第19話:濡れない聖女と、仕立屋の請求書
夢の中で、私はまた、あの白い石の水位標の前にいた。
子どもの頃から数え切れないほど見た夢だ。けれど昨夜は、様子が違った。標の周りに、両側から山が迫っていた。狭い谷。暗い水。水の匂いが、妙に重い。誰かの手が目盛りをなぞり、その指が——上流の方角を、指した。
〈……谷ですって? 汐里が測ったどの川にも、あんな谷はなかったわ〉
目が覚めても、指の形だけが目に残っていた。
夢に出るほど上流が気になっているのだ、と言ってしまえばそれまでである。それまでなのだけれど、あの夢は私が上流を見るずっと前から、同じ白い標を見せ続けてきた。技師は、原因の書かれていない変化を嫌う。夢についても、である。
*
朝、約束どおりドナル親方が来た。
親方は卓の上に、炭で描いた石積みの図を広げた。
「あの堰の下敷きになってた古い石積みだがな。布積みだ。それも、ただの布積みじゃねえ。水押しを受ける面の勾配の取り方、目地を互い違いに逃がす癖、隅の石だけ一回り大きいのを据える段取り——うちの流儀と、寸分違わん」
「旧水門と、同じ手」
「ああ。うちのじいさまの、そのまたじいさま。五代前の手だ。……だがな、嬢ちゃん。妙なんだ」
親方は、炭の先で図の端を叩いた。
「うちの家伝じゃ、じいさまの仕事場はこの下流のはずだ。水門と、堤と、灌漑の樋。上流のあの谷で何かを積んだなんて話は、爺様からも親父からも、ひと言も聞いたことがねえ」
「仕事の記録ごと、消えている」
「そういうこった。職人の仕事ってのはな、手間賃の帳面と、酒の席の自慢話で残るもんだ。両方ねえってのは——残っちゃまずい仕事だった、ってことよ」
下流に旧水門。上流の禁域の入り口に、同じ手の石積み。
百年前、あの谷で何かが造られた。そして今、その上に水を売る堰が乗り、教団の札が入り口を塞いでいる。
「親方。この話、しばらく胸に仕舞っておいてくださいまし」
「言われんでも。……なんだか知らんが、嫌な臭いがすらあ。古い普請を隠すやつに、ろくなのはいねえ」
親方は炭を置いて、節くれだった手を握ったり開いたりした。
「それとな、嬢ちゃん。もしあの谷に、じいさまの仕事が本当に眠ってるんなら——わしは見てえ。五代ぶん、どんな腕だったのか、この目でな」
「ええ。いつか必ず、拝みに参りましょうね。……正面の道から、堂々と」
*
午後、王都からリゼの手紙が届いた。
前半はいつもの近況——東地区に工兵が入り、指示書どおりに排水が始まったこと。熱を出す者が減り始めたこと。持参金が戻り、止まっていた水路の掘り直しが再開されたこと。工兵の親方が図面を見て「これを引いた技師に会わせろ」と騒いだこと。
文字を目で三度なぞった。よかった。あの土手の下の三百世帯が、やっと帳簿の「宿題」の頁から出ていってくれる。
後半が、本題だった。
『妙なことを、またひとつ。うちの仕立屋に、大聖堂から聖女様の巡礼装束のご注文がありました。裾を短く、泥除け仕立てに、旅向きに、と。お支払いは王家ではなく、教団の勘定方からです。
女将が申しますには、聖女様のお召し物は昔から、代金はぜんぶ教団払いなのだそうです。あの方は七つのお年から、大聖堂の孤児院でお育ちになったとか。王宮へ上がられたのは、たった三年前。……わたくしどもは聖女様を王家の方と思っておりましたが、お勘定の上では、ずっと教団の方なのですね』
手紙を持つ手が、冷えた。
断罪の夜に追放先を「お願い」した聖女。大水の朝に濡れなかった聖女。そして、勘定の上ではずっと教団のものである聖女。
符合は、三つ重なったら符合と呼ばない。設計と呼ぶ。
「——旅向きの装束、ですって」
