第2話 借り物の顔
第2話 借り物の顔
朝は白かった。
太陽は雲の向こうにあるらしい。夜が薄くなっただけのような光が、板壁の隙間から差していた。
朔は床で目を覚ました。
眠れるとは思わなかった。死んだあとで眠るというのは、冗談としても出来が悪い。首と肩がひどく痛み、頬の傷は乾いた血でつれていた。鎖もそのままだった。
鉄環の前に、老人がしゃがんでいた。
擦り切れた黒衣の上から、革の前掛けをつけている。白い髪は油で後ろへ撫でつけられ、右目には曇った硝子玉が嵌まっていた。膝の上に、細い刃物や針を並べた箱がある。
「口を開けろ」
「誰だ」
「死体に名乗る趣味はない」
老人は朔の顎を掴んだ。抵抗するより早く、舌の上へ白い結晶を置く。
塩に見えた。味はなかった。
結晶は溶けず、黒くもならなかった。
老人が片方の眉を上げる。
「やはり空だ」
「何が」
「この世界につながる名の根がない」
「冬城朔だと言った」
「音の話ではない。こちらの世界に結ばれた名だ」
老人は結晶を指で拾い、教会の印が刻まれた小瓶へ戻した。底に残っているのは、あと五粒だけだった。
「これは検査用の名塩だ。名の根に触れれば灰色になるが、名の音まで読めるわけではない。ところがお前には何も触れなかった。身体の骨にはセヴラン・オルドの名が残っている。だが中の魂には、この世界へ伸びた根がない」
「じゃあ、俺は別人だとわかるのか」
「別人であることと、無害であることは別だ」
老人は朔の胸元を乱暴に開いた。
鎖骨の下から腹まで、黒い線が伸びていた。血管にしては太く、木の根のように枝分かれしている。昨夜は暗くて気づかなかった。
「これは?」
「拒み痕だ。死体が、お前を異物として押し出そうとしている」
「押し出されたらどうなる」
「先に身体が腐るか、魂がほどけるか。結果は同じだ」
老人は曇った硝子眼で朔を見た。
「四十日保てば長いほうだ」
朔は胸の黒い線を見下ろした。
四十日。
昨日まで望んでいた無限より、ずっと具体的な終わりだった。
「十分だ」
背後で椅子が倒れた。
アデルが立っていた。眠っていないらしく、目の下に濃い影がある。腰の剣へ手をかけたまま、朔を睨んでいた。
「何が十分なの」
「長くないなら、好都合だ」
アデルは一歩で距離を詰めた。
鎖に繋がれた朔の胸ぐらを掴み、壁へ押しつける。
「私の兄は、処刑台で息が止まるまで七分かかった」
声は低く、震えていなかった。
「その身体が首に縄をかけた。兄は七分間、足を動かし続けた。生きたかったから」
朔はアデルの顔を見た。
「俺じゃない」
「わかってる」
「なら放せ」
「わかっていても、その顔が言う『死にたい』を聞き流せると思う?」
「俺には関係ない」
「そう。お前には何も関係ない。自分の命さえ」
アデルは手を離した。
そのほうが殴られるより不快だった。
老人が器具箱を閉じる。
「名塩は教会の骨医にしか支給されない。抜けるとき、器具箱に残っていた分を持ち出した。死んだ灰猟犬が起き上がらなければ、こんなところでは使わなかった」
老人は曇った硝子の右目で朔を見た。
「私はイヴェンだ。以前は白炎教会で骨医をしていた。いまは見てのとおり、死体泥棒と逃亡者の藪医者だ」
「白炎教会?」
「青い火を城壁で見ただろう。あれを神の慈悲だと言って売っている連中だ」
イヴェンはアデルへ視線を向けた。
「鎖を外せ。少なくとも、教会の追手ではない」
「セヴランの記憶が残っているかもしれない」
「残っているだろうな」
朔は二人を見比べた。
「待て。身体の持ち主の記憶まで入ってるのか」
イヴェンは欠けた薬指をつまんだ。
指先に触れられた瞬間、視界が裏返った。
石造りの広間。
膝をつく男たち。
自分の――セヴランの右手が、灰色の髪を掴んでいる。若い男が顔を上げる。アデルによく似た目だった。唇の端が切れ、歯が赤い。
『妹には触るな』
誰かが笑った。
セヴランの手は男を立たせ、処刑台へ押した。
鐘が鳴る。
縄が軋む。
男の足が、何もない空間を蹴り続けた。
朔は叫び、イヴェンの手を振り払った。
工房へ戻っていた。
息ができなかった。胃の中に何もないのに、床へ吐いた。黒い水だけが落ちた。
アデルは動かなかった。
「見た?」
朔は答えられなかった。
「兄の名はニロ。二年前、教会の穀倉へ火をつけた罪で吊られた」
「俺は――」
「お前じゃない。何度も言わせないで」
アデルはしゃがみ、朔の手首の錠を外した。
自由になった手が、急に他人のものより重く感じられた。
「セヴランは教会の灰猟犬だった。名札を持たない難民を探し、捕らえ、逆らう者を吊るした。三日前、教会は奴が死んだと発表した。死体は夜葬谷へ捨てられた」
「それが俺の下にあった穴か」
「そう」
「どうして死んだ」
「教会は病死だと言った。誰も信じていない」
イヴェンが朔の右手を裏返した。
掌の中央に、円を四つ重ねた焼印がある。昨夜から皮膚の傷だと思っていたが、よく見ると線の間に細かな文字が刻まれていた。
「これは聖堂の内門印だ」
アデルが言った。
「灰猟犬のうち、三人しか持っていない。教会の地下牢と名炉へ通じる門を開けられる」
「だから俺を助けたのか」
「半分は、兄が最後に見た顔をもう一度殺すため」
アデルは平然と言った。
「半分は、その手が要るから」
「何をするつもりだ」
工房の奥で、人々が朝の粥を分けていた。昨夜石を投げた少年が、鍋の縁についた焦げを匙で削っている。壁際には荷物が積まれ、いつでも逃げられるよう縄で括られていた。
アデルは彼らを見た。
「ここにいる二十三人を、南門の外へ出す」
「門から出ればいい」
「名札のない人間は、町から出られない。入ることも、出ることも許されない。見つかれば教会へ連れていかれる」
「何のために」
誰も答えなかった。
城壁の向こうで、朝の鐘が鳴った。
昨夜の囁きとは違うはずなのに、朔の頭にはまた、死体たちの声が蘇った。
――なまえ。
――かえして。
イヴェンが粥の椀を差し出した。
「食え。死ぬのは勝手だが、その身体は四十日、お前だけのものではない」
朔は受け取らなかった。
すると昨夜の少年が横から椀を奪い、一口すすった。
「いらないなら、もらう」
痩せた頬に、年齢に似合わない傷があった。朔を恐れてはいるが、食欲のほうが勝っているらしい。
「リュカ」
アデルが咎めた。
少年は椀を抱えたまま、朔を睨んだ。
「死人は腹が減らないだろ」
その言葉を聞いた途端、借りものの胃が大きく鳴った。
工房の何人かが、初めて笑った。
朔は笑えなかった。
それでも椀を取り戻し、冷めかけた粥を食べた。
生きたいからではない。
少なくとも、その朝の朔は、まだそう思っていた。




