第4話 明日のためのパン
第4話 明日のためのパン
大灯礼は十日後に行われる。
その言葉をイヴェンから聞いたとき、朔は施療院の格子を思い出した。数字の札を下げた子どもたち。布で視界を塞いだ修道士。
「何をする祭りだ」
イヴェンは火鉢へ木片を足した。
「祭りと呼ぶのは教会だけだ」
夜だった。工房の広間では、アデルが床へ地図を広げている。二十三人がその周囲に座っていた。南門、城壁、聖堂、地下水路。炭で引かれた線の上を、アデルの指が動く。
イヴェンは火鉢から一本を取り出した。先端が赤く熱を帯びている。
「人は生まれたとき、名の種と未来を与えられる。名は魂を身体へ結び、未来はその身体で生きられる時間だ。名炉は、そのどちらにも触れられる」
木片を振ると、赤い軌跡が闇へ残った。
「町の地下には灰脈が通っている。白炎の力そのものは、そこから汲み上げる。人間を薪にしているわけではない」
「なら、なぜ人を炉へ入れる」
「灰脈の力は、人の領域と夜のものを区別しない。根づいた人の名を白札へ移し、火へ焼き込む。そうして初めて、城壁の白炎は内と外を見分ける。だが名は結界の中で削られ、七日か八日で消える」
「大灯礼では」
「一年分、四十八枚の白札を作る。四十八人から、名を一つずつ剥がしてな」
「赤ん坊からでも取れる?」
「取れても使えん。名は、誰かに呼ばれ、自分でもその音を選び取る年月で魂へ根を張る。十年ほどはかかる。根づいた後は、老人でも若者でも結界の保ちは大きく変わらん」
「未来は何に使う」
「名炉のもう一つの働きだ。生きた名から別の生きた名へ、身体で生きられる時間を移す。未来は人から人へ渡せるが、白炎にはならない」
「名札のない人間にも、燃やせる名はある?」
「ある。名と名札は別だ。名札は教会が戸籍へ結んだ証明にすぎん。リュカたちは名を持っている。ただ教会の帳面に載っていない」
「なら、名塩で証明できる」
「検査用の名塩でわかるのは、根の有無だけだ。名の音を札へ浮かばせるには、本人の血と名炉と教会の術式が要る。浮かべただけなら魂へ戻せるし、戸籍へ結び直せば名札も再発行できる。だが教会は無籍者の名を戸籍へ戻さず、魂から切り離して灰脈へ結ぶ。そうして白札を作る」
「教会は昔、死刑囚と志願者だけを使うと誓った。だが四十八人には届かない年が続いた。やがて罪の重さを量り始め、そのうち札のない人間なら罪を数える必要もないと気づいた」
「名を白札へ移された人間は死ぬのか」
「身体はその場で死ぬ。名も七日ほどで削れきる。谷の死人と違って、返せと叫ぶものさえ残らない」
「大灯礼では、何人から名を取る」
「四十八人」
広間の誰かが息を呑んだ。
「北区の無籍者を一斉に集め、四十八人の枠を埋めている。施療院で見た者も、その一部だろう。ここが見つかれば、名の根づいた者は白札の候補に、幼い者は収容院へ回される」
アデルは地図の聖堂を指した。
「だから、その前夜に動く。旧水路から城内へ入り、聖堂の搬入口まで行く。朔の内門印で地下道を開け、南壁の外へ抜ける」
「その道を教会兵も使うんじゃないのか」
「大灯礼の準備で、地上へ集まる。地下は手薄になる」
「四十八人は置いていくのか」
広間が静かになった。
アデルは朔を見た。
「全員は救えない」
「二十三人なら救える?」
「そのために一年かけた」
責めるつもりで訊いたわけではなかった。
だがアデルの声には、一年分の疲れがあった。地図の端は何度も折り直され、布のように柔らかくなっている。ここにいる一人ひとりの歩ける速さ、必要な薬、夜に泣き出す子どもの数まで、彼女は知っていた。
朔は口を閉じた。
何も背負ってこなかった人間には、全員を救えと言うのは簡単だった。
その夜から、脱出の支度が始まった。
荷物を半分に減らし、歩けない者のために担架を作る。泣く子の口を塞ぐ布には、息ができるよう革の筒を縫いつけた。水も食料も一人三日分。南壁を越えたあと、灰原を抜けるころには、ほとんどなくなる。
朔は先頭を歩くことになった。
セヴランの顔を見れば、巡回兵は一瞬迷う。その一瞬にアデルが倒す。ひどい計画だと朔は思ったが、代案はなかった。
十八日目の朝、右腿の傷が開いた。
矢傷ではない。その周囲の皮膚が内側から裂け、黒い液が滲んでいた。イヴェンは朔を診察台へ寝かせ、黒線の先を指で押した。
「進みが速い」
「四十日じゃなかったのか」
「四十日保てば長いと言った。約束はしていない」
「あと何日だ」
「十五。悪ければ十」
大灯礼まで八日。
南門の外へ出ても、灰原を越えるには三日かかる。
