第18話:上流で、水を売る人
秋の川は、痩せて正直になる。
水位が下がると、川は骨格を見せる。どこで曲がりたがり、どこで暴れたがるか。夏の濁りが取れた浅瀬では、川底の石の並びまで読める。低水期の測量は、川の健康診断なのだった。
測量隊は、私と閣下、ドナル親方、ガレンと人足が五人。それから、留守番と言われて荷馬車に隠れていたピノである。見つけたときにはもう領境だったので、連れて行くほかなかった。
「セラさま、川って、上に行くほど小さくなるの?」
「そうよ。川は集めて太る生き物なの。山に降った雨が沢になって、沢が集まって支流になって、支流が集まって本流になる。だから上流で何かあると、下流ぜんぶに効くのよ」
「じゃあ、うちの領の水は、ぜんぶよその山の子なの?」
「まあ。……いい言い方をするわね、それ」
測量の仕事は、地味である。
瀬に縄を渡し、浮きを流して流れの速さを数え、川幅を歩測し、深さを竿で拾う。それを一日に何か所も。ピノは三日目には浮きの係を任され、ガレンは砂に埋まる荷馬車を三度担ぎ上げた。
閣下は道々、驚くほど地形に詳しかった。この尾根の向こうは雨が早い、この沢は秋でも涸れない。二十年の夜番は、地図にない地図を頭に持っている。
「閣下、その地図、写させてくださいまし」
「……頭の中のは、写せんぞ」
「では、道々ぜんぶ仰って。わたくしが帳面に写しますわ」
それから閣下は、ぽつり、ぽつりと、尾根と沢の名を言った。名のない沢には、その場で名を付けた。二人で名付けた沢が、三日で九つになった。測量というのは、土地と知り合いになる仕事でもある。
ところが。
二日、三日と遡るほどに、私の帳面は不機嫌になっていった。
〈細い。……細すぎるわ〉
支流を集めているのに、本流の水が思ったほど太らない。この山地の広さなら、低水期でもあと三割は流れていい。数字が、どこかで水を失くしている。
「閣下。この上流で、水はどこかへ消えます?」
「……昔から、上の水は読めん。渇きの年に限って、雨も降らんのに冬の出水が来る。親父の代からだ」
「溜めて、吐いている水の癖ですわね。それも、とびきり大きな器で」
答えは、領境の先にあった。
*
バルテル伯爵領との境、谷が狭まる場所に——堰があった。
立派な石積みの堰である。川幅いっぱいに水を堰き止め、背後の谷を細長い水鏡に変えていた。水鏡の縁には、水に浸かって立ち枯れた木々が、骨のように並んでいる。溜められた水の下に、谷がひとつ沈んでいるのだ。
ピノが黙って、私の袖をぎゅっと掴んだ。子どもの目にも、あれは川の姿ではなかったのだ。
堰の真ん中に通水門がひとつ。傍らに番小屋が建ち、高札が立っていた。
『通水御礼 銀十枚(月極) バルテル家水利方』
〈——参事官様の書付の、あの項目だわ。帳簿の一行に、ちゃんと現物があった〉
「……水に、値札が付いてますの」
呆れて読み上げていると、番小屋から早馬が出ていくのが見えた。そして半刻もしないうちに、上流から馬車が来た。よく肥えた馬に、よく肥えた紳士。指という指に石の指輪が光っている。
「やあやあ、これはこれは! 噂の『水の恵みの方』……いや、今は王国公認の治水責任者殿ですかな? それに黒狼のご領主どのまで。これは領境が華やぐ」
バルテル伯爵は、揉み手で笑った。コルネオ師の揉み手とは年季が違う。商いの揉み手である。
「初対面と存じますけれど、よくわたくしを」
「はっはっは。流域の耳は早いのですよ。王都で予算をお獲りになったそうで! いやめでたい。当家は三代、この堰で流域の安寧を守って参りましてな。いわば、ご同業だ」
「ご同業……」
「時にセラフィーナ殿。水も、タダではありませんぞ」
来た。揉み手の本題である。
「この堰は我がバルテル家が、私財を投じて築いた防災の要。下流の皆様が安全な水を享受なさるなら、応分のご負担を頂くのが筋というもの。なに、お安くしておきます。月に銀……いや、予算もおありだ。金五枚で」
「まあ。防災の要、と」
私は堰を眺めた。技師の目で、天端から基部まで、隅から隅まで。
溜めた水を安全に逃がす道が、どこにもない。洪水吐がない。底樋もない。あるのは水を止める壁と、銭を取るための門だけ。これは水を守る建物ではない。水を人質に取る建物だ。
しかも渇きの年に溜めて高く売り、器が危うくなれば黙って吐く。閣下の言う「雨も降らんのに来る冬の出水」の正体は、おそらくこれである。
「ご立派な堰ですこと。……修繕のご予定などは」
「はっは、ご心配なく。当家の水利方が万全に」
「左様ですの」
万全、の石積みの目地から、草が生えていた。それも根の張る、性質の悪い種類のが。
*
帰り際、妙なものを見つけたのはピノだった。
「セラさま、あそこ、道があるよ。……でも、へんなの。塞いであるの」
堰の脇から谷の奥へ、古い道の跡が延びていた。人ひとりぶんの幅だが、よく見れば路肩に石が組んである。荷を運んだ道だ。それも、大昔に。
その入り口に杭が打たれ、青い札が下がっている。
『水神の聖域につき、立入りを禁ず 水神教グランヴェル大聖堂』
教団の禁域。それも、街道からわざわざ外れた、こんな山中に。
札は新しかった。けれど杭の根元は苔むして、何代も打ち替えられてきた古さだった。
「バルテル卿。この奥は」
「ああ、それには触れなさるな。教団様の聖域でしてな。当家も代々、立ち入らぬ約束で……おっと、商談のお返事は、ゆっくりで結構。水は逃げませんからな! ——逃がすも止めるも、当家次第ですが。はっはっは」
肥えた馬車が上流へ戻っていく。
その間ずっと、ドナル親方が黙って堰の基部を睨んでいた。帰り道になっても、親方は口を開かない。野営の火を囲み、ピノが寝入ってから、ようやく低い声で言った。
「……嬢ちゃん。あとで、二人で話がある」
「あら、改まって。何を見ましたの」
「あの堰の、いちばん下の石だ。新しい石積みの下に、古いのが埋まってた。水際の三段ぶんだけ、色も苔も別物の——あの積み方に、わしは見覚えがある」
焚き火が爆ぜた。閣下が薪を足しながら、こちらを見た。
北の空は晴れて、山の稜線が黒々と高かった。あの向こうに、水を売る人と、立入りを禁じられた谷がある。
本日の収支——測量帳二冊、通水料の見積もり一通(法外)、禁域の札一枚、親方の宿題一件。
水に値札を付ける人に会いました。……値札の裏を、めくりたくなりますわね。




