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灰の底で息をする  作者: 黒猫


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第7話 六十三年の未来

 名炉(なろ)は、火の形をしていなかった。


 聖堂の地下深く、地上の大礼拝室とほぼ同じ広さの円形室があった。壁と床には、燃え尽きた名の灰が何層もこびりついている。中央には荷車一台ほどの幅の井戸が口を開け、その奥で灰脈(かいみゃく)の白い光が脈打っていた。


 天井から垂れた鎖には、前の大灯礼で作られた最後の白札が一枚だけ残っている。札から灰の欠片が井戸へ落ちるたび、遠くの城壁で白炎が強くなった。


 井戸を囲む環状の床は、放射状の通路で八つに区切られていた。それぞれに鉄の椅子が六脚ずつ並んでいる。


 合わせて四十八脚。


 いま座らされているのは三十一人だった。施療院で見た少女もいる。手首と足首を革帯で固定され、胸の文字のない白札から細い糸が井戸へ伸びている。目を閉じている者。泣いている者。祈っている者。


 円形室の外壁に沿って収容房が並び、残る十七人が入れられていた。工房から連れ去られた四人も、その中にいる。


 リュカは一室から引き出され、空いた椅子の前へ立たされた。


「朔」


 少年が呼んだ。


 兵士が肩を押し、座らせる。


「南の林檎、先に食っても怒らないからな」


 強がろうとして、声が裏返っている。


 朔は返事ができなかった。


 ヴァルケは、井戸の縁に据えられた石板を示した。八方の椅子から伸びる白い溝がそこで一つに集まり、中央には掌の窪みがある。


「右手を置き、自分の名を告げる。それから未来を差し出す者へ触れればいい」


「どれだけ取るかは」


「君が決める」


「全部取ることも?」


 リュカの顔から血の気が引いた。


 ヴァルケは朔だけを見ていた。


「できる」


「その場合、こいつはどうなる」


「苦痛はない。未来を失い、眠り、二度と起きない」


 工房の鍋から焦げた粥を削り取り、十二歳の算術で笑ったリュカの顔が浮かんだ。


 それでも朔の胸には、別の光景もあった。


 南の空の下を歩く自分。黒線の消えた手。明日も明後日も目を覚まし、アデルと口論し、リュカが木から落とした林檎を拾う。


 奪えば手に入る。


 ここへ来る前の朔なら、笑って拒んだだろう。未来など欲しくないと言えば済んだ。


 いまは違った。


 欲しかった。


 リュカの六十三年を思いやれなくなるほど、自分の一日が欲しかった。


 北廊下で取り上げられた細剣が、ヴァルケの脇にある石台へ置かれていた。イヴェンの薬箱も、円形室の入口脇へ運び込まれている。


 アデルが兵士に押さえられたまま、彼を見ている。


 怒っていなかった。


 そのほうがつらかった。


「本気なの」


 朔は初めて振り返った。


「本気で迷ってる」


 嘘をつきたくなかった。


「生きたい」


 言葉にすると、胸の奥で何かが壊れた。


「お前と南へ行きたい。明日の朝も、その次も欲しい」


 アデルの唇がわずかに動いた。


 朔は続けた。


「だから、こいつから取ったら、その先を生きられない」


 ヴァルケが一歩動いた。


 朔は先に石板へ右手を置いた。


 掌の焼印が光る。


 セヴランの記憶が腕を駆け上がった。


 この場所へ何度も人を運んだ。泣き叫ぶ者の頭を掴み、石板へ押しつけた。炉の光に照らされるヴァルケ。病で先が短いと知った焦り。他人の年を運び続けたのだから、自分にも分け前があるはずだという濁った欲望。


『私にも寄越せ』


 記憶の最後、右手はヴァルケへ剣を向けていた。


 正義ではなかった。


 他人の名と未来を運び続けた炉から、自分だけが何も得られないと知ったからだった。


 ヴァルケの手が、セヴランの胸へ触れる。


 魂と骨の名を結ぶ糸が断ち切られる。


 視界が傾き、石の床が頬へ迫った。


 そこで記憶は途切れた。


 骨にはセヴランの名の痕だけが残った。その先は朔自身が知っている。死体は谷へ捨てられ、そこへ朔が入った。


「名を」


 ヴァルケの声がした。


 朔は掌へ力を込めた。だが、左手はリュカへ伸ばさなかった。


冬城朔(ふゆきさく)


 石板は沈黙した。


「未来の提供者へ触れろ」


「いない」


「何?」


「俺の名だけでやれ」


 ヴァルケの顔が初めて歪んだ。


「やめろ。その名には、この地の根がない」


「知ってる」


 朔は祈句(きく)を唱えた。


 内門を開くために何度も使った言葉。地下搬入路の石扉を開いたとき、初めて正確な意味に気づいた祈句。


――この手の名を認めよ。


 教会の石を、戸籍に結ばれた名へ従わせる言葉だった。


 名炉が冬城朔という人間を探す。未来を流し込むはずの白い溝には、何も通らない。代わりに、彼の名を置く場所を求めて床の八本の溝が震えた。


 日本の街。狭い部屋。雨の匂い。コンビニの明かり。電車の窓へ映った顔。母語で呼ばれた名。こちらの世界のどこにもない記憶が、炉へ流れ込む。


 井戸の底から、ひび割れる音がした。


「手を離せ!」


 ヴァルケが叫んだ。


 朔は離さなかった。


 名を持たないのではない。


 この世界が、彼の名を知らなかっただけだ。


 未来の提供者を得られない炉は、冬城朔の名を自らの戸籍網へ直接結ぼうとした。力が逆流し、椅子と収容房を縛る白い溝へ亀裂が走る。


 床の光が消えた。


 アデルとイヴェンの手首から、白い革帯が落ちた。


 アデルは背後の兵士から短剣を奪う。喉ではなく腿を切り、倒れた身体を盾にした。イヴェンは壁際の薬箱へ飛びつき、赤い薬瓶を一本、兵士へ投げつけた。砕けた瓶から赤い煙が噴き出す。さらに倒れた兵士の腰から短剣を抜き、自分の帯へ差した。


「リュカ!」


 少年は椅子から転げ落ちた。革帯がひとりでに外れている。


 座らされていた三十二人の革帯が、一斉に外れていた。


 同時に、円形室を囲む収容房の扉が次々と跳ね上がった。残る十六人が戸口に姿を現す。工房から連れ去られた三人も、その中にいた。


「南の医療通路へ走れ!」


 アデルが叫ぶ。


 囚人たちはすぐには動かなかった。起きたことを理解できず、互いの顔を見る。リュカが最初に立ち、隣の少女の手を引いた。動ける者が、足元のおぼつかない者へ肩を貸す。


「立て! 燃やされたい奴だけ座ってろ!」


 人の流れが生まれた。


 兵士たちが槍を構える。イヴェンの赤煙で視界は悪い。アデルは出口を守り、リュカが囚人を地下道へ導く。


 朔は石板から手を離そうとした。


 離れなかった。


 右の掌が白い石へ沈み、骨まで繋がっている。


 炉はまだ彼の名を探していた。


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