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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第21話:水を止められた日

 水が痩せると、暮らしは音から変わる。

 最初に止まったのは、水車の音だった。粉挽きの水車が回らない。次に、川端の洗い場から女たちの声が消えた。桶を抱えて井戸へ移ったのだ。そして復田一年目の畑で、蒔いたばかりの冬麦が、土の中で水を待ち始めた。

 浅瀬では、取り残された魚を子どもたちが素手で拾っていた。豊漁ではない。川が痩せて、魚の逃げ場が干上がっただけである。


「セラ様、井戸の列がえらいことに。喧嘩が二件」

「オルムの土手工事も、練り土の水が足りねえって」

「粉屋のかかあが、水車が止まったんじゃ年貢の麦が挽けんと」


 報告は、日に日に増えた。

 嵐と戦った領が、こんどは渇きと戦っている。水というのは、多すぎても少なすぎても人を殺しにくる。前世からずっと、そういう相手である。


 バルテル家の使者が来たのは、減水八日目だった。

 肥えた書記官が、揉み手で書面を差し出す。


「堰の大規模修繕のため、通水はしばらく叶いませぬ。……ですが、ご安心を。『流域共同事業』の契約書にご署名いただければ、修繕を急がせましょう。なに、条件はお安く。事業の差配権をバルテル家に、通水料は月に金五枚、それから治水予算の帳簿を当家の水利方が検めます、というだけで」

「まあ。それを世間では、乗っ取りと申しますのよ」

「はて。当家はただ、修繕をしておるだけで」


 水は止めていない、修繕しているだけ。喉元に短刀を当てて、これは髭剃りだと言い張る手口である。


 *


 使者が帰ったあと、閣下が立ち上がった。腰の剣に、手が掛かっていた。


「二十騎あれば、あの堰は今夜中に開く」

「閣下」

「うちの民の水だ。売り物にされる筋合いはない」

「ええ、ありません。ありませんけれど——お座りなさいまし」


 私は帳面を開いて、閣下の前に置いた。


「剣で開ければ、明日から話は『水の話』ではなく『辺境伯の乱暴の話』になりますわ。バルテル卿が欲しいのは、まさにそれ。あちらは水を止めて、こちらが暴れるのを待っておりますの。王都に訴える口実を、水鏡いっぱいに溜めて」

「……なら、どうする」

「戦い方を変えます。あちらが水を止めるなら、こちらは記録を止めません。——渇きの間、この領の水をひと雫まで数えて配り切る。そして数えた帳面で、あの堰を法の前に引きずり出しますわ」


 閣下は長いこと私を見て、それから剣から手を離した。


「……そうか。なら、あんたの流儀でやれ。俺の剣は、最後の閂だ」


 この「そうか」は、預けた側の「そうか」だった。ありがたく、預かることにする。


 *


 その日から、領は「配る戦」に入った。

 触れを出した。飲み水がいちばん、種と苗が二番、畑が三番、洗い物は四番。溜め池と旧水門の遊水地に残った水を、樋と桶で順番に回す。

 広場で触れを読み上げたとき、粉屋の女将が手を挙げた。


「なんで畑が三番なんだね! 麦が枯れたら冬が越せんよ!」

「人は水を三日しか我慢できません。麦は、十日待てますの。——ご安心を。十日目までに、畑の順番は必ず参りますわ。帳面に書いて、判を捺します」

「……あんたの判は、嵐のとき狂わなかったからね。信じるよ」


 判は、実績で捺すものである。ありがたいことに、うちの判は嵐で鍛えてもらった。

 井戸は総ざらいで浚い、水車の粉挽きは牛と人力の臼に切り替えた。ピノは子どもたちの「桶隊」の隊長になり、空き桶を叩いて配水の刻限を触れて回った。ガレンの人足たちは夜のうちに配水の樋を組み、オルムの若い衆は、自分の村の工事を半分止めて、川筋の見張り番を買って出た。

 古老は毎朝、畑の土を握っては空を睨んだ。


「……四十年前の渇きよりゃ、まだましじゃ。あのときは、水の配り方を知っとる者がおらなんだ」

「今年は、おりますわ」

「おるのう。忌々しいことに、頼りになるわい」


 城の湯殿は、その日から閉じた。マルタさんが「せめて旦那様のお身体が」と粘ったが、閣下が首を振った。


「配る戦だろう。順番は末端からだ。……城は、いちばん末でいい」


 その一言は、触れ書きより速く領内を回った。水はまだ細いのに、文句の水位だけが、すとんと下がった。


「嵐のときと、逆ですのねえ」


 マルタさんがしみじみ言った。


「あのときは水を追い出す算段で、こんどは水を拾う算段で」

「ええ。でも帳面は同じですわ。水の出と入りを、嘘なく数えるだけ」


 そして数える相手は、領内の水だけではない。

 私は観測班を二手に分けた。ひと組は領内の各所。もうひと組はガレンを頭に、領境ぎりぎりの本流へ。堰から来る水を、朝昼晩、毎日測って記す。「修繕」の間にどれだけの水が止められたか。あとで法の前に並べる数字である。


 *


「それで嬢ちゃん、法ってのは、どこの法だ」


 夜なべの書庫で、ドナル親方が言った。私は、埃をかぶった法典の写しを卓に置いた。城の書庫のいちばん奥、先々代の頃の写本である。


「ございましたの。王国古法、水条の第一——『大河ヴェルガの流水は、王のものにして万民のもの。私領を過ぎるといえども、流れを私し、これを售る者は、王道への叛と見なす』」

「はん。……水を売るのは、王様への叛逆ってか。豪気な条文があったもんだ」

「百年、誰も使っていない条文ですわ。慣習では『上流のものは上流のもの』が通ってきた。——ですから、慣習と古法、どちらが立つかの勝負になります。そして慣習を破るには」

「証拠、か」

「ええ。数字は、こちらの畑で毎日育っておりますの」


 ヴェルナー参事官には、すでに文を出してある。古法の条文の照会と、流域の紛争として王の裁定を仰ぐ手続きと。

 返事は、十日で来た。


『照会の条文、原本にて確認。宰相府は本件を「王水の紛争」として受理する。近く、王命の検分使をそちらへ遣わす。——なお私事ながら、東地区の排水、完了しました。貴女の指示書の通りに。ヴェルナー』


 検分使。つまり、水の裁判が始まる。

 夕方の水位標は、目盛り十一の減。それでも空は晴れ続け、上流の山にだけ、灰色の雲が居座っていた。あの雲の水も、いまごろ誰かの売り物にされているのだろう。


本日の収支——水、日に細る。帳面、日に太る。桶隊、発足。判、一つ。

王都から検分使が参ります。……どうか、算術のできる方でありますように。


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