そこまで読み返して、気づいた。聖女様は、どこかへ出かけるのだ。裾の濡れる、泥の土地へ。
王都から見て、泥の土地。心当たりが、ありすぎる。
*
先触れが領へ着いたのは、その二日後だった。使いに立ったのは、なんとコルネオ師である。蛸色の記憶も新しい揉み手の司祭は、城の門前で精一杯胸を張った。
「せ、聖女ミレーヌ様御一行、南部被災地慰問の巡礼として、当領を訪問なさる! ……く、苦しゅうないよう、支度をなされよ、魔女……いや、責任者どの」
「あら司祭様、お久しぶり。西の橋、渡れるようになりまして?」
「〜〜っ! と、とにかく、三日後じゃ! これは先触れの書状! しかと読まれよ!」
押し付けられた書状は、揉み手がそのまま乗り移ったような、癖の強い字だった。蛸色になりかけた後ろ姿を見送って、マルタさんが呟いた。
「慰問とは、被災した土地になさるものでは」
「ですから、探しにいらっしゃるのよ。……被災のかわりの、何かを」
慰問、ねえ。
うちの領は被災していない。それは王都がいちばんよく知っている。
時期を数えてみる。わたくしが上流を測ったのが半月前。あの番小屋から早馬が出て、教団の耳に入って、装束を仕立てて、旅支度をして——ぴたりと、合う。
「わたくしが『百年前』を測り始めたから、いらっしゃるのだわ」
だとすれば、向こうの目当ては測量帳である。
私はその足で、ガレンとピノを書き物机に座らせた。
「これから三日、写し物ですわ。上流の測量帳を二冊とも、三組」
「三組も? 同じもんを?」
「一組は城の書庫。一組はドナル親方の道具箱。もう一組は——ガレン、次の便で王都のリゼへ」
「……はあ。なんでまた、ばらけさせるんで」
「消せる場所に一冊しかないから、消えるのよ。……百年前の帳簿のように」
ガレンの筆が、途中で止まった。
「……なるほど。分けときゃ、まとめては燃やせねえ」
「ええ。記録は堤と同じですの。一箇所に高く積むより、低くても数を作るほうが保ちますわ」
三日目の夕方には、同じ帳面が六冊できあがった。ピノの写した頁だけ、数字がやたらと丁寧だった。
夜、水位標の前で、閣下に一部始終を話した。
閣下は目盛りを見たまま、長いこと黙っていた。それから言った。
「……会うのか」
「ええ。会いますわ。あちらの用件が、こちらの知りたいことですもの」
「あの女の涙は、水利権より強い水なんだろう」
「あら。よく覚えていらっしゃること」
「なら、掛け値なしの大水だ。……一人にはしない」
一人にはしない。行くな、ではなく。
この人の信頼の置き方は、いつも設計が正しい。私は少し笑って、目盛りに角灯を向けた。水位、平常。異常なのは人間の側だけである。
聖女様御一行は、三日後に着いた。
青い天蓋、聖歌、鈴の音。城下の広場で祝福を配る聖女様は、相変わらず可憐で、儚げで、完璧だった。広場の領民は半分が膝を折り、半分が腕を組んで眺めていた。うちの領民は、このごろ膝の使い方に主義がある。
そして夕刻、随行の僧が城へ、小さな封書を届けてきた。
中身は、たった二行。
『今宵、お月の出の頃、蛇行部の水位標の前にて。
お一人で。——鈴は鳴らさずに参ります』
面会場所に、夜の水位標を指名してきた。
わたくしの持ち場を。わたくしたちの持ち場を、ご存じの上で。
月の出まで、あと二刻。西の空に、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びていた。
本日の収支——夢一件、家伝の謎一件、手紙一通、符合三つ(=設計一つ)、測量帳の写し六冊。
聖女様のご指名は、夜の水位標。……あそこの観測仲間は、間に合っておりますのに。




