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灰の底で息をする  作者: 黒猫


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第8話 この世界が覚えた名

 第8話 この世界が覚えた名


「愚かな」


 ヴァルケが煙の向こうから現れた。


 手には、北廊下で朔から取り上げた細剣がある。


「君は命を捨てた。次は欲しがった。そして手に入るところまで来て、選択から逃げるのか」


「逃げていない」


 朔は腕を引いた。


 皮膚が裂け、掌がさらに沈む。


「最初から、選択肢なんてない」


「言葉で飾るな。君は怖くなっただけだ。選んだあとの自分を」


 その通りだった。


 リュカの年を奪って生きる朝が怖かった。


 アデルに、その手で触れることが怖かった。


 死ぬことより、手に入れた未来を憎みながら生きることが怖かった。


「怖いよ」


 朔は言った。


「悪いか」


 ヴァルケが細剣を振り上げた。


 アデルの投げた短剣が、その手首をかすめた。細剣の切っ先が石板へ逸れる。


「朔、伏せて!」


 伏せられなかった。


 ヴァルケは左手で壁の綱を引いた。


 巨大な鐘が鳴った。


 音は耳ではなく、魂を殴った。


 朔の視界から色が消えた。手足の感覚が遠ざかり、意識だけが身体の奥から引き剥がされていく。背後にあるはずの井戸が、胸の内側で口を開けた。


 異界の魂を祓う喪鐘(もがね)


 セヴランの記憶が、その名を教えた。


 二度目の鐘が鳴る前に、朔は左手で右手首を掴んだ。


 借りものの身体へ爪を立てる。痛みが遠い。胸の黒線が破れ、全身から黒い液が滲んだ。


「いま、生きているのは俺だ」


 誰へ言ったのかわからなかった。


 四十日だけでも。


 指の一本まで借りものでも。


 痛いと感じ、腹を減らし、明日を欲しがったのは自分だった。


 朔は右手を引き抜いた。


 掌の皮膚が石板へ残った。


 身体へ戻る。床に倒れ、空気を吸った。肺が血の味で満ちた。


 アデルが腕を掴む。


「立てる?」


「立つ」


「嘘」


「立たせろ」


 朔はアデルに支えられ、出口へよろめいた。


 地下道には囚人が溢れていた。扉はすべて開いている。どこへ行けばいいかわからず立ち止まる者へ、リュカが南だと叫び続けている。


 イヴェンが先頭で古い医療門を開いた。


「この先は南壁の排灰路(はいかいろ)だ! 途中で二つに分かれる。白い石を追え!」


 背後で喪鐘が鳴った。


 朔の膝が折れた。


 アデルが支える。二人の足では速く走れない。兵士たちの声が近づく。


「先に行け」


 朔が言うと、アデルは彼の腕を肩へ回したまま答えた。


「嫌」


「全員に追いつかれる」


「戻ってくるって言った」


「お前まで死ぬ」


「その台詞は、生きる気のある人間にしか言わせない」


 アデルは朔を引きずった。


 次の角にリュカがいた。


 逃げたはずの少年が、教会兵から奪った槍を持って待っている。


「何してる!」


 朔が怒鳴った。


「お前、遅いから」


「先へ行け!」


「三人のほうが速い」


 算術が間違っていた。


 リュカは朔の反対側へ肩を入れた。三人で進む。歩くたび胸の黒線が裂け、足跡に黒い滴が落ちた。


 排灰路の終わりには、錆びた鉄の落とし戸が下りていた。


 囚人たちがその前に詰まり、動けずにいる。


「認証石が反応しない!」


 イヴェンが叫んだ。


 朔は落とし戸脇の石板を見た。


 内門印(ないもんいん)が要る。だが右手は血に濡れ、掌の皮膚と焼印の半分を失っている。


「別の道を探す」


 アデルが言った。


「間に合わない」


 追手の松明が見えた。


 名炉で刻まれかけた名が、右手の傷の奥で熱を持った。朔は石板へ掌を押しつける。


 痛みで喉が閉じた。


 祈句(きく)を唱える。


 一度目、何も起こらない。


 二度目、石板に薄い筋が走る。


 三度目、セヴランの焼印ではなく、朔の血がその筋を満たした。


 冬城朔(ふゆきさく)


 名炉が置き場を探した名を、南門の石が初めて受け入れた。


 鉄の落とし戸が上がった。


 冷たい外気が流れ込む。


 人々が次々と灰原(はいばら)へ出た。イヴェンは外で人数を数え、リュカとアデルは最後まで残って朔の身体を両側から支えた。全員が通り、朔も敷居を越えようとした。


 背後から細剣が腹を貫いた。


 ヴァルケが立っていた。


 白い法衣は血と赤煙で汚れ、右手には細剣が握られていた。


「町を殺すつもりか」


 耳元で言った。


「炉は一晩で戻る。だが、君が開けた牢から無籍者が逃げれば、誰の名で次の四十八枚を作る」


 細剣が引き抜かれた。


 朔は倒れなかった。


 振り返り、ヴァルケの法衣を掴んだ。セヴランの身体が覚えている最後の動きで、額を相手の鼻に叩きつける。


 骨が折れた。


 ヴァルケがよろめく。


 朔は門の外へ身を投げた。


 アデルとリュカが彼を外へ引いた。イヴェンが落とし戸の脇で張っていた太い綱を短剣で断つ。支えを失った鉄扉が落ち、ヴァルケと追手を向こう側へ閉じ込めた。


 城壁の上では、まだ白炎(はくえん)が燃えていた。


 炉は壊れていない。


 町も救われていない。


 四十八人の名を白札へ移す日が、少し遠ざかっただけだった。


 それでも、夜の灰原には五十を超える足音があった。


 名を白札へ移されるはずだった者たちが、互いを支えながら南へ向かっている。


 朔は腹の傷を押さえた。


 血が止まらない。


「イヴェン」


 アデルが呼んだ。


 老人は一目見て、顔を強張らせた。


「ここでは無理だ。身を隠せる場所まで運ぶ」


「助かる?」


 アデルの問いに、イヴェンは答えなかった。


 朔が代わりに言った。


「助けろ」


 自分でも聞いたことのない声だった。


「頼む」


 夜葬谷(やそうだに)で、殺してくれと言ったときより、ずっと言いにくかった。


 イヴェンはうなずいた。


「そのつもりだ」


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