↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/52

第13話:嵐の夜(後編)——百年前の水門

 水門小屋の図面の上で、私の指は止まっていた。


 二号分水路、満量。三号、満量。カセルの遊水地、九分五厘。

 そこへ、谷からの水が乗る。あと半刻もすれば、蛇行部の水位は締め堤の天端を越える。越えれば、笑うとか泣くとかの話ではない。堤ごと持っていかれ、ロディ村も城下も、九十日の仕事ごと水の底だ。

 逃がす先は、もうない。

 溜める部屋も、もうない。

 私は勘定を、頭の中で三度やり直した。分水路の呑み代。遊水地の残り。堤の天端までの指四本。谷からの水の速さ。どう組み替えても、答えの側だけが動かない。

 九十日は、足りなかった。それだけのことだった。それだけのことが、村三つぶんの灯りの重さをしていた。


「セラ様、指示を! どこを守りやす!?」


 ガレンの声が遠かった。

 雨音の向こうで、別の音を聞いていた。——サイレン。無線の砂嵐。真っ黒い水が防潮堤の照明を呑んでいく音。誰かの手を掴みそこねた、あの夜の音。


〈ああ。……また、守れないの〉


 指先が冷えていく。前世の最期が、泥水みたいに胸に上がってくる。

 そのときだった。


「セラさま!」


 びしょ濡れのピノが、水門小屋に飛び込んできた。丘の鐘番のはずの子が、鐘綱を放り出して走ってきたのだ。叱るより先に、ピノは首から提げた宝物を突き出した。


「これ! これ、見て! さっき雷が光ったとき、字が見えたの! セラさまがいつも言ってるやつ!」


 角灯の下、濡れた石の表面に、磨り減った刻み文字が浮かんでいた。

 古い書体。読める。読めてしまった。


 ——水ハ、嘘ヲ吐カズ。


「…………ピノ。この石、どこで拾ったの」

「上の谷! 葦のかげの、石ころだらけの土手! 場所、おぼえてる!」


 水門小屋の戸口で、ずぶ濡れのドナル親方が、目を見開いていた。


「……上の谷の、石の土手だと? 嬢ちゃん、そりゃあ——じいさまの言ってた『開かずの門』だ。山裾に、石の門が埋まってる。開けちゃならん、水神様の門だと」

「開けちゃならない門ですって?」


 私は図面を引っ掴んだ。上の谷。旧河道の、いちばん太い筋の始点。

 全部の線が、一点で繋がった。


「——それ、水門よ!」


 *


 嵐の中を、走った。

 私、閣下、ドナル親方、ガレンと若い衆が五人。ピノは今度こそ丘へ戻した。

 道はもう、道ではなかった。風が横から体を押し、雨が礫みたいに顔を打つ。閣下が先頭で藪を剣で払い、親方が道具袋を抱え、私は図面を蓑の下に抱いて、泥の斜面を這うように登った。

 谷に近づくほど、音が変わった。雨の音でも、川の音でもない。地面の底が鳴るような、太い水の唸り。

 谷の口は、水を吐き続けていた。その水際の斜面、百年ぶんの土砂と藪の下に——それは、あった。


 石の壁だった。人の背丈の三倍。布積みの石が、闇の中で濡れ光っていた。

 中央に、青銅の巻き上げ軸。両脇に、楔で噛ませた石の扉。


「じいさまの布積みだ……いや、違う。これが本家か……!」


 ドナル親方の声が震えた。五代伝わった家伝の積み方が、目の前の壁と寸分違わなかった。


「親方! 見惚れるのは後! この門、旧河道の大元に水を落とすためのもの——開けば、谷の水ごと葦の海へ逃がせます! 開け方は!?」

「楔石だ! 扉の楔を先に抜かんと、軸が回らん! だが百年もんの噛みだぞ、抜けるか——」


 角灯を近づける。楔は三本。石の目に沿って、寸分の狂いなく打ち込まれている。百年前の職人は、いつか誰かが抜くことまで考えて打ったのだろう。抜く順まで、彫りで示してあった。右、左、中央。


「順番がありますわ! 右から!」

「抜く」


 閣下が、進み出た。

 鉄梃を楔に噛ませ、戦場の黒狼が、腰を落とす。


「……ぬ、おおおおっ!」


 石が、悲鳴を上げた。

 一本。二本。ドナル親方が玄能で目地を叩いて緩ませ、若い衆が縄で引く。三本目の楔が抜けた瞬間、扉の奥で、ごん、と何かが目を覚ます音がした。


「軸に取り付け! 全員で回すの! 水が乗れば、あとは水が開けてくれます!」


 六人がかりで、青銅の軸に体重を掛けた。

 軋み。錆の粉。掌が灼ける。

 ——動いた。


 指一本ぶん。指二本ぶん。石の扉の下から、水が細く走り出す。走った水が扉を叩き、隙間をこじ開け、そして。


 ずん、と地面が鳴った。


 百年眠っていた水門が、開いた。

 最初は細い滝だった。それが扉を押し広げるたびに太くなり、束になり、やがて石の喉いっぱいの奔流になった。飛沫が霧になって噴き上がり、雷光に白く灼ける。

 谷の水が、咆哮しながら石の喉へ雪崩れ込む。旧河道の太い筋を、白い波頭が一直線に駆け下っていく——村とは反対の、葦の海へ。

 誰も、声を出さなかった。

 出せなかったのだ。百年前の誰かの仕事が、いま目の前で、百年ぶんの水を呑んでいた。人の手が積んだ石が、これほどのものを呑めるのだと、私たちは初めて知った。


「……行った」


 ガレンが、へたり込んだ。


「行きやがった! 水が、行きやがった——!」


 若い衆が抱き合い、泥の上に大の字になった。ドナル親方は石壁に額を押し当てて、何かをずっと呟いていた。じいさまへの報告だったのだと思う。

 夜明けの最初の光の中で、私は水位標を見た。

 蛇行部、天端まで指四本を残して——下降に、転じた。


〈間に合った〉


 前世で言えなかった言葉を、私は泥の中で、初めて言えた。


 *


 風が抜け、東の空が白んでいく。

 角灯を掲げて、私たちは開いた水門をあらためて見上げた。

 扉の上部、水垢の下に、刻みがあった。ドナル親方が袖で拭う。


 現れたのは、文字と——紋章だった。


『水ハ嘘ヲ吐カズ。故ニ人、水ニ誠ヲ以テ応フベシ』


 その銘の真上に、双頭の鷲が翼を広げていた。

 この王国で、双頭の鷲を戴くことを許される家は、ひとつしかない。


「……王家の、紋」


 閣下が、呟いた。それから銘文を読み——凍りついた。


「閣下?」

「……この言葉」


 琥珀色の目が、揺れていた。


「母の、口癖だ。『水は嘘をつかない』——寝物語に、何度も。……なぜ、それが、こんな山裾の門に」


 私は答えられなかった。

 私の口癖は、前世の現場の言葉だ。それが百年前の水門に刻まれ、亡くなったお母様の口癖で、ドナル家五代の石積みの本家がここにある。


 百年前、この土地に、誰かがいた。

 水の道を知り、石の積み方を教え、この言葉を遺した、誰かが。

 そして——王家の紋を掲げた門を、教団が「開かずの門」として封じた。


「宿題の答え合わせが、近いようですわね」


 朝日が、水門の双頭の鷲を金色に照らした。

 水は、葦の海へ向かって、轟々と流れ続けていた。


夜明けの報告——全村、持ちこたえました。死者ゼロ。

それから、百年前からの届け物がひとつ。差出人の名前は、まだ読めません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。