第12話:嵐の夜(前編)——黒狼と図面
嵐は、日暮れとともに来た。
風が先に来た。葦原が一斉に倒れ、灯りが消え、屋根板が鳴った。
次に雨。横殴りの、粒の大きい雨。角灯の火が三度消えて、四度目からは消えなくなった。慣れというのは恐ろしい。
そして、水。
「第三標、指八本上昇!」
「第五標、水没! 蛇行部、越流はじまってます!」
伝令の声が、風に千切れながら水門小屋に飛び込んでくる。
小屋の中は、泥と、濡れた蓑と、獣脂の灯りの匂い。壁の図面が隙間風に震え、置いた重しの石が、報せのたびに増えていく。
私は図面に石を置き、数を書き込み、次の手を叫び返す。
怖くないと言えば、嘘になる。けれど指揮所の怖さは、伝染る。だから私は、声だけは祭りの呼び込みみたいに張り上げると決めていた。
「予定どおり! 二号と三号の分水路が呑んでいる証拠よ! カセルの遊水地は?」
「六分まで溜まってます!」
「上等! まだ部屋に余裕があるわ!」
水は、来た。去年より大きい水が。
けれど今年の水には、行き先がある。旧河道が呑み、遊水地が抱え、締め直した堤が受け流す。九十日の仕事が、闇の中で音を立てて働いていた。
「一号分水路、呑んでます!」
「二号、呑んでます! いい音だ、笑っちまうくらい呑んでる!」
「カセルの遊水地、水入り始め! 古老様が『わしの窪みは働き者じゃ』と!」
報せのたび、小屋の中に小さな歓声が上がる。
掘った溝が水を呑む。ただそれだけのことに、男たちは戦場の勝ち鬨みたいな声を出した。九十日、自分の手で掘った溝なのだ。当然だった。
悲鳴が上がったのは、夜半過ぎだった。
「蛇行部の締め堤、法面が緩んでます! 水が、笑ってる——!」
水が笑う。堤から水が滲んで、法面が濡れ光る様を、この土地の者はそう呼ぶ。笑わせておくと、堤は泣いて、それから崩れる。
「土嚢! ありったけ!」
小屋を飛び出した。雨が頬を刺す。泥に足を取られながら堤に上がると、闇の中で法面が確かに笑っていた。滲みの筋が、二本、三本。
「積み方は月の輪! 滲みの口を囲って、水を溜めて重しにするの! 真上から潰しちゃだめ!」
滲み出る水を止めようとしてはいけない。囲って、溜めて、溜まった水の重さで押さえ込む。水に勝てるのは、いつだって水だけだ。
人足たちが半月形に土嚢を並べていく。ひとつ、またひとつ。囲いの中に水が溜まり、噴き上がっていた滲みが、静かな泉に変わっていく。
人足たちと土嚢を積む。腕が痺れる。息が上がる。雨と汗の区別が、とうにつかない。
そのとき、闇の向こうから土嚢が二つ、まとめて飛んできた。
「——どこに積む」
黒狼だった。
鎧ではなく野良着で、両肩に土嚢を担いだ閣下が、泥の中に立っていた。
「月の輪ですわ! この滲みの周りに!」
「分かった」
高価な土嚢は、よく働いた。
人の倍の速さで積み、緩んだ杭を素手で打ち直し、流されかけた若い人足の襟首を片手で掴んで引き戻した。
「閣下、次はあちらの筋を!」
「言われずとも!」
波が来た。越流のひときわ高いやつが、堤の肩を叩いて砕けた。
足元が、滑った。
世界が傾いで、濁流の音が耳元まで迫り——鉄みたいな腕が、私を堤の内側へ引き倒していた。
「っ、と……」
「……無事か」
泥の上、閣下の腕の中にいた。心臓に悪い夜である。いろいろな意味で。
「え、ええ。図面も無事ですわ」
「図面の心配をするな、あんたの心配をしている」
波が退いていく。閣下は私を立たせると、自分の体で風上を塞ぐように堤の際に立った。それからは、私がどこへ動いても、いつの間にか濁流と私の間にあの黒い背中があった。
守られている、と気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。渦中では、ただの頼れる壁だと思っていた。壁にしては、体温があったけれど。
*
明け方近く、風がわずかに緩んだ。
月の輪は保った。滲みは止まり、水位は高いまま、けれど上がりも下がりもしない踊り場に入った。交代の人足に持ち場を任せ、私と閣下は水門小屋で束の間の風待ちをした。
濡れた薪が、じ、じ、と燻る。
閣下は、戸口から堤を見張ったまま、ぽつりと言った。
「……十九年前も、こんな夜だった」
私は、口を挟まなかった。
「俺は八つで、熱を出して、丘の上の親類の家に預けられていた。夜中に鐘が鳴って、窓から見た。堤が切れて、水が村を呑むのを。……うちは、川沿いだった」
薪が爆ぜた。
「母と、妹が、流された。父はその前の戦で死んでいたから、俺は丘の上で、ひとりで見ていた。何もできずに、ただ」
雨音の向こうで、声はどこまでも平坦だった。平坦にしなければ、続けられないのだと分かる声だった。
「それからだ。雨の晩に眠れんのは。……水位標を見ていれば、次は間に合う気がした。二十年見て、一度も間に合わなかったがな」
「——閣下」
「あんたが来て、初めてだ」
琥珀色の目が、燻る火を映した。
「水位標を見るのが、怖くなくなった。あの目盛りが、敗け戦の数え札じゃなく——ただの、数字に見える。それが、どれだけ」
言葉は、そこで途切れた。この人の語彙で、ここまで喋れば大演説である。
私は自分の指先が泥だらけなのも忘れて、ただ頷いた。
それから、約束をひとつだけした。
「閣下。来年の雨季は、眠れる雨季にいたしますわ」
「……」
「水位標の見回りは、それでも続きますけれど。あれはもう、閣下おひとりの夜番ではありませんもの」
閣下は何か言いかけて、やめて、火のほうを向いた。
耳が、灯りのせいではない色をしていた。
「存じませんでした。……いいえ。半分は、存じていた気がします。閣下の水の読みは、痛みの数だけ正確ですもの」
「……そうか」
それは、聞いたことのない種類の「そうか」だった。
——そのときだった。
丘の鐘が鳴った。ピノの持ち場の鐘。連打。危急の合図。
続けて、上流の見張りに出していたガレンが、泥人形のようになって転がり込んできた。
「せ、セラ様! 上の谷だ! 上流の谷から——山が、水を吐いてる!」
「……なんですって?」
「雨の量じゃねえ! 谷の口から、川がもう一本生えたみてえに、どっと! あんなもん、見たことねえ!」
私は跳ね起きて、図面上の水量の勘定を、頭の中で三度やり直した。
三度とも、答えは同じだった。
〈合わない。この嵐の雨だけじゃ、その水は——出ない〉
どこから来るの。
百年前から、どこに隠れていたの。
風が、また強くなった。夜明けは、まだ遠い。
観測記録、深夜の部——想定外の水量、上流より接近中。
雨は空から降るものと決めてかかっていました。……この領では、山からも来るようです。




