第17話:謝罪は、正価で申し受けます
王太子アルディス殿下は、供回り二十騎で来た。
行列は立派だったが、道は立派ではなかった。秋の雨でぬかるんだ辺境の街道に、王都仕込みの車輪が二度嵌まり、二度とも領民の牛に引き上げてもらったという。牛に礼を言う王家の護衛というのは、なかなか見られるものではない。
そして——断罪の夜、玉座の階の上から私を見下ろした人が、いま、うちの城の広間で客用の椅子に座っている。世の中の水位は、測っている間にも動くものである。
殿下の後ろには、ヴェルナー参事官が影のように控えていた。目の下の隈が、十日前より一段深い。
「セラフィーナ。……息災か」
「おかげさまで。追放先が、性に合いましたの」
殿下の頬が、ぴくりと動いた。名目は「南部被災地の視察」だそうだが、王都からここまで、視察すべき被災地はうちの領しかない。そしてうちの領は、被災していない。
「単刀直入に言う。王都へ戻ることを許す。水防の指揮を執れ。……働き次第では、婚約の件も、考え直してやらんでもない」
広間の空気が、氷点まで下がった。
マルタさんが盆を持ったまま固まり、ガレンの首が鳴り、閣下の周りだけ空気が黒くなった。
〈……この御方、命乞いの作法で求婚なさるのね〉
私は、笑ってしまわないように苦労した。
「殿下。ひとつずつ参りましょう。——まず、東地区の死者は何人でしたの」
「……は?」
「浸水は三百世帯と伺いました。堤の低いあの地区で、逃げ遅れは。数字はもうお手元にあるはずですわ」
殿下は答えなかった。かわりにヴェルナー卿が、静かな声で数字を言った。
私は目を閉じた。前世の耳に、あの夜のサイレンが遠く鳴った。膝まで来た黒い水と、呼んでも返らない声。世界が変わっても、水に呑まれる町の音は同じである。
「……その方々は、天災で亡くなったのではありませんわ」
「なんだと? あれは百年に一度の長雨で」
「雨は天災です。水害は人災ですの。——五か月前、東地区の改修を止める決裁が下りております。わたくしの持参金で進んでいた、あの工事を。決裁の署名は、どなたでしたかしら」
殿下の顔から、血の気が引いた。
署名が誰のものか、この広間で知らないのは領の犬くらいである。罪人の持参金で工事を続けるわけにはいかない——それが表向きの理由だったと、リゼの手紙にはあった。
「よ、余は……水のことなど専門ではない。止めてよいと進言した者らが」
「進言に署名なさったのは、殿下ですわ。ペンは、持った人のものですの」
「……」
「わたくしを断罪なさったことは、もうよろしいの。冤罪は、生きてさえいれば晴らせますから。ですが殿下、あなたは水路まで断罪なさった。水路には、なんの罪もございませんでしたのに」
「……き、貴様……」
「殿下」
低い声がした。閣下が、一歩前へ出た。
「この領では、水の前で嘘をついた者から順に沈む。……ここは、そういう土地だ」
「な——辺境伯、貴様、王族への物言いを」
「物言いではない。観測記録だ」
*
沈黙を破ったのは、ヴェルナー卿だった。
「殿下。……お運びくださいませ。本日の、ご用向きを」
殿下は長いこと動かなかった。それから、奥歯を噛み潰すような顔で、懐から一本の書筒を出した。王家の封蝋。
卿が受け取り、広間の中央で開いた。
「——国王陛下の名において布告する。セラフィーナ・ローウェルに関わる先の断罪は、証言の偽りによる誤りであった。王家はこれを撤回し、その名誉を回復し、公式に謝罪する。持参金は利息を付して返還し、東地区水路の改修を本人の設計により再開する。あわせて王国国庫に、ヴェルガ流域治水の予算枠を新設する——」
三つの条件が、一言一句、呑まれていた。
