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声の主は、バロイド伯爵の妻シレイラだ。広げた扇子を顔にピタリと張り付け、肩を小刻みに震わせている。何が起こったのかとミラーナが目を泳がせると、シレイラはバサッと扇子を外して高らかに笑い声を上げた。
「ほーほほほほ!ざまぁないわね、レディック!」
「おやめ下さい母上。彼女の前です。」
「あらあら、イーヴェルの英雄がずいぶん弱気じゃないの。どこの子犬かと思ったわ。」
「ですから…」
----え?何?何が起こったの?
心底愉快だと言わんばかりに喜ぶシレイラと、げんなりとした表情で目を背けるレディックが言葉を交わしている。それを呆然と眺めていると、その横では限界に達した兄二人が肩を叩き合って笑っていた。なぜかバロイド伯爵も口元を手で隠して肩を揺らしている。
----だから、さっきからなんで皆笑ってるのよ。何がそんなに可笑しいのよ!
一人置いてけぼりにされた状況に戸惑いつつ行く末を見守っていると、シレイラがミラーナの手首をチラと見てレディックに鋭い声を向けた。
「ところで彼女のあの怪我…。まさかあれがサザールの言っていた、あなたが負わせた怪我なの?」
「…。」
「ミラーナ、その手首はどうしたの?」
「え?あ、これはご子息に腕を掴まれている時に私が無理矢理引っ張ったせいで傷めてしまっただけですので、ご子息は何も悪く…」
「傷めたッ!?どう見てもそんな軽いものじゃないでしょう!!」
「ヒッ!?」
ミラーナの言葉を最後まで聞くことなくシレイラは目をグワッと見開き、身体を捻ってレディックをギンと睨み上げた。その迫力は男三人を育てた賜物だろうかと思うほどにすさまじい気を放っている。庇われているはずのミラーナの方が、恐怖で固まり口をパクパクとさせた。
「レディック、どういうことなの?」
「今彼女が言った通りです。ですからその責任を取って彼女には仕事を休ませ、代わりの者を派遣しました。」
「あんな細い腕を傷付けておいて、何馬鹿なことを言っているのかしら。だから未だに女一人の心を掴むこともできないのよ。まぁいいわ。それならちょうど良かった。ミラーナ。」
「は、はい!」
突然矛先を向けられ、ミラーナは飛び上がって返事をした。シレイラが出てきてからバロイド伯爵が一言も言葉を発していないことから察するに、絶対に歯向かってはいけない相手はシレイラで間違いない。直前までの威勢はすっかり萎み、肩を縮めて言葉を待った。
「あなた、その腕では何かと不便でしょう?しばらくこの城に滞在しなさい。」
「え!?」
「今の話を聞いたら息子には任せておけないわ。まったく、女は仕事だけ休めばいいってものじゃないのよ!」
「あ、あの、私は帰れたらそれで…」
「身の回りの世話をする者を用意しておくわね。腕に負担をかければその分治るのも遅くなるのよ?いつまでもレディックに付きまとわれるのは嫌でしょう。」
「ですから、これはご子息のせいでは…」
「ね、そうしなさいよ。すぐに部屋を用意させるわね。」
聞く耳を持ってもらえない。呆気に取られて立ち尽くすミラーナの目の前で、次々に物事が進められていく。シレイラは長男ダグリスに部屋の外で待機する侍女を連れてくるように言いつけ、入ってきた侍女に素早く指示を出して下がらせた。
「さてと、これでいいわね。あら、あなた申し訳ありません。私ったらお話を途中で止めてしまいましたわ。」
「いや、構わん。では話を戻そう。ミラーナ、今のそなたの話からするとナデッタの父親はレディックで間違いないのだな?」
「お答えできません。たとえ罰せられようともあの子は私の娘であるという事実だけが真実です。」
「絶対に認めぬと申すのか。」
「なぜそこまで私の娘に執着なさるのですか…。どうしても子が欲しいと仰るのであれば、家柄の正しいご令嬢をお迎えする方がよろしいのではないでしょうか。ご子息はイーヴェルの英雄です。多くのご令嬢が憧れる男性でございましょう。誰の子か分からない私の娘よりも、その方に産んで頂く方が確かではないですか!」
