第9話 二度目の死
第9話 二度目の死
南門から半里ほど離れた灰原に、焼けた礼拝所があった。アデルが合流場所に決めていた建物だった。
屋根は半分落ち、神像は顔を失っていたが、石壁は残っている。旧採掘道を先に進んだ十二人は、二台の荷車と食料を運び込み、そこで待っていた。彼らは朔を祭壇へ移すと、一台を入口の内側へ横倒しにし、布で窓を覆った。夜のものに見つからないよう、火は祭壇の陰で小さく焚いた。
礼拝所の裏には浅い井戸も残っていた。水は鉄臭かったが、イヴェンは煮沸すれば飲めると言った。食料は六十人あまりで分けるには少なく、子どもと負傷者へ優先して配られた。
イヴェンは祭壇を診察台にした。
朔の服を切り、右脇腹を貫いた傷を洗う。細剣は肝と太い血管を外れていた。出血を止め、傷口を縫い合わせられれば、まだ生き延びる余地はある。だが針を通すたび、糸を掛けた肉が黒く崩れた。
「名炉で無理をしたせいだ」
イヴェンが言った。
「拒み痕が全身へ回っている。身体が傷を治すことをやめた」
「縫え」
朔は歯を食いしばった。
「縫っている。だが肉が糸を支えん」
「なら、何度でもやれ」
「そのつもりだ」
イヴェンは針を少し離れた場所へ刺し直した。糸を引くと、そこもまた裂けた。
朔は叫んだ。
声を抑える余裕はなかった。祭壇の端を掴み、逃げようとする身体をアデルに押さえられた。夜葬谷で殴られたときも、矢を抜かれたときも、声を出さなかった。いまは痛みを我慢することに、何の価値も感じなかった。
「痛い」
「わかってる」
「やめろ」
「やめたら死ぬ」
「じゃあ、やめるな」
矛盾した言葉を何度も繰り返した。
治療は夜明けまで続いた。
最後にイヴェンは傷へ厚い布を巻き、黒く汚れた手を膝へ置いた。
「今夜は越えた」
「今夜は?」
「それ以上は言えん」
イヴェンは薬箱から、最初の日に使った白い結晶を一粒取り出し、朔の舌へ置いた。
名塩はゆっくり溶け、灰色になった。
「名炉が刻みかけ、南門が受け入れた。お前の名は、この地へ根を下ろしたらしい」
「なら、身体はもう俺を拒まない?」
「拒み痕は止まり始めている。だが根づいたのは名だけだ。生きられる時間が増えたわけではないし、壊れたものも元には戻らん」
朔は灰色の苦みを飲み込んだ。
この世界にようやく名を持った朝、そこに住める身体のほうが残っていなかった。
朔は礼拝所の割れた天井を見た。
雲の向こうが白くなっている。
朝だった。
アデルが水の入った木の椀を彼の前へ置いた。
「パンは」
朔が訊いた。
「何?」
「工房から持ち出した」
「石切り場で、あなたが握り潰した」
「そうだった」
明日のために残した最初のものは、食べられなかった。
それが妙に悔しかった。
昼まで眠り、目を覚ますと、リュカが祭壇の下に座っていた。先行組の道具袋から借りた小刀で、細い木を削っている。腫れた片目には濡れ布が当てられていた。
「何を作ってる」
「名札」
「誰の」
リュカは木片を見せた。
片面にサク。裏面に、まだ途中の文字がある。
「冬城って、どう書く」
「お前には無理だ」
「教えろ」
朔は指で床の灰に文字を書いた。
冬。城。
リュカは何度も見比べ、木に刻んだ。線は曲がり、冬の点が一つ多かった。
「下手だな」
「お前の世界の字が変なんだ」
「それ、何に使う」
「名札がないと南へ行けないんだろ」
「俺は検問に引っかからない」
「そういう意味じゃない」
また、その言葉だった。
朔は少し笑い、すぐ傷を押さえた。
「炉で、怖かった?」
リュカが訊いた。
「怖かった」
「俺の年、取ろうとした?」
朔は答えを選ばなかった。
「取ろうと思った」
少年の刃物が止まった。
「半分なら、お前も生きられると思った。たぶん、もう少し長く迷ってたら取った」
「取らなかった」
「結果の話じゃない」
「結果の話だよ」
リュカは木を削り直した。
「頭の中で考えたことまで罪にしたら、俺なんか毎日吊られる」
「どんなこと考えてるんだ」
「言ったら吊られる」
リュカは笑わなかった。
しばらくして、名札を朔の首にかけた。
「南で林檎を食うまで、なくすな」
朔は木片を握った。
「なくしたら?」
「俺がまた作る」
「何度もなくしたら、いつかきれいな字を書いてくれるかもな」
その日の夕方、逃亡者たちは再び南へ向かった。
礼拝所に残れば教会兵に追いつかれる。朔は荷車へ寝かされ、イヴェンが隣を歩いた。車輪が石を踏むたび、腹に熱い痛みが走る。
それでも進みたかった。
南へ行けば助かる根拠はなかった。南の自由市には教会に属さず名の病を診る医者がいる、とイヴェンが聞いたことがあるだけだ。異界の魂を診たことがあるかもわからない。慰めに近い噂だった。