「足りる」
朔は言った。
イヴェンは笑わなかった。
「お前は、そればかりだな」
「他に何を言えばいい」
「怖い、と言ってみろ」
「怖くない」
「嘘だ」
「死んだことがある」
「だから何だ」
イヴェンは裂けた皮膚へ薬を塗った。焼けるように痛んだ。
「一度溺れた者は、二度と水を恐れないのか?」
朔は天井を見た。
答えが浮かばなかった。
「この世界の名があれば、身体を繋ぎ止められる?」
問いは、考えるより先に口から出ていた。
イヴェンの手が止まった。
「以前なら、そんなことを訊かなかったな」
「仕組みを知りたいだけだ」
「名炉なら可能かもしれん。生きた名を骨へ焼きつけ、外から来た魂をこの地へ縫い留める。古い教典にはそうある」
「じゃあ――」
「炉は何も生まない。お前に未来を与えるなら、同じだけ誰かから奪う」
朔は目を閉じた。
「なら、いらない」
「そうか」
物陰で、板が軋んだ。
朔が起き上がると、扉の隙間から灰色の髪が消えた。
その晩、アデルは口をきかなかった。
内門印の練習では必要な言葉だけを発し、終わると木片を片づけた。朔が広間へ戻ろうとすると、手首を掴まれた。
「いつ言うつもりだった」
「聞いてたのか」
「あと十日かもしれないって?」
「計画には間に合う」
「そういう話じゃない」
また同じ言葉だった。
「じゃあ、どういう話だ」
「毎朝、お前を起こしに行く人間の話だ」
「リュカが勝手に来るだけだ」
「あの子は、目を開けるまで帰らない」
「俺が死んでたら、手間が省ける」
アデルの手に力が入った。
朔は殴られると思った。
だが彼女は手を離し、先に屋上へ上がった。
朔もあとを追った。
雨は止んでいた。町の屋根に薄い灰が積もり、城壁の白炎だけが青く揺れている。雲の切れ目はどこにもない。南の空だけが、わずかに明るかった。
アデルは煙突へ背を預けた。
「兄が死んだあと、私は三日間、セヴランを殺すことだけ考えた」
「三日でやめたのか」
「殺すには近づかないといけない。近づくには、食べて、寝て、仕事を続けないといけなかった」
失われた二本の指を、外套の中へ隠した。
「四日目に、逃がす予定だった家族が捕まった。五日目に別の子どもが来た。兄のことだけ考えていられる時間が、少しずつなくなった」
「それで許した?」
「許してない」
アデルはすぐに答えた。
「許さなくても、水は汲める。眠ることもできる。誰かを助けることも」
朔は城壁を見た。
「俺はあの男じゃない」
「知ってる」
「顔を見るたび、思い出す?」
「思い出す」
「なら、隠そうか」
「必要ない」
「どうして」
「お前の顔でもあるから」
アデルはそう言い、後悔したように目を逸らした。
朔の胸の奥で、黒い線とは別の何かが動いた。
痛みに似ていたが、痛みより扱いに困るものだった。
「元の世界で、どうして死んだの」
朔は長く黙った。
特別な一日があったわけではない。誰かひとりに壊されたわけでも、取り返しのつかない罪を犯したわけでもなかった。
朝が来るたび、昨日より部屋が狭くなった。
払っていない請求。返していない言葉。謝る時期を逃した相手。眠っても減らない疲れ。何かを始めるには遅すぎて、終えるには何も足りないという感覚。
「説明できるほど、大きな理由はなかった」
「理由が小さければ、苦しくないの?」
「そう思ってた。苦しいと言う資格もないって」
「それで?」
「言わなかった。誰にも」
携帯電話を伏せた床が浮かんだ。
最後に届いていたのが誰の連絡だったか、思い出せない。大切な言葉だったのか、広告だったのか。それさえ確かめなかった。
「いまも死にたい?」
アデルが訊いた。
朔は答えようとした。
工房の下から笑い声がした。リュカが誰かに叱られ、何かを落としたらしい。明日の朝は水桶を三つ運ぶことになっている。南門の先には灰原があり、その向こうには、木から落ちる林檎がある。
胸の黒い線が疼いた。
「わからない」
それが、いま言える最も正確な答えだった。
アデルはうなずいた。
「じゃあ四十日目の朝に、もう一度訊く」
「来ないかもしれない」
「起こす」
「無理だ」
「私が決める」
強引な言い方に、朔は少し笑った。
笑ったあとで、自分が笑ったことに気づいた。
その夜、夕食の黒パンを半分残した。
腹がいっぱいだったからではない。
翌朝、水を運ぶ前に食べようと思った。
布に包んで枕元へ置いたあと、朔はしばらく、それを見ていた。
明日の自分のために何かを残したのは、いつ以来かわからなかった。




