表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の底で息をする  作者: 黒猫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/9

第1話 死後の雨

※本作は自死を題材に含みます。具体的な方法の描写はありません。暴力・残酷描写があります。全9話、完結まで執筆済みです。

 第1話 死後の雨


 冬城朔(ふゆきさく)は、自分の死後に朝があるとは考えていなかった。


 天国も地獄も信じていなかったし、無になるという言葉さえ、よく考えれば意味がわからなかった。ただ、次の日が来なければそれでよかった。


 だから目を開けた瞬間、安堵より先に腹が立った。


 空はひどく低かった。灰色の雲が垂れこめ、雨が降っていた。雨粒は生温かく、煤を溶かしたように黒い。鼻を刺す臭いがした。濡れた革と錆びた鉄、それに長く閉め切った部屋の空気を混ぜたようだった。


 朔は仰向けに寝ていた。


 右にも左にも人がいた。正確には、人だったものが積まれていた。


 老いた男の肩に、裸足の少女の頬が乗っている。胸を革帯で縛られた兵士。白い布から指先だけを出した女。どの顔も雨に打たれ、まぶたを閉じていた。朔の背中の下にも、誰かの腕があった。


 死体を捨てる穴だった。


 朔は起き上がろうとして、左腕の重さに驚いた。


 腕が太い。節くれた指には剣だこがあり、手の甲から肘にかけて古い火傷が走っている。爪の隙間に黒い土が入り込み、薬指の先が欠けていた。


 自分の手ではなかった。


 喉へ指を当てる。脈は遅いが、確かに打っていた。胸も上下している。けれど触れた顎は知らない形をしていた。髪は長く、雨を吸って首へ貼りついている。


 声を出すと、低い男の声がした。


「なんだよ、これ」


 日本語だった。少なくとも朔にはそう聞こえた。


 記憶は途切れていない。狭い部屋。消した照明。床に伏せた携帯電話。返さなかった連絡。もう起きなくていいのだと思ったこと。


 自分で終わらせたはずだった。


 なのに、知らない男の肺で息をしている。


 朔は死体の山から這い出した。足首を掴まれた気がして振り返ったが、少女の指が靴紐に絡んでいただけだった。ほどこうとして、その指があまりに小さいことに気づく。手を離すまで、少し時間がかかった。


 穴の縁には、二輪の荷車が停まっていた。


 油布の外套を着た女が、死体の足に縄をかけている。年は朔とさほど変わらないように見えた。灰色の髪を短く切り、口元まで布で覆っている。腰には細身の剣、背には短い(いしゆみ)があった。


 女は朔を見た。


 縄が手から落ちた。


「セヴラン」


 その名を、呪いのように吐いた。


 朔が何か言う前に、女は弩を構えていた。


 弦が鳴った。


 矢は頬をかすめ、背後の土へ刺さった。熱い筋が顔を流れた。朔は尻もちをついたが、逃げようとはしなかった。


 女が二本目をつがえる。


「待て」


 自分でも、なぜ止めたのかわからなかった。死ぬためにここまで来たのなら、二度目を拒む理由はない。


 朔は膝をついた。


「殺してくれ」


 女の指が止まった。


 目だけが、ひどく冷たくなった。


「その顔で、それを言うな」


 女の言葉は知らない響きだった。それでも意味は、考えるより先に理解できた。朔の返事も、自分には日本語に聞こえるのに、相手へは通じている。借りものの身体が、音と言葉の間を埋めているらしい。


「この顔が誰のものか、知らない」


「知らない?」


「俺は冬城朔だ。日本にいた。死んだはずだった。気づいたら――」


 女は弩の台尻で朔の口を殴った。


 視界が白く弾けた。知らない歯が舌を切り、血の味がした。


「死体泥棒が、死にたいなどと言うな」


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。二度。音は地面の下まで震わせた。女の顔から怒りが消え、代わりに切迫した色が浮かんだ。


「立て」


 朔は血を吐いた。


「殺すんじゃないのか」


「日が沈んだ。ここで殺せば、お前まで起き上がる」


 穴の底から、濡れた布を引き裂くような音がした。


 少女のまぶたが開いていた。


 眼球はなかった。黒い空洞から、煙のようなものがこぼれている。その隣で兵士の背が反り、革帯が軋んだ。死体たちの口が、いっせいに何かを探すように開いた。


 女は小瓶を投げた。割れた瓶から白い粉が散り、起き上がりかけた死体の皮膚を焼いた。悲鳴は声ではなく、朔の頭の内側に直接響いた。


――なまえ。


――かえして。


 無数の囁きが重なる。


 朔は耳を塞いだ。女が荷車の横木を指した。


「曳け」


「どうして俺が」


「馬はさっき食われた。私ひとりでは間に合わない」


「間に合わなかったら?」


 女は穴の底を見た。


「今度は、死んだままでいられると思うな」


 朔は横木を掴んだ。


 荷車には六体の死体が積まれていた。車輪が泥へ沈み、両肩が軋んだ。借りものの身体は強かったが、それでも重い。女が後ろから押し、二人は坂を上った。


 背後で、濡れた足音が増えていった。


 振り返るなと言われなくても、朔は振り返らなかった。


 道の先には、黒い城壁があった。壁の上で青白い火が等間隔に燃えている。火の向こうに、塔と尖塔が重なり、空を細く切っていた。門は閉ざされている。女は城壁へ向かわず、枯れた水路に荷車を落とした。


「町へ入らないのか」


「お前の顔を見せて、正門が開くと思う?」


 水路の先に、半ば地面へ埋もれた建物があった。崩れた煙突と、板で塞がれた窓。革をなめすための工房だったらしく、雨の中でも薬品の酸っぱい臭いが残っている。


 女が戸を三度、間を置いて二度叩いた。


 内側の閂が外れた。


 暖気と人の気配が漏れた。十数人の顔が闇の奥に浮かぶ。老人、女、腕を吊った兵士。痩せた少年がランプを持っていた。


 その全員が朔を見るなり、息を呑んだ。


 少年が石を投げた。


 額に当たり、足元へ落ちた。


灰猟犬(はいりょうけん)だ」


 誰かが言った。


「死んだはずだ」


「アデル、どうして連れてきた」


 女――アデルは答えず、朔の膝裏を蹴った。倒れた朔の手首へ鎖を巻き、床の鉄環に錠をかける。


 ほかの者たちは荷車の死体へ白い粉を振り、裏手の焼却槽へ運んだ。名札を奪われた死者が起き上がる前に灰にするのも、この工房の仕事の一つらしい。


「こいつが何なのか、まだわからない」


 アデルは濡れた外套を脱いだ。左手の小指と薬指がなかった。


「朝まで息をしていたら、続きを聞く」


 朝まで。


 朔はその言葉を、もう必要ないものだと思っていた。


 けれど異世界で最初に与えられたのは、名前でも剣でもなく、次の朝までの猶予だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