堂々巡りのやり取りに、だんだんと心が折れそうになってくる。ミラーナが疲労と手首の痛みに顔をしかめてふらついていると、ゆっくりと近付いてくる足音に気が付き顔を上げた。すぐ目の前にはレディックが険しい表情で立っている。
「…なんでしょうか。」
「顔色が悪い。部屋を用意してあるから、そこまで送ろう。」
「誰のせいだと!!」
「俺のせいだ。言い訳はしない。君が…」
「今さら『君』なんて呼び方はやめて下さい。『お前』で十分です。それから送って頂かなくて結構です。」
「家族の前で、まだ俺に恥をかかせる気か?どう呼ぶかは俺の自由だ。あの地域を担当しているのは俺だということを忘れるな。」
「クッ…」
「それから、」
「なんです?」
「他の女を迎え入れろなど、二度と言うな。たとえ冗談でもだ。君が口を出す話ではない。」
「…申し訳ありませんでした。以後気を付けますって、きゃあぁぁ!!」
喋っている途中で身体が宙を舞い、ミラーナは思わず声を上げた。前回は村人や騎士団の部下たちの前で抱き上げられ、そのまま孤児院まで連れて帰られた。その時も相当恥ずかしかったが、今回はその時の比ではない。親兄弟に見られているのだ。しかもこのまま連れて行かれてしまえば城中の者に見られることになる。悪目立ちにも程がある。
「何をなさるのですか!!皆様の前でこのような…」
「フン、散々わめいておいて何を今さら恥じることがある。」
「それとこれとは関係ありません!放して…自分で歩けます!」
「一度抱き上げたものを下ろすわけがないだろう。見られるのが嫌なら顔を隠しておけ。」
胸元にボフッと顔を押し付けられ、ミラーナはさらに身動きが取れなくなった。もがいて離れようにも、わずかな動きで手首に強い痛みが走ってしまい動けない。さらに不本意な密着の隙間から見えたものは、一部始終をじっと見ている領主一家の姿だった。
----いやあぁぁぁ!!
結局レディックの胸に顔を押し付けるしかないままに、ミラーナは部屋に着くまでの間黙ってレディックに抱かれていた。
*
「失礼致します。」
扉をノックする音に返事をして目を向けると、一人の少女が入ってきた。
「本日からミラーナ・クライネ様とナデッタ様のお世話をさせて頂くことになった…ミラーナ様?」
「あ、ごめんなさい…ちょっと…待って…」
少女が丁寧なお辞儀をしている間に身体を起こそうとするが、身体が鉛のように重くてベッドから起き上がれない。隣にいるナデッタはスヤスヤと寝息を立てている。眠そうにしているナデッタをベッドで寝かしつけている途中までは覚えているのだが。
----なんだろう、身体がだるい…。
少女が慌てて駆け寄ってくる気配がするが、何を言っているのか分からない。ミラーナはグッタリと横になり、熱い身体と手首の痛みに目まいを覚えて瞼を閉じた。
*
しばらく目を閉じているうちに、額に冷たい感触がして薄く目を開ける。枕元に置かれた灯りに照らされた少女の顔が心配そうに覗き込んできた。
「気が付かれましたか?」
「う…はぁ、はぁ、あ…」
「ご無理なさらず。まだ身体中が熱いのです。先ほどお薬を飲まれたばかりですから、効いてくるまではお辛いかもしれません。」
----薬?
ミラーナはゼェゼェと荒くなる呼吸と割れるような頭の痛みに顔をしかめながら、朦朧とする意識の中を探った。しかしどこをどう探しても薬を飲んだ記憶がない。そもそも意識がなかったのだ。薬など飲めるはずがなかった。
----ううん、そんなことはどうでもいい。それよりナデッタはどこに…
ナデッタを捜そうにも虚ろな目を動かすこともできない。ミラーナは呼吸の合間に精一杯の声を出して少女に聞くことにした。
「あ…の、」
「はい?」
「ナ…タ、は…」
「ナデッタ様ですか?ナデッタ様は、……がさ…て、…ょにつ…」
耳の奥の脈打つような感覚が邪魔をして少女の声が聞き取れず、ミラーナは諦めて目を閉じた。まだ何かを話しているようだが、脈の音以外は何も聞こえない。そのままスゥッと意識が遠のき、今度は大きな手が額に触れたような気がしたが、目を開けることはできなかった。




