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幻想世界の紀行録  作者: TaYa
インクイジターの黎明
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始まり・3

 リビングルームのエアコンからダイニングキッチンに流れてくる涼やかな空気が、真夏の熱を帯びた体に心地よい。

 アンカルヤはダイニングチェアに腰を下ろして足を休ませながら、この状況について考えた。

 リビングとキッチン、それぞれのテーブルの上には、中に浮かぶ氷の数と形まで全く同じグラスが置かれている。リビングルームの状況が復元された結果だが、ならばなぜこのグラスは二つに増えたのだろうか。環境がリセットされるのなら、彼女が移動させたグラスは消えてなくなるはずだ。

 テレビのリモコンをテーブルからソファーに移動させたときは、リモコンは元の位置に戻っただけで、増えたりはしなかった。

 どちらも移動させた物が元の位置に戻るという現象だが、なら一つのままのリモコンと二つに増えたグラスという現象の差異は何が理由なのだろうか。

 この疑問の解明のために、アンカルヤは簡単な実験を試みることにした。

 ポケットから無地の黒いハンカチを一枚取り出して、グラスの横に置く。そしてリビングルームのテレビの電源を消してリモコンをポケットに入れた。

 それからコートと新聞と紅茶のペットボトルを持って家の二階に上がり、ベランダに向かった。


 ベランダから見上げる空は快晴で、太陽がまぶしくて目に染みた。

 強烈な夏の外気に頬がジリジリと炙られる。額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。

 街の様子を観察しようと周囲を見渡してみたが、近隣の家屋に視界を遮られ、このベランダからの見晴らしはあまりよくない。この街は、どれほどの広さがあるのだろう。そして、街の外はどうなっているのだろうか。わからないことばかりだ。

 ただただ静かだった。

 小鳥のさえずりも虫の音もなく、車やバイクの走行音もない。

 ここにはアンカルヤの他に音を発するものはない。

 あまりにも無音過ぎて、耳が気持ち悪い。

 異様なほどの静寂に、この街には自分以外に誰もいないのだということをアンカルヤは実感した。

 先程、この家の中を探索した際に要した時間は三十分ほどだった。そして探索を終えてリビングルームに戻ったとき、部屋の状態はリセットされていた。

 アンカルヤがベランダに出てから、まだ十分弱しか経過していない。少し早いかもしれないが、それでもアンカルヤは家の中に戻ることにした。さすがに、この炎天下のベランダで三十分を過ごすのは辛い。


 リビングルームに戻ったアンカルヤは空調の効いた快適な空気にホッと息をつく。

 予想通り、リビングの状態はリセットされていた。

 テレビには無人のニュース番組が映り、テーブルの上にはリモコンが置かれている。その隣に先ほど持ち出したリモコンを並べ、双方を見比べた。やはり二つは全く同じものだった。

 それからダイニングキッチンに向かうと、テーブルの上のグラスは消えていた。しかし、その隣に置いたハンカチは、そのままだった。


「――なるほど、ね」


 これで環境のリセット現象の条件が少しだけ解った。

 テレビの電源やリモコンにしても、麦茶のグラスにしても、アンカルヤは環境が復元される瞬間を確認していない。この現象は、彼女がその場を離れたときにだけ発生している。

 つまりアンカルヤが行った状態の変化は、彼女の知覚範囲内のみで維持されるのだ。

 だから彼女がポケットに入れて持ち歩いていたリモコンは二つに増えて、キッチンに残しておいたグラスは消滅したのである。

 コンビニから持ち出した新聞とペットボトルが消えていないのも、彼女が常に所持していたからだ。この二つは、彼女が手放せばすぐに消滅してしまうだろう。

 ここで注目すべきは、グラスの隣に置いたハンカチは消えていないことだ。

 このハンカチはこの街の物ではなく、アンカルヤの所持品だ。これは環境のリセットの対象とはならないらしい。

 自分の持ち物については環境のリセットの対象外である可能性が高いと予想していたが、この実験でそれが確認できた。

 なぜそう思っていたかというと、その根拠は先ほどのコンビニ探索にあった。コンビニの店内で、彼女は脱いだコートをレジカウンターの上に置いてバックヤードの探索を行った。環境の復元が彼女の持ち物にも適用されるのであれば、そのときにこのコートは消滅していたはずなのだ。なので、キッチンのグラスが消えてハンカチが残っていたのは彼女の予想通りだった。


 アンカルヤはキッチンチェアに腰を下ろすと、ペットボトルのキャップを開いた。そして、ぬるくなった紅茶をひとくち喉に流し込み、小さく息を吐いた。

 簡単な実験で環境の復元の条件は把握できた。

 だが、それだけだ。

 自分の身に何が起こっているのか、この街は何なのか。それらの謎の答えについては、未だに全く不明なままである。

 この街は見た目こそ日本にそっくりだが、少なくともここは日本ではない。

 環境に加えた変更が自動的にリセットされるなどという超常的な現象は、『彼』の世界ではありえない。

 だが、日本でないのであれば、いまアンカルヤのいるこの場所は何処なのだろうか。

 隣の椅子の背もたれに掛けたコートの内ポケットには、小さく折り畳んだ新聞が雑に押し込んである。先ほど立ち寄ったコンビニから持ち出したものだ。この新聞を読むことができれば、この状況について、なにか知ることもできたのだろうか。

