第3話 生きているふり
第3話 生きているふり
朔は工房の北側にある物置で寝ることになった。
鎖は外されたが、扉の外には鈴が吊られた。開ければ鳴る。逃げるなというより、夜中にセヴランへ戻ったときのためだとアデルは言った。
「戻ったら、どうする」
「今度こそ殺す」
「それなら、俺としても助かる」
アデルは何も言わず、扉を閉めた。
翌朝から、朔には仕事が与えられた。
井戸から水を運び、荷車の車軸へ油を差し、屋根から雨の染みる場所へ革を打ちつけた。セヴランの身体は力があった。水桶を二つ提げても息は切れず、木槌を振るえば、太い釘も数度で根元まで沈んだ。
だが、革紐を結ぶような細かな仕事はひどく不得手だった。手順に迷って動きを止めるたび、右手は腰にない剣の柄を探した。
朔はそのたび、手を握りしめた。
工房にいる者たちは、彼を名前で呼ばなかった。
灰猟犬。死体。あれ。
呼ばれるだけましだった。多くは朔が近づくと会話をやめ、食卓で隣が空いていても、別の床へ座った。
リュカだけは違った。
少年は朔を恐れながら、恐れていることを隠そうともしなかった。朝になると物置の鈴を棒で鳴らし、朔が目を開ければ舌打ちした。
「今日はまだそっちか」
「どっちだ」
「殺人鬼じゃないほう」
「残念だったな」
「別に。殺人鬼ならアデルが殺すし、お前なら水を運ぶ」
十二歳の算術は明快だった。
リュカは北の村から来た。村は三年前に灰嵐へ呑まれ、教会は生存者まで死人として帳面から消した。家族の名札は没収され、本人も逃げる途中で自分の札を失くした。名がないわけではない。ただ、それを証明する教会の札がない。
この世界では、札のない人間は魂までないことにされる。
「南へ行けば、札がなくても働ける」
リュカは革を細く切りながら言った。
「太陽も出る。林檎が木から落ちて、拾った奴のものになる」
「林檎くらい、元の世界にもあった」
「どんな味だ」
「林檎の味」
「嘘つけ。食ったことないだろ」
「ある」
「じゃあ説明しろ」
朔は答えようとして、やめた。
赤い皮。白い果肉。冷蔵庫の奥で柔らかくなり、捨てたもの。そんな記憶しか浮かばなかった。
「南で食えばわかる」
「お前も来るのか」
「行かない」
リュカは革紐を強く引いた。
「つまらない奴」
十日が過ぎた。
胸の黒い線は、肋骨の下まで伸びていた。朝起きるたび、口の中に土の味がした。爪の根元が黒くなり、傷は塞がるのに時間がかかった。
それでも身体は動いた。
アデルは毎晩、朔に内門印の使い方を教えた。教会の門には人の掌ほどの石板があり、焼印を重ねて祈句を唱える。祈句は知らなくても、セヴランの指が覚えていた。石板に見立てた木片へ触れると、口が勝手に異国の言葉を発した。
そのたび記憶が混じった。
暗い牢。爪を剥がされた男。泣かない少女。井戸水に沈めた両手から、血が細い筋になってほどけていく。
朔は吐かなくなった。
慣れたわけではない。ただ、記憶を見たあとにも水汲みの時間が来て、屋根の修理が残り、リュカが焦げた粥を押しつけてくる。嫌悪に浸り続ける暇がなかった。
十二日目の午後、工房の水押し器が壊れた。
井戸から汲んだ水を屋上の槽へ送る古い装置で、木の取っ手を上下させても空気の抜ける音しかしない。イヴェンは寿命だと言い、アデルは新しい革弁を買う金を数え始めた。
朔は筒を外した。
元の世界で機械に詳しかったわけではない。けれど取っ手を押すと水が上がるなら、どこかで逆流を止めているはずだった。底を覗くと、丸い革が裂けている。リュカが切っていた端革を二枚重ね、油を染み込ませ、錆びた釘で留めた。
取っ手を押す。
一度目は空気。二度目に濁った水が咳のように飛び、三度目には途切れず流れた。
工房の者たちが集まっていた。
老女が、朔の顔と水を交互に見た。
「セヴランが水押しを直すなんてね」
「朔だ」
思わず訂正していた。
空気が止まった。
老女は目を伏せ、何も言わず桶を差し出した。