つまり殿下は今日、謝罪の布告を届けに来たのである。ご自分を断罪の場から引きずり下ろす紙を、ご自分の手で。復縁の申し出は、その道中で思いついた、精一杯の面子だったのだろう。
「布告は、領の広場でも読み上げますの?」
「……お望みとあらば」
「望みますわ。ここには、『魔女』と呼ばれた者がおりますので」
その日の夕方、広場に領民が集まり、布告が読み上げられた。
冤罪、という言葉が読まれた瞬間、広場が揺れた。ピノが泣いた。マルタさんも前掛けで目を押さえた。古老は「知っとったわい」と威張り、ドナル親方は「石より確かなもんはねえが、紙も偶には仕事をすらあ」と鼻を鳴らした。
川向こうから来ていたオルムの村長が、帽子を脱いで、深く低頭したのが見えた。「魔女」の呼び名は、あの村から出たのだ。呼び名の川も、流れが変わる。
知っていた人が千人いる冤罪も、公式に晴れるまでは冤罪なのだ。紙とは、そういうものである。
読み上げの間、閣下がずっと隣に立っていた。
「……晴れたな」
「ええ。空も、看板も」
冤罪というものは、晴れてみて初めて、どれだけ重かったかが分かる。肩から下ろした荷の重さは、下ろした後にしか量れない。帰り道、私は少しだけ、上を向いて歩いた。
*
「……最後に聞く。婚約の件は」
帰り際、馬上の殿下が言った。往生際の悪さも、ここまでくるといっそ立派である。
「あら。あの椅子でしたら、水に浸かりましたでしょう」
「……なに?」
「濡れた椅子に乾かないうちから座り直すと、人も椅子も腐りますのよ。——どうぞ王都で、座る資格のご普請から」
殿下は真っ赤になった。それから、私の隣に立つ閣下を睨んだ。
「……辺境伯。その女は本来、余のものになるはずだった」
「人は、水と同じだ」
閣下は、眉ひとつ動かさなかった。
「誰のものでもない。堰き止めれば腐り、流れたい方へ流れる。——あんたはそれを、断罪の夜に習ったはずだ」
殿下は捨て台詞を探して、ようやく見つけた。
「……聖女が言っていたぞ。この地の水は神のものだと。神のものを弄ぶ者は、いずれ神に呑まれると!」
二十騎の土埃が遠ざかったあと、閣下がぽつりと言った。
「……聖女、か」
「ええ。気になりますわね。——なぜ聖女様が、この地の水の話を」
*
行列の最後尾から、馬が一頭だけ引き返してきた。ヴェルナー卿である。
卿は馬を下りると、懐から書付を一枚出した。
「治水の予算枠を作るにあたり、流域の出納をさらいました。……お渡ししてよいものか、道中ずっと迷っておりましたが」
「あら。迷った紙ほど、面白うございますのよ」
広げて、目が止まった。
ヴェルガ流域から国庫へ上がるはずの銭が、上流の領境で毎月、外へ流れている。名目は『通水御礼』。バルテル伯爵家へ、三代ぶん、律儀に。
「……水を通していただく御礼、ですって」
「国庫は『流域の安寧を守る費え』として、代々黙って通してまいりました。——貴女なら、これを帳簿の項目ではなく、現地の何かとしてご覧になる。私にはそれができません」
卿は一礼して、馬首を返した。目の下の隈が、来たときより少しだけ薄かった。
*
広場ではまだ祝いの声が続いていた。
私は書付を畳んで、北の空を見た。あの山の向こうで、誰かが毎月、水の御礼を受け取っている。受け取れる者は、受け取らないこともできる者だ。
夕暮れの水位標は、平常。——ただし平常とは、上流の誰かがそう決めている、というだけの話である。
本日の収支——謝罪一通、賠償ひと箱、予算一枠、冤罪の看板撤去一件。殿下の面子、水没。おまけに、妙な書付が一枚。
上流では、水がお金に変わっているそうです。……どなたの手が、栓を握っていらっしゃるのかしら。




