第15話:収穫祭と、王都の濁流
王都からの書状は、絶品だった。
いわく、此度の嵐によりヴェルガ流域諸領は甚大な被害を受けたものと思われる。いわく、各領は被害を速やかに報告せよ。いわく、王都も長雨の対応で手一杯につき、救援・免税の類は一切期待するな。
救援を求められる前に断ってくるあたり、実にお役所仕事である。
「返書はどうする」
閣下に問われて、私は筆を執った。報告はありのままに。
『アルドナート領、流失家屋ゼロ。死者ゼロ。浸水三十九軒は再建中。救援は無用。
——なお、老婆心ながら申し上げます。上流域の長雨、いまだ土に残っております。王都におかれては東地区の水路の浚渫と堤の点検を、今すぐ。雨は、まだ終わっておりません。 セラフィーナ』
返事は、来なかった。
嘲笑が聞こえた気はした。国境の沼地から王都の心配とは、と。
*
それから、ひと月。
アルドナート領は、生まれて初めての夏を過ごした。——沈まなかった夏である。
オルム村では新しい分水路が掘り進み、約束どおり村の若い衆が先頭で鍬を振るった。
葦の海に水を運んだ旧水門は、ドナル親方が惚れ惚れと修繕し、開け閉めの利く本物の水門に生まれ変わった。
そして復田一年目の氾濫原では、泥の栄養をたっぷり吸った早生の麦が、金色の穂を垂れた。
初穂の刈り入れが済んだ晩、城下の広場で収穫祭が開かれた。
この領に収穫祭の習わしはなかった。祝う収穫が、なかったからだ。だから何もかもが初めてで、何もかもが不格好で、何もかもが眩しかった。
篝火。笛と太鼓。麦酒の樽。踊りの輪。
広場の真ん中には、初穂の束が飾られた。その隣に、なぜか私の古い測量杭が一本、花で飾られて立てられていた。誰の仕業か問い詰めたら、ガレンが口笛を吹きながらよそを向いた。
ドナル親方は樽を椅子に、若い石工見習いたち——嵐のあと、弟子入り志願が三人も来たのだ——を相手に、旧水門の石積みの講釈を延々とぶっていた。酒が入ると、教えたがりに拍車がかかるらしい。
「見ろよ、閣下が笑ってなさる」
「嘘つけ……ほんとだ」
人足たちがどよめいている。広場の隅では、ガレンが片腕の弓兵と肩を組んで軍歌を歌い、ピノは子どもたちの輪の真ん中で、嵐の夜の英雄譚を三割増しで語っていた。
私はマルタさんと、屋台で揚げ菓子を売っていた。前世の記憶から起こした、蜂蜜がけの麦の揚げ菓子である。素朴のきわみだが、揚げたてに勝る菓子はない。
列の先頭は、カセル村の古老だった。麦を三俵、どすんと屋台の前に積む。
「なんですの、これ」
「賭けの払いじゃ。『三月で逃げる』に、わしは二俵張っとった。負けの二俵に、詫びの一俵」
「あら。負けた側が詫びるんですの?」
「賭けたこと自体が、詫びもんじゃろうが」
言い捨てて、古老は菓子をひと掴み、器用にさらって行った。詫びの一俵より、菓子のほうが高くつく掴み方だった。
「はい、次の方——あら」
黒い外套が、屋台の前に立っていた。
「……ひとつ」
「まあ。おひとつで、よろしいの?」
「…………ふたつ」
閣下は銅貨を置き、菓子を二つ受け取ると、一つをその場で囓り、もう一つを袖の内へするりと仕舞った。相変わらず見事な手際である。
が、その袖に、マルタさんの目が光った。
「旦那様。集会の日も、菓子がふたつ消えました」
「……知らん」
「左様でございますか。では今のは幻で」
「————みっつ、くれ」
観念した黒狼が三つ目を求めたので、私は笑いをこらえるのに、その年いちばんの苦労をした。
*
夜が更けて、私は篝火の輪を離れ、蛇行部の水位標へ登った。癖である。祭りの晩でも、水位は水位だ。
目盛りは、憎らしいほど平常だった。
振り返れば、丘の下に祭りの灯りが揺れている。笛の音が、風に乗って切れ切れに届く。一年前、ここは「三月で逃げ帰る土地」だった。壁の泥の線と、戸板を打ち付けた空き家と、諦め方の上手な人たちの土地だった。
その土地が、いま、歌っている。
「……ここだと思った」
振り向くと、閣下がいた。夜番仲間は、相棒の居場所をよく知っている。
閣下はしばらく黙って、私と並んで目盛りを見ていた。それから、前置きの下手な人らしく、いきなり本題を言った。
「雨季が、終わった」
「ええ。終わりましたわ」
「……最初の約束を、覚えているか。雨季が来る前に出て行け、と言った。あんたは出て行かなかった。それどころか」
閣下は、祭りの灯りに照らされた領地を見下ろした。金色の刈り田。灯りの点る村々。眠っている水門。
「この土地を、変えちまった」
「契約ですもの。あと二年と少し、働かせていただきますわ」
「そうじゃない」
閣下は私に向き直った。琥珀色の目が、篝火を映して揺れていた。
「契約の話じゃ、ない。……残ってくれ。三年と言わず、その」
言葉が、そこで立ち往生した。
戦場の黒狼は、耳まで赤くなって、右手で首の後ろをぐしゃりと掴んだ。
「……その、なんだ。つまり」
「はい」
「この領には——俺には、あんたが要る」
水位標の白い目盛りが、月明かりに浮かんでいた。
私は前世と今世を合わせて初めて、観測記録に残せない速さで心臓が動くのを知った。
「……治水は、三年では終わりませんの」
精一杯の平静を装って、私は答えた。
「百年ぶんの宿題も見つけてしまいましたし、水門の謎もありますし、オルムの堤も来年までですし——ですから、その」
装いきれなかった。頬が熱い。
「末永く、働かせていただきますわ。……この領で」
「……そうか」
それは、蜂蜜がけの「そうか」だった。
*
——その夜半。
祭りの火が落ちかけた頃、城の門前に、馬が倒れ込んだ。
二騎目の早馬だった。使者は泥と汗にまみれ、その顔は、ただ事ではない色をしていた。
「王都が——」
使者は、譫言のように繰り返した。
「王都が、水に沈みました」
長雨の果ての大水。王都を貫く川の氾濫。真っ先に呑まれたのは、堤の低い東地区——改修が、五か月前から止まったままの。
被害は数え切れず、王宮の膝元まで水が達し、殿下の名で出された「天災につき已むなし」の布告に、水浸しの民が石を投げたという。
そして使者は、震える声で付け加えた。
「王宮より、追って正式の使者が参ります。その……『アルドナート領に嫁したセラフィーナ様に、火急、王都までご足労願いたい』と……」
閣下の眉が、剣呑に寄った。
私は、リゼの最新の手紙を思い出していた。末尾に、走り書きで添えられていた一文を。
『——妙なことがもうひとつ。大水の朝、聖女様だけは夜明け前から大聖堂におられ、裾ひとつ濡らされなかったそうです。まるで、水の来る朝をご存じだったかのように』
水は、嘘をつかない。
では、あの断罪の夜から嘘をついていたのは——誰?
夜風が、篝火の残りを揺らした。
王都の方角の空は、厚い雲の底で、鈍く光っていた。
観測記録——当領の水位、平常。王都の水位、氾濫。人の心の水位、急上昇中。
次の便りは招へい状か、詫び状か。……どちらにせよ、頭を下げる相手を間違えないでいただきたいものですわ。




