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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第20話:鈴の音は、誰のために

 聖女は、本当に鈴を鳴らさずに来た。

 月明かりの土手道を、供も角灯も持たず、泥除け仕立ての裾で。広場で祝福を配っていたときの、光をまとうような足取りは、どこにもなかった。ただの、疲れた娘の歩き方だった。

 歩き方というものは、着替えられない。技師が現場の親方を靴の減り方で見分けるように、私はこの晩はじめて、聖女ミレーヌの素の歩幅を見た。


「……お一人で、とお願いいたしましたのに」


 水位標の前で、ミレーヌ様は小さく笑った。視線の先、土手下の柳の闇に、黒い外套の気配がある。


「あら。あれは観測設備の一部ですの」

「まあ。……よい設備をお持ちですこと」


 鈴を振るような声。けれど今夜のそれは、誰かに聞かせるための澄み方をしていなかった。


「先に、役目のご用件を申し上げます。教団からの、お言伝です。——『水神の聖域に近づいてはならない。次に谷を測れば、その物差しごと折れると知れ』」

「まあ、ご丁寧に。脅し文句まで韻を踏んで」

「これで、わたくしの役目は済みました」


 聖女は水位標を見上げた。白い目盛りが、月を受けて光っていた。


「ここからは、役目ではないお話を。……お時間、よろしいかしら」


 *


 彼女は、順を追って話した。祈りの文句を諳んじるような、抑揚のない声だった。


「わたくしは七つの年に、大聖堂の孤児院に拾われました。聖女は、選ばれるものではありません。作られるものです。お辞儀の角度、祝福の声の高さ、それから——泣き方。涙には七通りの作法がございますのよ。俯いて堪える涙、見上げて零す涙。あの夜に使ったのは、三番目。ハンカチを目元に当てて、肩を震わせる涙ですわ」

「……よく効く涙でしたわ。広間の同情が、音を立てて動きましたもの」

「ええ。十年お稽古いたしましたから」


 自慢でも自嘲でもなく、職人が道具の手入れを語る声だった。この人は、涙の技師なのだ。私が水路を引くように、この人は涙を引く。引かされてきた。


「三年前、教団は出来上がったわたくしを王宮へ差し込みました。布教と、献金と、王家の帳簿への口利きのために。……そこまでは、よくあるお話。よくあるお話で済んでいれば、貴女とこうしてお会いすることも、なかったのでしょうね」


 二年前、と彼女は続けた。


「大聖堂が、一人の令嬢を警戒し始めました。水門に日参し、治水の嘆願書を書き続ける公爵令嬢。——『水を読む娘』と、上の方々は呼んでおいででした」

「……わたくしの嘆願書、大聖堂に届いておりましたの」

「危険物として、回覧されておりました」


 水は神のもの。神罰は教団の商品。ならば、水を人の手に取り戻そうとする令嬢は、商売敵である。


「筋書きは、勘定方の上の、そのまた上で書かれました。証人の手配も、涙の場面も。わたくしは台本どおりに突き落とされ、台本どおりに泣きました。……追放先だけは、わたくしの口から申し上げるように、と。『水の豊かな土地を』と、あの通りに」

「なぜ、アルドナートでしたの」

「沈む土地なら、貴女は水と戦って果てる。生き延びても、教団の巡回司祭の目が届く。——そういう帳尻だったと聞いております」


 断罪も、嘲笑も、この痩せた辺境も。ぜんぶ、誰かの帳簿の上で先に済んでいた。

 腹の底が冷たくなる。けれど不思議と、怒りの向く先は目の前の人ではなかった。台本を書いた手は、別にある。


「……ひとつだけ、伺いますわ」


 私は、いちばん重い問いを置いた。


「大水の朝。あなたは夜明け前から大聖堂にいて、裾ひとつ濡れなかった。——水が来ることを、知っていらしたのね」

「はい」

「東地区の三百世帯には、誰も報せなかった」

「報せることを、禁じられておりました」


 即答だった。言い訳の一枚もなく、彼女はそれを言った。


「ですから、あの朝——大聖堂の鐘を、刻限を間違えて鳴らしました。夜明け前に、七つ。……間違いは、それは、きつく叱られましたわ」


 夜明け前の鐘。

 早起きの水売りが、粉屋が、赤子を抱えた母親が、いつもより早く目を覚ました朝。数えられない誰かが、それで水より先に走れたかもしれない。数えられないから、彼女の帳簿には、永遠に載らない。

 私は、この人の断罪の口上を思い出していた。涙ながらの証言。あれが十年の稽古なら——刻限を間違えた鐘は、稽古にないものだ。


「……なぜ、わたくしにここまで話しますの」

「貴女が、上流を測り始めたから」


 聖女は初めて、まっすぐ私を見た。


「教団が守っているのは、神ではありません。『百年前』です。大聖堂の禁書庫には何でもございますのに、百年前の、その数年ぶんの帳簿だけが——ないのです。わたくしのような駒にも分かるほど、きれいに、ないのです」

「……」

「次に教団が動くとき、わたくしはもう、聖女ではないでしょう。作られたものは、作り直せますから。それならその前に、勘定を一つ、わたくしの側に付けておきたくて」


 *


 帰り際、私は彼女の背に言った。


「ミレーヌ様。わたくし、あなたを許しませんわ。あなたの台本で、水路が止まり、人が死にました」

「……はい」

「でも——夜明け前の鐘は、水が見ておりましてよ。水は、嘘をつきませんの」


 聖女は振り返らなかった。ただ、月明かりの中で一度だけ、深く頭を下げた。稽古のお辞儀とは、角度の違う辞儀だった。鈴は、最後まで鳴らなかった。

 柳の陰から、閣下が出てきた。ずいぶん長いこと、二人とも黙って川の音を聞いていた。


「……そうか」


 やがて閣下はそれだけ言って、外套を私の肩に載せた。今夜のそれは、労いの「そうか」だった。


「怒って、いらっしゃらないの。話の半分は、閣下の領を潰す算段でしたのに」

「怒っている。……ただ、あの女の言う『上』とやらに、まとめて怒ることにした。そのほうが、勘定が合う」

「まとめて、ですの」

「ああ。台本書きも、帳簿消しも、駒の使い捨ても。……どうせ辿れば、同じ手だ」


 外套は今夜も、火の入った竈なみに暖かかった。借りてばかりの熱源である。いつか利息を付けて、お返ししなくてはならない。


 三日後——上流から早馬が来た。

 バルテルの堰の通水門が、閉じられた。名目は「大規模修繕」。川が、痩せ始めている。


 朝の水位標は、目盛り二つの減。空は憎らしいほどの快晴だった。


本日の収支——台本一冊の種明かし、消えた帳簿ひと山、鐘七つ。

そして上流では、水の栓が閉まりました。……次回、渇きとの戦です。


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