第22話:売水の栓
水の裁判の支度は、三つの山に分かれた。
一つ目の山は、数字。
ガレンの観測班が、領境の本流を朝昼晩測り続けている。冬の入りの野営である。朝は瀬の石に霜が降り、浮きを追う指がかじかむ。それでも記録は一日も欠けなかった。伝令は半日交替で駆け、帳面は毎晩、私の机に届く。
一度、差し入れを持って野営を見に行った。ガレンたちは瀬の脇に石の竈を組み、火を絶やさず、交替で目盛りを読んでいた。
「セラ様、見てくだせえ。この帳面、もう字が兵隊の顔をしてまさあ」
「あら、ほんと。強そうな『四』ですこと」
かじかむ手が取ったひと月ぶんは、あとで法廷に立つ。数字にも、体温というものがあるのだ。
堰が「修繕」を始めてから、下流へ来る水は平年の低水期の四割。しかも五日に一度、申し訳程度にどっと流す。溜めた器が危うくなると吐くのだ。水のやりくりまで、高利貸しの手口である。
「セラ様、上流の組から伝令でさ。堰の水位、天端まであと指三本。——連中、限界まで溜めてやすぜ」
「ええ。売り物ですもの、蔵いっぱいに詰めたいのでしょう。……蔵が石でできていることを、お忘れのようだけれど」
二つ目の山は、絵図。
ドナル親方が、堰の構造を仔細に描き起こした。遠目に睨んだだけの記憶で寸法まで引けるのだから、職人の目は測量器より質が悪い。
「いいか嬢ちゃん。防災の堰ってのはな、水を『逃がす道』が命だ。溜めるだけなら、ただの土手っ腹でもできる。——で、あの堰よ。洪水吐がねえ。底樋もねえ。あるのは銭を取るための通水門が一枚きり」
「つまり、あれは」
「堰じゃねえ。『売水の栓』だ。防災どころか、あれ自体がでかい水害の種よ。満杯で石が抜けてみろ、下流は嵐の倍の水を一度に食らう」
親方は絵図の隅に、堰の下敷きになった古い布積みを、わざわざ丁寧に描き込んだ。
「……じいさまの石積みを、あんな悪党普請の土台にされてるかと思うとな。わしはどうにも、腹の虫が治まらねえ」
「検分の日に、その虫を法廷へ連れて参りましょうね」
三つ目の山は、紙。
通水料の高札の写し。そして、領収書である。私はガレンの荷駄に便乗して、川筋の村々を回った。
渡し場の船頭は、櫓を置いて吐き捨てた。
「渡し賃より通水料のほうが高くつくんじゃ、商売あがったりでさ。ほれ、領収書。……三年ぶん、束で取っときな。いつか誰かが、あの堰をどうにかしてくれると思ってな、捨てずにいたんだ」
岸の漁師からも、下流の粉屋からも、紙は集まった。
驚いたのは、バルテル領の百姓が夜、こっそり訪ねてきたことである。麦藁の合羽に顔を埋めるようにして、懐から油紙の包みを出した。
「……うちの殿様に知れたら、ただじゃ済まねえ。だが、うちの村も取られてるんだ。自分の領の川で、水を汲むのに銭を払ってる。親父の代からだ。……あんた、王様の役人に会うんだろう。これも、数に入れてくれ」
包みの中は、皺だらけの領収書が十七枚。自領の百姓からも取っていたのだ。
『水は神のもの』の次は『水はバルテル家のもの』。この川は、いつになったら万民のものになれるのかしら。
*
夜なべの作戦会議は、連日になった。
その晩は、卓の上に絵図と帳面と領収書が散らかり、マルタさんが夜食の茶菓子を運んでくれた。蜂蜜がけの揚げ菓子。収穫祭以来、うちの台所の定番である。
議論が一段落したとき、ピノが妙な声を上げた。
「……あれ? お菓子、さっきまで六つあったの。いま、四つなの」
「あら」
「数の合わない帳簿ですねえ」
マルタさんが、にっこりと閣下を見た。閣下は絵図から顔を上げず、微動だにしない。ただ、外套の袖のあたりが、心なしかふっくらしていた。
「……検分使が来る前に、身内から検分せにゃならんとはな」
ドナル親方が笑い、閣下は咳払いをして、袖から菓子を一つ、ピノの前に置いた。一つは、置かなかった。あれは絶対に、あとで一人で食べるのである。
笑いが収まった頃、閣下がぽつりと言った。
「……あの領収書の百姓。裁定が済んだら、バルテル領の村の名は調書から伏せてやれるか」
「ええ。数と印だけで、村の名は要りませんわ」
「なら、いい。——水を止められた恨みで、あの男が縛り首になっては、順番が逆だ」
領主というものの目の配り方を、私はこの人から教わり続けている。
*
リゼの手紙も、その週に届いた。
東地区では、返還されたわたくしの持参金で改修が再開されたこと。設計図の写しどおりに掘り直しが進んでいること。それから、末尾に短く。
『聖女様のお姿を、このごろ王都でとんと見かけません。祝祭の壇にも、先日は別の巫女様が立たれたとか。仕立屋への装束のご注文も、あれきり絶えました』
短い三行に、リゼの案じ顔が透けて見えた。あの人は、駒にされた者の行く末を知っている。自分も、除籍騒ぎで暇を出された側だから。
作られたものは、作り直せる。彼女自身の言葉どおりのことが、静かに始まっている。
私は手紙を文箱にしまい、帳面の「宿題」の頁を開いた。教団、百年前、消えた帳簿、禁域の谷、そして駒にされた聖女。宿題は、増える一方である。
でも、まずは目の前の裁判だ。
検分使の一行は、予定より二日早く着いた。
随行は書記官が二人と護衛が六騎だけ。質素な馬車から降り立った検分使は、目の下の隈まで見覚えのある人だった。
「王命の検分使を拝命しました。……また、貴女ですか」
「あら、ヴェルナー様。ようこそ、水の現場へ」
「宰相府で水と聞けば、私に回ってくるようになりました。誰のせいでしょうね」
参事官——いまは検分使殿は、疲れた顔で、けれどまっすぐに言った。
「先に申し上げておきます。私は貴女の味方ではない。王法の味方です」
「望むところですわ。わたくしの味方も、水と数字だけですの」
「……なら、話が早い。検分は明後日。場所は堰の現地。バルテル卿にも、すでに王命で伝えてあります」
夜、水位標の目盛りは十一の減のまま動かず。空には冬の星が出はじめ、北の山の上だけ、相変わらず灰色だった。
本日の収支——数字ひと山、絵図三枚、領収書ひと束と十七枚、菓子二つ(行方不明)。
検分は明後日、堰の現地にて。……水の裁判は、水の見ている前でやるに限りますわ。




