第16話:恩赦は、お断りいたします
王都の使者団は、雨上がりの街道を、泥を避け避け来た。
馬車が二両、護衛が十騎。城下の通りには、見物の領民がずらりと並んだ。並んだが、誰も膝を折らない。腕を組み、鍬を担いだまま、値踏みの目で行列を眺めている。半年前なら、王家の紋を見ただけで道の端に平伏した人たちである。
沈まなかった夏は、人の背骨から変えるらしい。
「セラさま、あの人たち、また断罪しに来たの?」
「さあ。今日の演目は、まだ聞いていないの」
先頭で馬を下りたのは、目の下に立派な隈を飼った中背の文官だった。宰相府参事官、ヴェルナー卿と名乗った。
随行の中に、青い法衣がひとり交ざっていた。教団の記録係だそうである。王家の使者にまで、水神教は枝を張っているらしい。
城の広間で、ヴェルナー卿は書状を広げた。
「——セラフィーナ・ローウェルの罪科は、聖女ミレーヌ様の寛大なる取りなしにより、特に恩赦とする。ついては速やかに王都へ帰還し、水防の指揮を執ることを許す。……以上にございます」
広間の隅で、マルタさんの眉がみるみる逆立った。ガレンに至っては、聞こえよがしに指の骨を鳴らしている。
私は、できるだけ丁寧に訊き返した。
「恩赦、ですの」
「殿下の、格別のお慈悲にございます」
「まあ。……ですが参事官様、恩赦とは、罪ある者に賜るものですわね」
ヴェルナー卿の目が、すっと細くなった。
「これを受け取れば、わたくしの『悪逆』は本物になります。聖女様を突き落とし、装束を裂き、清めの水に泥を混ぜた罪人が、慈悲で許されて水防を指揮する——王都の皆様は、罪人の引いた水路の下で眠れますの?」
「……」
「それに、取りなしてくださったのが聖女様というのも、妙な話ですわ。突き落とされた方の取りなしで、突き落とした罪が許される。まるで水が、下から上へ流れるような水路ですこと」
書記官の筆が止まり、青い法衣が身じろぎした。
ヴェルナー卿だけが、動かなかった。
「……では、お受けにならぬと」
「恩赦は、お断りいたします。わたくしが頂戴していない罪は、お慈悲でも頂戴できません」
広間が静まった。
けれど参事官は怒らなかった。かわりに、隈の浮いた顔をわずかに伏せた。
「……率直に申し上げます。東地区の水は引きましたが、泥が残り、井戸が濁り、熱を出す者が出始めました。死者は、まだ数え終わっておりません。私は交渉の前に、まずそれをお伝えせよと——いえ」
卿は言い直した。
「伝えたくて、参りました」
この人は、まともだ。まともな人が使者に選ばれるくらい、王都は追い詰められている。
私は席を立ち、書き物机を広間へ運ばせた。
「なら、話が早うございますわ。——政治と人命は、帳簿が別ですの」
その場で、指示書を書き始めた。
排水は水の出口から先に啓くこと。低い側から掻き出しても、水は戻ってくるだけであること。濁った井戸には蓋をして、飲み水は必ず沸かすこと。泥は乾いて舞う前に運び出すこと。破れ堤の応急の縫い方と、蛇籠の編み方。人手の割り振りは、力自慢を排水に、手先の利く者を井戸に。
前世で百回書いた種類の、いちばん命に近い紙である。水が引いた後の町で人を殺すのは、水ではなく、濁った一杯と乾いた泥埃なのだ。
書きながら、横目でマルタさんに頼んだ。
「マルタさん。お台所に伝えて、干し薬草の在庫をありったけ。熱冷ましになる分は、使者団の荷に載せてしまいますわ」
「……敵方に、でございますか」
「病人に、ですの」
書き上げた指示書を、ヴェルナー卿は三度読み返した。それから深く、腰から頭を下げた。
「……私見を申し上げれば。貴女を追放した王都に、貴女のこの紙を受け取る資格があるのか、疑わしく思います」
「資格は問いません。水は、人の資格を待ってくれませんもの。——これは無償で差し上げます。今夜のうちに早馬で。疫病は、水が引いた後から来ますのよ」
*
「して——本題の、水防の指揮の件は」
「お受けする条件を、三つ申し上げますわ」
私は指を一本ずつ立てた。
「一つ。恩赦ではなく、撤回を。あの断罪が誤りであったと、国王陛下の名の布告で。謝罪の一文も添えていただきます」
「……二つ目は」
「持参金の返還。利息を添えて。ただし全額、東地区の水路改修へお戻しなさいまし。もともと、あの水路のためのお金ですの」
「三つ目は」
「東地区の改修を、わたくしの設計で再開すること。あわせて王国の帳簿に、ヴェルガ流域の治水予算の枠を作ること。——わたくしの身柄は、差し上げません。わたくしはアルドナート領の治水責任者。雇い主は、こちらの閣下ですわ」
それまで黙って聞いていた閣下が、腕を組んだまま口を開いた。
「王都が欲しいのは、この人の頭だ。頭だけ借りたいなら、正しい言葉がある。——恩赦でも帰還でもない。『発注』だ」
「発注、にございますか」
「うちの治水責任者は高いぞ。なにせ領一つ、沈まなくした」
ヴェルナー卿の口の端が、初めてかすかに緩んだ。
「……実は、この目で見るまで信じておりませんでした。あの嵐で沈まなかった領があるなど、王都では誰も。ですが街道から見ました。刈り入れの済んだ田と、新しい水路と、屋根の直った村を。……持ち帰り、言上いたします。ですが」
卿は声を落とした。
「布告と謝罪となれば、殿下のお立場が。……もしや殿下ご自身が、返答を持ってお越しになるやも」
「あら。それはそれは」
どんな顔でいらっしゃるのかしら。少なくとも、断罪の夜の顔ではないでしょうけれど。
*
使者団が発ったあと、ガレンが妙な報告を持ってきた。
「セラ様。あの青い法衣、滞在中ずっと妙なことを訊いて回ってやしたぜ。——水路のことじゃねえ。『上流の測量はいつやるのか』『どこまで測るのか』って。人足の若いのに、酒まで奢って」
「……上流を、ね。それで、若い衆はなんと」
「『親方とセラ様しだいでさ』と。ま、ほんとのことで」
東地区の話は一度もせず、上流の話ばかり。
教団の記録係は、いったい何を記録しに来たのだろう。記録というものは、残すためではなく、備えるために取る者もいる。前世でも今世でも、帳簿のいちばん暗い使い道である。
夕方の水位標は、平常。空は高く、秋の鰯雲が北の山の上に薄く伸びていた。
あの山の向こうから、ヴェルガは来る。まだ一度も測ったことのない、上流から。
本日の収支——恩赦一件、返品。応急指示書一冊、無償進呈。薬草ひと箱、おまけ。条件三つ、出荷待ち。
次の便は、殿下ご本人の見込みだそうです。……応対の在庫が、あったかしら。