その夜、食卓で朔の隣にひとり座った。翌日は二人になった。名前を呼ぶ者はいなかったが、近づいても会話が止まらなくなった。
十四日目、イヴェンの薬が切れた。
熱病の女が三人いた。灰を吸い込んだ肺が炎症を起こし、高い熱と咳が続いている。必要な薬草は城内の施療院にしかなく、アデルが夜に盗みに入ると言った。
「俺なら昼に行ける」
朔が言うと、全員が顔を上げた。
「その顔で?」
「教会の人間なんだろ」
「死んだことになってる」
「顔を見た奴が、生き返ったとは思わない。似た奴だと思う」
アデルは首を振った。
「必要ない。夜まで待つ」
朔は従った。
少なくとも、そう見せた。
正午の鐘が鳴る前に、裏の排水路からひとりで町へ入った。
城壁の見張り術は骨に残ったセヴランの名だけを読み、中にいる異界の魂を捉えなかった。青白い炎の下を通っても警鐘は鳴らない。通りには灰色の石造りの家が並び、住民は鼻と口を布で覆っていた。教会の白い外套だけが汚れなく見えた。
施療院の裏口で、セヴランの顔は予想以上によく働いた。
修道士は朔を見るなり青ざめ、問いもせず扉を開けた。薬棚から瓶を三本取る。去り際、廊下の奥で子どもの泣き声がした。
鉄格子の向こうに、十人ほどが座らされていた。首から札を下げている。名前ではなく、数字だけが書かれていた。
一人の少女が朔と目を合わせた。
「お母さんは、どこへ行ったの」
朔は足を止めた。
修道士が駆け寄って格子を布で覆った。
「灰猟犬殿、お見苦しいものを」
「あれは何だ」
「今月の無籍者です。大灯礼まで預かるよう、ヴァルケ司祭より」
大灯礼。
意味を訊く前に、外で鐘が鳴った。
修道士の目が、朔の濡れた髪と粗末な服へ移る。疑いが形になるのがわかった。
朔は薬瓶を抱え、走った。
追手は三人だった。
路地を抜け、露店を倒し、人の肩を突き飛ばした。身体に残るセヴランの記憶が、どの角を曲がれば教会兵の視線を切れるか知っていた。朔自身は考えるだけで精いっぱいだった。
排水路まであと少しのところで、矢が腿に刺さった。
痛みで足が折れた。
地面へ転がりながら、朔は妙に冷静だった。薬瓶は二本無事だった。一本は割れ、甘い匂いが石畳に広がっている。
ここで捕まってもいいと思った。
四十日が少し縮むだけだ。
そのとき、路地の上から縄が落ちた。
「掴め!」
アデルの声だった。
朔は反射的に掴んだ。屋根へ引き上げられ、次の建物へ引きずられる。アデルは追手へ瓦を投げ、煙筒を割り、朔を背負って狭い屋根裏を抜けた。
工房へ戻るなり、彼女は朔を床へ落とした。
矢を抜くより先に頬を殴られた。
「何のために行った」
「薬が要るんだろ」
「お前が死ねば、内門を開けられない」
「印が要るなら、手を切り落とせばいい」
アデルはもう一度殴った。
「そういう話をしてるんじゃない」
「じゃあ何だ」
「死ぬつもりの人間に、勇敢なふりをされるのは迷惑だと言ってる」
「頼んでない。助けに来たのはそっちだ」
「お前が食べているものも、寝ている場所も、誰かが生き延びるために分けたものだ」
アデルは床の薬瓶を指した。
「生きる気がないなら、他人の取り分を食べるな。役に立てば死んでいいなんて、勝手に決めるな」
朔は言い返せなかった。
イヴェンが矢を抜いた。傷口を焼かれるあいだ、朔は声を出さなかった。アデルはそれにも腹を立てたようだった。
持ち帰った薬で、三人の熱は二日後に下がった。
誰も朔を褒めなかった。
代わりに物置から鈴が外され、寝床が広間の隅へ移された。
枕元には木の椀が置かれていた。底に刃物で、二文字が不器用に刻まれている。
サク。
リュカは自分がやったとは言わなかった。朔も訊かなかった。
その夜、朔は何度も目を覚ました。
広間では二十三人の寝息が重なっていた。小さな咳。歯ぎしり。寝返り。壁の向こうを走る鼠。
うるさかった。
元の部屋では、冷蔵庫の音しか聞こえなかった。
朔は椀の底の名を指でなぞった。
四十日目まで、あと二十四日だった。