 読めない新聞を持っていても意味はないのだが、日本語を記憶しているリフィリシアなら内容を確認できるはずだ。この新聞を彼女に見せる機会があればよいのだが。






 自分はいま、どういう状態にあるのだろうか。

 アンカルヤはこの状況について、改めて考えてみた。

 彼女は遺跡街の橋の上で、毒のナイフに刺されて殺されて死んだはずだ。自分の胸元を確認するが、そこにナイフによる傷はない。

 これは蘇生の霊薬の効果だろう。

 蘇生の霊薬には、不老不死の霊薬には不要なある要素が必要となる。

 それは、死因の排除だ。

 不老不死の霊薬の場合、そもそも死なないのだから死因もない。

 だが蘇生の霊薬は死後に発動する魔法薬であるため、服薬者の死が前提となる。

 アンカルヤは殺された。胸にナイフが刺さり、全身は毒に侵されている。この状態で蘇生しても、すぐに再び死に至ることになる。これを避けるには、蘇生の前にナイフによる傷を修復し、毒を無効化しなければならない。

 アンカルヤの胸の傷が消えているのは、この死因の排除によるものだろう。

 消えているのは体の傷だけではない。ナイフに貫かれた服の穴も消えている。

 ここに治癒の魔法と蘇生の霊薬の性質の違いが現れている。

 治癒の魔法は体の損傷を修復する魔術だ。なので、胸の傷は消えても服の穴は消えない。

 だが蘇生の霊薬は、因果に干渉して毒のナイフに刺されたという事実そのものを無かったことにする。だから胸の傷だけではなく、服の穴まで消えるのだ。

 彼女の胸の状態を見る限り、蘇生の霊薬が効果を発動していることは間違いなかった。


 おそらくアンカルヤは、すでに蘇生を終えた状態にあるのではないだろうか。

 だが、そうであるとはまだ断言できない。二つの疑問が残っている。

 蘇生に成功したのであれば、なぜ自分は遺跡街の橋の上ではなく、偽物の日本の街にいるのだろうか。

 胸の傷が消えた理由は蘇生の霊薬で説明がつくが、この街の存在については説明がつかない。

 蘇生の霊薬は世界に干渉を行う魔法だが、この様なある種の異世界を創造するような効果はない。つまり、この街は蘇生の霊薬とは異なる要因による現象だ。

 とはいえ状況からみて、さすがにこの街が蘇生の霊薬と全くの無関係とも思えない。これは憶測に過ぎないが、霊薬の効果をきっかけとして、副次的に未知の現象が発生しているのではないだろうか。

 だが、アンカルヤはこの謎について、今はとりあえず棚上げにしておくことにした。これ以上は考えても答えに届かないだろうし、それよりももう一つの疑問のほうが優先度が高いからだ。

 その疑問とは、『彼』の現状だ。

 蘇生の霊薬の効果については、ある懸念があった。

 アンカルヤが蘇生の霊薬を口にしたのは、今から十年以上も昔のことだ。そのときには彼女の内に『彼』はまだ存在していなかった。その『彼』にも、はたして蘇生の霊薬の効果はあるのだろうか。

 もし今の彼女がすでに蘇生を終えた状態にあるとすれば、『彼』は蘇生効果の対象に含まれなかったことになる。今のアンカルヤの内には、『彼』の存在が全く感じられないからだ。

『彼』の蘇生に失敗したかもしれない。

 その可能性に思い至った瞬間、彼女の顔から血の気が引いていく。

 だとすれば、これは最悪の事態だ。


 ――最悪?

 なぜ、そう思った?


 アンカルヤの内に『彼』が存在しない。それは本来あるべき彼女の姿だ。

 他人の精神と自分の体を共有するという異常な状態が、正常に修正されたのだ。これは歓迎するべきことのはずである。

 なのに、なぜそう思えないのか。


「――ああ、そうだね。私は『彼』と出会う以前の自分には戻りたくないのだ」


『彼』は一つ、大きな思い違いをしていた。

 彼女は、『彼』の存在を迷惑に感じているはずであると。『彼』と出会う以前の自分に戻りたいと思っていると。

 確かに、最初の頃はそうであった。

 しかし、ある出来事をきっかけに、彼女の思いは真逆に変化していた。

 今の彼女は、『彼』と別れたいなどとは思っていない。

 なぜなら、彼女は『彼』との出会いによって奇跡にも等しい恩恵を受け取っていたからだ。


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