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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第23話:水の裁判は、現地で

 検分の場は、堰の天端に設けられた。

 王命の旗が北風にはためき、卓と椅子が石の上に据えられる。ヴェルナー検分使と書記官が卓につき、片側にバルテル伯爵と水利方、もう片側に私と閣下、ドナル親方が立つ。

 眼下には満々と水を湛えた堰。その先には、痩せ細った下流が見えた。片や水鏡、片や骨と皮。裁判の場所としては、これ以上の場所はない。証拠物件の真上である。

 伯爵は今日も指輪を光らせていたが、揉み手には昨日までの脂が乗っていなかった。王命の旗というものは、揉み手の油を吸うらしい。


「では、始めます。バルテル卿、申し立てを」

「はっ。この堰は我が家が三代、私財を投じて守った防災の要にございます。此度の通水制限は、あくまで修繕のため。また、水の慣習は古来『上流のものは上流のもの』。当家は谷を預かる者として、下流の方々に応分のご負担を願ったまで。これは礼金であって、売買にはございませぬ……」


 伯爵は滔々と述べた。防災、私財、慣習、安全。よい言葉ばかりを、指輪の光る手で並べていく。よい言葉は、よい商品と同じで、まず在庫を疑うに限る。

 ヴェルナー卿は聞き終えて、私を見た。


「反証を」

「はい。まず——防災の要、とのことですので」


 私はドナル親方の絵図を広げた。


「検分使殿。防災の堰には、増えた水を安全に逃がす道が要ります。洪水吐と申します。この堰のどこにあるか、卿にご教示いただけますかしら」

「な……そ、そのような些末な」

「些末?」


 ドナル親方が、一歩前へ出た。腹の虫の、お出ましである。


「些末たあ、よく言ったな。いいかい検分使様。あの堰は溜める口と銭を取る口しかねえ、言わば『売水の栓』だ。いま天端まで指三本。この上に冬の長雨が一度来りゃあ、水は石垣を越えて目地を抜く。そうなりゃ堰ごと崩れて、下流は嵐の倍の水を一度に食らう。——防災どころか、王国でいちばんでけえ水害の種を、この御仁は銭箱にしてるんでさ」


 書記官の筆が、走った。


「次に、修繕とのことですので——修繕中の水の記録を」


 ガレンが観測帳を捧げ持ってきた。ひと月ぶんの、朝昼晩の実測である。霜焼けの手が取った数字だ。


「通水は平年の四割。ただし五日に一度、まとまった放流がございます。修繕中の堰は、水を溜めたり吐いたりできませんわね? できているということは、つまり修繕はしていない。していないのに水を止める理由は、先日わたくしどもに頂いたこの書面——『共同事業』への署名の催促かと」

「ぐ……」

「ついでに、古い帳簿とも突き合わせました。この二十年、雨も降らないのに冬の出水が七度。いずれも渇きの年で、いずれもバルテル家が通水料を値上げした年と重なります。溜めて値を吊り上げ、器が危うくなれば黙って吐く。——この堰は、下流の渇きと氾濫を、両方売り物にしてきましたの」


 天端が、静まり返った。

 伯爵の顔から、揉み手の愛想が剥がれ落ちていく。


「さ、最後に——慣習と『礼金』のお話ですので」


 私は、領収書の束を卓に置いた。船頭の三年ぶん。漁師と粉屋の束。そして油紙に包まれた、皺だらけの十七枚——差出の村名は伏せ、数と印だけを写しに取ったものである。


「『上流のものは上流のもの』。結構ですわ。ですが卿は、下流のうちの領民から、渡し場の船頭から、あまつさえご自領の百姓からまで礼金をお取りです。自分の領の川で水を汲むのに、銭の要る村がございますのよ。——王国古法水条第一。『大河ヴェルガの流水は、王のものにして万民のもの。流れを私し、これを售る者は、王道への叛と見なす』。慣習は法の隙間に住めますけれど、叛の上には住めませんの」


 *


「け、検分使殿!」


 伯爵が、卓に縋りついた。


「い、いや、ヴェルナー卿。卿も宰相府のお勤めなら、物入りも多かろう。当家は水利で潤っておる。なんなら卿の御領の……」

「書記官。ただいまの発言、一言一句を調書に」

「ひっ」

「続けてどうぞ、卿。私の値段の見積もりまで言っていただけると、罪状が数えやすい」


 この検分使を寄越した宰相府を、私は少し見直した。

 伯爵は、今度は開き直った。


「な、ならば水を全部止めてやる! 修繕には十年かかると言えばそれまでよ! 下流など干上がって——」

「卿。あなたの領の水車小屋と船着き場は、堰の上流にありますの?」

「……な、に?」

「下流ですわよね。渡し場も、粉挽きも、ご自領の田も。あなたが止めているのは、ご自分の民の水でもありますの。現にご自領の領収書が、ここに」


 伯爵は口を開け、閉じ、それきり何も言わなくなった。水を人質に取る者の弱みは、自分も水で生きていることである。


「——検分は以上。裁定は、明朝申し渡す」


 *


 その晩、私は野営の火の脇で、帳面と睨み合っていた。

 検分のために、この谷の水の出入りを計算し直していて——手が、止まった。


〈……合わない〉


 堰に入ってくる水の量が、多すぎるのだ。

 計算は、単純である。水を集める山の広さに、降る雨の相場を掛ける。谷の広さは昼のうちに歩測と遠見で拾ってある。北の尾根から領境まで、どう甘く見積もっても——この谷が集められる水では、あの水鏡と、五日ごとの放流と、四割の通水を、まとめて養えない。

 二割か三割ではない。倍からの水が、どこかから入っている。

 低水期ですらこれなら、あの嵐の晩、ここはどれほどの水を受けた? そして、受け切れたのか?

 嵐の夜の、出所の知れない谷の水。旧水門の王家の紋。消えた百年前の帳簿。禁域の札。

 この谷は、どこかから水を借りている。帳簿に載っていない、どこかから。


「眠れんのか」


 焚き火の向こうで、閣下が言った。


「ええ。……数字が一つ、埋まりませんの」

「裁定が不安か」

「いいえ、裁定は勝ちますわ。埋まらないのは——もっと大きな数字」


 私は帳面を閉じて、谷の奥の闇を見た。禁域の札のある方角は、星も呑むような黒さだった。


「閣下。明日、裁定が済んだら——少しだけ、寄り道をよろしくて?」

「……そのつもりで、馬を一日余分に休ませてある」


 夜空は晴れ、堰の水面に冬の星が沈んでいた。あの静かな水面の下で、勘定の合わない水が、百年ぶんの秘密ごと眠っている。


本日の収支——嘘、三枚おろし。賄賂の申し出一件(調書入り)。裁定は明朝。

それより皆様、谷の水の出納が合いませんの。……技師は、こういう夜に眠れません。


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