」

「ええ。洪水吐を切って、底樋を通して、正しい調節池に作り替えます。悪い堰は、良い調節池の下書きですの。せっかく三代かけて積んでくださったんですもの、来年の雨季から、下流を守る側に回っていただきます」


 この普請、ドナル親方に話したら、親方は絵図を三度叩いてこう言った。「じいさまの石の上に、まともな普請を乗せ直してやらあ」——腹の虫の、正しい使い道である。


「……そうか」


 それから閣下は、私の帳面を顎で指した。


「で——埋まらない数字とやらは、どうする」

「調べますわ。この谷に入ってくる水は、この谷で集まる水より、ずっと多い。低水期ですらそうなんですの。ということは」


 私は、谷の奥を見上げた。

 禁域の青い札が、月明かりの下、風に鳴っていた。あの奥の闇に、道の跡が消えている。百年前に誰かが通い、百年前に誰かが閉じた道が。


「この上流に、帳簿に載っていない水がありますわ。それも、堰などとは桁の違う大きさの。……百年前から、ずっと」


 嵐の夜の、出所の知れない水。旧水門の王家の紋。大聖堂から消えた百年前の帳簿。「百年前」にだけ目の色を変えた大司祭。谷を測るなという教団の脅し。そして、じいさまの石積み。

 ぜんぶの矢印が、同じ闇を指している。


「閣下。次の宿題は、あの谷ですわ」

「……立入りは、教団が禁じているぞ」

「あら。水に、禁域はございませんのよ」


 閣下は呆れたように短く息を吐き、それから、ごく当たり前のことを確かめる声で言った。


「行くなら、二人でだ」

「観測は、二人で見れば倍——でしたわね」

「……そうか」


 これは、照れ隠しではない「そうか」だった。

 夜風が谷を渡り、札がまた鳴った。

 水位、回復。空は冴えて、月の輪郭が刃物のようだった。冬が来る。そして冬の次には、雨季が来る。あの谷の秘密を抱えたままの雨季が。


本日の収支——水利権一件、落着。水、返却。冬麦、間に合いました。

ただし谷の奥に、勘定の合わない水がひと谷ぶん。……次回より、百年前の宿題に手をつけます。


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