第1話 死後の雨
※本作は自死を題材に含みます。具体的な方法の描写はありません。暴力・残酷描写があります。全9話、完結まで執筆済みです。
第1話 死後の雨
冬城朔は、自分の死後に朝があるとは考えていなかった。
天国も地獄も信じていなかったし、無になるという言葉さえ、よく考えれば意味がわからなかった。ただ、次の日が来なければそれでよかった。
だから目を開けた瞬間、安堵より先に腹が立った。
空はひどく低かった。灰色の雲が垂れこめ、雨が降っていた。雨粒は生温かく、煤を溶かしたように黒い。鼻を刺す臭いがした。濡れた革と錆びた鉄、それに長く閉め切った部屋の空気を混ぜたようだった。
朔は仰向けに寝ていた。
右にも左にも人がいた。正確には、人だったものが積まれていた。
老いた男の肩に、裸足の少女の頬が乗っている。胸を革帯で縛られた兵士。白い布から指先だけを出した女。どの顔も雨に打たれ、まぶたを閉じていた。朔の背中の下にも、誰かの腕があった。
死体を捨てる穴だった。
朔は起き上がろうとして、左腕の重さに驚いた。
腕が太い。節くれた指には剣だこがあり、手の甲から肘にかけて古い火傷が走っている。爪の隙間に黒い土が入り込み、薬指の先が欠けていた。
自分の手ではなかった。
喉へ指を当てる。脈は遅いが、確かに打っていた。胸も上下している。けれど触れた顎は知らない形をしていた。髪は長く、雨を吸って首へ貼りついている。
声を出すと、低い男の声がした。
「なんだよ、これ」
日本語だった。少なくとも朔にはそう聞こえた。
記憶は途切れていない。狭い部屋。消した照明。床に伏せた携帯電話。返さなかった連絡。もう起きなくていいのだと思ったこと。
自分で終わらせたはずだった。
なのに、知らない男の肺で息をしている。
朔は死体の山から這い出した。足首を掴まれた気がして振り返ったが、少女の指が靴紐に絡んでいただけだった。ほどこうとして、その指があまりに小さいことに気づく。手を離すまで、少し時間がかかった。
穴の縁には、二輪の荷車が停まっていた。
油布の外套を着た女が、死体の足に縄をかけている。年は朔とさほど変わらないように見えた。灰色の髪を短く切り、口元まで布で覆っている。腰には細身の剣、背には短い弩があった。
女は朔を見た。
縄が手から落ちた。
「セヴラン」
その名を、呪いのように吐いた。
朔が何か言う前に、女は弩を構えていた。
弦が鳴った。
矢は頬をかすめ、背後の土へ刺さった。熱い筋が顔を流れた。朔は尻もちをついたが、逃げようとはしなかった。
女が二本目をつがえる。
「待て」
自分でも、なぜ止めたのかわからなかった。死ぬためにここまで来たのなら、二度目を拒む理由はない。
朔は膝をついた。
「殺してくれ」
女の指が止まった。
目だけが、ひどく冷たくなった。
「その顔で、それを言うな」
女の言葉は知らない響きだった。それでも意味は、考えるより先に理解できた。朔の返事も、自分には日本語に聞こえるのに、相手へは通じている。借りものの身体が、音と言葉の間を埋めているらしい。
「この顔が誰のものか、知らない」
「知らない?」
「俺は冬城朔だ。日本にいた。死んだはずだった。気づいたら――」
女は弩の台尻で朔の口を殴った。
視界が白く弾けた。知らない歯が舌を切り、血の味がした。
「死体泥棒が、死にたいなどと言うな」
遠くで鐘が鳴った。
一度。二度。音は地面の下まで震わせた。女の顔から怒りが消え、代わりに切迫した色が浮かんだ。
「立て」
朔は血を吐いた。
「殺すんじゃないのか」
「日が沈んだ。ここで殺せば、お前まで起き上がる」
穴の底から、濡れた布を引き裂くような音がした。
少女のまぶたが開いていた。
眼球はなかった。黒い空洞から、煙のようなものがこぼれている。その隣で兵士の背が反り、革帯が軋んだ。死体たちの口が、いっせいに何かを探すように開いた。
女は小瓶を投げた。割れた瓶から白い粉が散り、起き上がりかけた死体の皮膚を焼いた。悲鳴は声ではなく、朔の頭の内側に直接響いた。
――なまえ。
――かえして。
無数の囁きが重なる。
朔は耳を塞いだ。女が荷車の横木を指した。
「曳け」
「どうして俺が」
「馬はさっき食われた。私ひとりでは間に合わない」
「間に合わなかったら?」
女は穴の底を見た。
「今度は、死んだままでいられると思うな」
朔は横木を掴んだ。
荷車には六体の死体が積まれていた。車輪が泥へ沈み、両肩が軋んだ。借りものの身体は強かったが、それでも重い。女が後ろから押し、二人は坂を上った。
背後で、濡れた足音が増えていった。
振り返るなと言われなくても、朔は振り返らなかった。
道の先には、黒い城壁があった。壁の上で青白い火が等間隔に燃えている。火の向こうに、塔と尖塔が重なり、空を細く切っていた。門は閉ざされている。女は城壁へ向かわず、枯れた水路に荷車を落とした。
「町へ入らないのか」
「お前の顔を見せて、正門が開くと思う?」
水路の先に、半ば地面へ埋もれた建物があった。崩れた煙突と、板で塞がれた窓。革をなめすための工房だったらしく、雨の中でも薬品の酸っぱい臭いが残っている。
女が戸を三度、間を置いて二度叩いた。
内側の閂が外れた。
暖気と人の気配が漏れた。十数人の顔が闇の奥に浮かぶ。老人、女、腕を吊った兵士。痩せた少年がランプを持っていた。
その全員が朔を見るなり、息を呑んだ。
少年が石を投げた。
額に当たり、足元へ落ちた。
「灰猟犬だ」
誰かが言った。
「死んだはずだ」
「アデル、どうして連れてきた」
女――アデルは答えず、朔の膝裏を蹴った。倒れた朔の手首へ鎖を巻き、床の鉄環に錠をかける。
ほかの者たちは荷車の死体へ白い粉を振り、裏手の焼却槽へ運んだ。名札を奪われた死者が起き上がる前に灰にするのも、この工房の仕事の一つらしい。
「こいつが何なのか、まだわからない」
アデルは濡れた外套を脱いだ。左手の小指と薬指がなかった。
「朝まで息をしていたら、続きを聞く」
朝まで。
朔はその言葉を、もう必要ないものだと思っていた。
けれど異世界で最初に与えられたのは、名前でも剣でもなく、次の朝までの猶予だった。




