第14話:守られなかった村へ
嵐の三日後、私はオルム村へ渡った。
供はマルタさんと、荷馬車が三台。積み荷は炊き出しの大鍋と、乾いた毛布と、城の蔵から出した種籾である。
村は、泥の色をしていた。
水は引いていた。けれど床上まで浸かった家々は、壁に新しい泥の線を刻み、庭には流木と泥が居座っている。井戸端で、女たちが無言で家財を洗っていた。
乾かない布団が、生垣という生垣に干されていた。泥を吸った書き付けや、誰かの祝いの品らしい欠けた皿が、家々の前に「捨てる山」と「まだ捨てられない山」に分けて積まれていた。
水害のあとの村の匂いを、私は前世からよく知っている。泥と、湿った藁と、薪にならない濡れた木の匂い。何度嗅いでも、慣れることはない。慣れてはいけないのだと思う。
その泥の広場に——青い法衣が立っていた。
コルネオ師だった。
「おお、おお、皆の衆、見なされ! 魔女がのこのこと参りましたぞ!」
揉み手の司祭は、ここぞとばかりに声を張り上げた。
「聞けば向こう岸の村々は、水路とやらで守られたそうな! だがこの村は? 見なされ、この有様を! 魔女はの、水路で水を曲げて、あぶれた水をこの村へ押し付けたのじゃ! 神罰は、魔女に与した者にだけ下る——大司祭様の仰せのとおりになったわい!」
泥だらけの村人たちの目が、一斉に私を向いた。
疲れ切った目だった。怒りの持って行き場を探している目だった。
私は荷馬車を降り、広場の真ん中まで歩いて——頭を、下げた。
「オルム村の皆様。……守れませんでした。申し訳ございません」
広場が、静まった。
「な、なにを殊勝なふりを」
「ふりではございませんわ、司祭様。工期九十日のうち、この村の分水路だけが間に合わなかった。それはわたくしの段取りの結果です。三十九軒の泥は、わたくしの帳面の負けの数字。言い逃れはいたしません」
頭を上げて、私は村人たちを見渡した。
「ですから、約束を果たしに参りました。まず炊き出しと毛布。それから種籾——流された分は、城の蔵から無利子でお貸しします。泥出しには明日から人足百人を回します。そして来年の雨季までに、オルムの分水路と堤を、領内のどこよりも先に仕上げます。……この村は今年、いちばん重い荷を背負ってくださいました。次は、いちばん先に守られる番ですわ」
マルタさんが荷馬車の幌を上げ、湯気の立つ大鍋と、種籾の俵を見せた。
言葉だけの約束と、荷を積んで来た約束は、重さが違う。村人たちの目が、私と俵の間を、何度も往復した。
「……ほんとうに、来年までに」
「ええ。なんなら証文を書きますわ。わたくし、契約書だけは得意ですの」
「だ、騙されるな! 魔女の口車じゃ!」
コルネオ師が割って入る。
「そもそも水を押し付けたのはこの女——」
「司祭様。ひとつ、伺っても?」
私は帳面を開いた。
「嵐の晩、ヴェルガの水位は蛇行部で天端から指四本まで参りました。もし分水路がなければ、水は堤を越えて、ロディも城下も、この村も、まとめて呑まれています。オルムに来た水は、上流の古い破れ堤から溢れた分。……水の出納は、ぜんぶこの帳面にございます。ご覧になります?」
「そ、そんな帳面、誰が読めるか!」
「あら。では読める話をいたしましょう。——司祭様は嵐の晩、どちらに?」
コルネオ師の揉み手が、止まった。
「わたくしは蛇行部の堤の上に。閣下も、人足の皆さんも、泥の中におりました。オルムの避難は前日のうちに、教会堂は? そう、丘の上の教会堂をお借りしました。あの晩、村人百三十一名を受け入れてくださった堂守の方には、感謝しかありません。……で、司祭様は、どちらの泥の中にいらっしゃいましたの?」
答えは、なかった。
嵐の晩、巡回司祭が川向こうの町の宿にいたことは、村の誰もが知っていた。
静寂を破ったのは、しわがれた笑い声だった。
井戸端の古婆が、泥のついた手を振りながら進み出てきた。
「——魔女はよう、頭なんぞ下げんもんじゃ」
古婆はコルネオ師と私を見比べて、ふん、と鼻を鳴らした。
「百三十一人、猫の子一匹欠けとらん。わしゃ嵐で人が死ななんだ年を、生まれて初めて見たわい。家は泥を掻きゃあ済む。死んだもんは、掻いても戻らん。……のう、司祭様よ。あんたの神罰とやらは、ずいぶん手ぬるいのう?」
どっ、と笑いが弾けた。
泥だらけの、しかし確かな笑い声だった。コルネオ師の顔が蛸色に染まる。
「こ、この、罰当たりどもが——」
「帰り道は気をつけろ、司祭殿」
低い声がした。いつの間にか、閣下が荷馬車の陰から出てきていた。肩に泥出しの鋤を担いだ、領主様である。
「西の橋はまた架け替えた。……冒涜の橋だ、あんたには渡れんだろう。遠回りして帰れ」
青い法衣は、今度こそ、捨て台詞もなく退散した。
*
その日、私たちは日暮れまで泥を掻いた。
泥出しというのは、単純で、果てしない。掻いて、運んで、また掻く。腰が鳴り、爪の間が真っ黒になる。それでも人手が多ければ、確実に減っていくのが泥のいいところだ。夕方には、最初の一軒の床板が、木の色を取り戻した。
床板が見えたとき、その家の女主人がひっそり泣いたのを、私は見なかったふりをした。
閣下は黙々と鋤を振るい、マルタさんの大鍋は三度空になり、ピノは子どもたちの泥団子の的にされていた。的にされながら、まんざらでもなさそうだった。友達の作り方として、泥団子は存外正しい。
帰り際、オルムの村長が私の前に立った。嵐の前、広間で拳を震わせていた人だ。
「……来年の雨季までに、と言いなすったな」
「ええ。約束ですわ」
「——手伝わせてくれ。うちの若い衆を、そっくり人足に出す。自分の村の水路だ。よそ様の手だけで掘られちゃあ、寝覚めが悪い」
私は、深く頷いた。
守られなかった村が、掘る側に回る。それはたぶん、この領の水が変わることの、いちばん確かな印だった。
*
帰りの荷馬車で、マルタさんがぽつりと言った。
「オルムの衆が、掘る側に回るなんてねえ。……去年の今ごろは、村同士、水の押し付け合いで鍬を振り上げていたんですよ」
「水が敵のうちは、人間同士で戦うしかありませんもの。敵が変われば、味方も変わりますわ」
城へ戻ると、門前が騒がしかった。
見れば、乗り潰した馬から、泥まみれの男が転げ落ちるところだった。汗と泥の下に、金糸の制服。王家の徽章をつけた——早馬の使者。
辺境のアルドナートまで、王都の早馬なら五日。それを、馬の様子からすると三日足らずで駆けたらしい。よほどの火急である。
「ア、アルドナート辺境伯閣下に、火急の……王都より、火急の御用にございます……!」
使者の声は、掠れきっていた。
閣下と私は、顔を見合わせた。
夕焼けの空は、嵐のあとらしい、嘘みたいな茜色だった。
王都のほうの空の色だけが、なぜだか少し、濁って見えた。
本日の収支——泥、たくさん。笑い声、それなり。司祭様の顔色、蛸。
それから王都より早馬一騎。……火急の御用の中身は、次回。