朔は信じることにした。
信じるというより、他に選べる未来がなかった。
一日目の夜、熱が出た。
二日目の朝、右目が見えなくなった。昼には戻った。
三日目、灰が薄くなった。
雲の切れ目から、青い空が一本だけ見えた。
荷車を止めてもらい、朔はそれを見た。日本で何度も見たはずの色だった。美しいと思った記憶はほとんどない。
「向こうでは、毎日あんな空だったの?」
アデルが訊いた。
「だいたい」
「贅沢な世界」
「そうかもな」
「戻りたい?」
朔は考えた。
戻れたとしても、死ぬ前の部屋へ戻るのなら、何をすればいいのかわからない。同じ朝が来れば、今度は誰かに言えるのか。携帯電話を裏返せるのか。
答えは出なかった。
「ここにいたい」
それだけはわかった。
アデルは荷車の縁へ手を置いた。
朔も手を伸ばした。
指先が触れた。
セヴランの記憶は現れなかった。
朔自身の手だった。
「四十日目に訊くって言ったな」
「まだ二十五日目」
「前払いで答える」
胸が苦しく、言葉の間に何度も息が入った。
「生きたい」
アデルは目を伏せなかった。
「うん」
「助けて」
「うん」
できるとは言わなかった。
その誠実さが、いまはありがたかった。
四日目の未明、朔は呼吸ができなくなった。
黒線はもう広がっていなかった。だが薄くもならず、腹の傷は塞がらないまま熱を持っていた。息を吸っても肺が浅くしか開かず、借りものの心臓だけが速く打っている。名は根づいた。それでも、そこまでに壊れた身体には生き続ける力が残っていなかった。
「イヴェン」
アデルの声で、隊列が止まった。
荷車の周囲へ人が集まる。イヴェンは朔の胸へ耳を当て、薬を口へ流し込んだ。飲み込めず、顎からこぼれた。
「何とかしろ」
朔は掠れた声で言った。
「している」
「足りない」
「わかっている」
「名炉へ戻れば――」
言いかけた。
誰かから年を取れば、まだ間に合うかもしれない。
周りには六十人あまりの未来があった。
その考えを、朔は否定しなかった。
死を前にすれば、また迷った。聖堂で一度選んだからといって、立派な人間になったわけではない。
「戻れない」
イヴェンが言った。
「炉は北だ。お前の身体は、あと一刻も保たん」
「嫌だ」
言葉が漏れた。
朔はアデルの腕を掴んだ。
「嫌だ。まだ、何も――」
何もしていないわけではなかった。
水押し器を直した。薬を運んだ。牢を開けた。名を呼ばれた。
それでも足りなかった。
生きることは、何かを成し遂げれば終えていい仕事ではなかった。
「死にたくない」
夜葬谷で言った言葉と、正反対の願いだった。
アデルは朔の手を握った。
リュカが荷車の反対側に立ち、名札を握っている。イヴェンは薬を替え、胸を押し、最後まで手を止めなかった。
「朔」
アデルが呼んだ。
「ここにいる」
朔は答えようとした。
声にならなかった。
南の林檎はどんな味か。
明日の水運びは誰がするのか。
アデルは四十日目にも起こしに来るのか。
確かめたいことばかりが増えていった。
終わりたくないと思い続けたまま、世界の音が遠くなった。
最後まで、受け入れることはできなかった。
* * *
朝になってから、彼らは朔を埋めた。
灰原の南端、地面から最初の草が生えている場所だった。
灰猟犬の焼印も、セヴランが残した傷も身体には残っていた。それでも胸へ置いたのは、リュカの作った木札だけだった。
冬城朔。
冬の字には、点が一つ多かった。けれど誰も直さなかった。
アデルが墓標に刻んだのは、冬城朔の名だけだった。
その身体が何をしたかを忘れたわけではない。ニロを殺した顔を許したわけでもない。ただ、ここへ辿り着いた者の名は一つでよかった。
埋葬を終えると、人々は南へ歩き出した。
昼過ぎ、灰のない風が吹いた。
丘を越えた先に、低い木々が並んでいた。枝には小さな青い実がついている。まだ熟していない林檎だった。
リュカはひとつ取ろうとして、アデルに手を叩かれた。
「青いのは腹を壊す」
「朔は味を知らなかった」
「熟したら戻って、ひとつ置こう」
「食べられないのに?」
「私たちが食べる。あいつの前で」
リュカは少し考え、うなずいた。
彼らは朔を英雄とは呼ばなかった。
希望を見つけたから死んでもよかったのだとも、言わなかった。
枝の青い林檎は、まだ食べられなかった。
彼の二度目の死を、救いと呼ぶ者はいなかった。
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