チュートリアルの終わり・12
感覚が宙に浮かび、ふわふわ、ゆらゆら、揺れている。
何かを考えているのだが、しかし何を考えているのかは曖昧ではっきりしない。
心地よいというほどではないが、気分は悪くない。
ああ、これは微睡みだな。
ここ最近は眠りが浅いようで、微睡みを自覚することが多い。状況や環境のせいか、熟睡ができないようだ。
アンカルヤは形の定まらない思考の中を漂っていた。
すぐ側に何者かの気配を感じ、アンカルヤは慌ててぼやけた意識を再起動させる。
薄暗いランプの明かりの下に、リフィリシアの泣き顔があった。彼女のつぶらな黒い瞳から、涙がポロポロとこぼれ落ちている。
状況が飲み込めず、アンカルヤは狼狽する。
「ど、どうしたのだ?」
アンカルヤは思わずソファーから立ち上がった。だが、まだ体は目覚めていなかったようで、下半身に力が入らず上体がふらつく。
そんなアンカルヤに、リフィリシアが抱きついてきた。
反射的に彼女の背に腕を回して受け止める。
しかし寝惚けた体ではその勢いを受け止めきれず、アンカルヤはバランスを崩してソファーの上に押し倒されてしまった。
思わず抱き留めてしまった少女の感触に、アンカルヤの頭がくらくらする。
腕の中にすっぽりと収まった小さな体は、しっとりとしていて柔らかく、そして暖かかった。
アンカルヤの心臓が加速する。彼女の胸に頭を乗せているリフィリシアにも、その鼓動は届いているだろう。
「夢を……見たんです」
リフィリシアが弱々しい小声で呟いた。
「ゆ、夢?」
「……日本に帰った夢です」
それは、よい夢ではないだろうか?
だが彼女の瞳から零れ落ちる雫は、喜びの涙には見えない。
「お父さんもお母さんも、姿の変わってしまった私を娘だと認めて、帰宅を喜んでくれました。私も嬉しかった」
ならば何故、彼女は泣いているのだろう。
「でも、おばあちゃんがいないんです。おばあちゃんが何処にいるのかお母さんに聞いても、曖昧に目を逸らして答えてくれなかった……」
「――ああ」
そういうことか。
アンカルヤの腕の中で、リフィリシアの小さな肩が震えている。
飛び付いてきたリフィリシアを受け止めた際に、反射的に彼女の背に腕を回してしまったが、よかったのだろうか? 今更、アンカルヤはそんなことを思った。
相手の許可なく、女の子の体に触れてしまった。
だが、この状況で今さら腕を離すというのも違うだろう。
リフィリシアもアンカルヤの腕を振り解こうとはせずに受け入れているので、このままでよいはずだ。
むしろ、彼女の背に回した腕で優しく抱き締めるべきなのだろうか?
だが、生まれてはじめて女の子を腕の中に受け入れた『彼』には、そこまでの勇気はなかった。
「おばあちゃんは最近病気がちで、去年も一月ほど入院していました」
「それは、確かに心配だね」
「きっとおばあちゃんも、突然いなくなってしまった私のことを、すごく心配しているはずです」
「そうだね。一刻も早く日本に帰って、安心させてあげないといけないね」
『彼』の家族はみな健康だったので、そこは心配していない。
だが、早く日本に帰りたいのはアンカルヤも同じだ。『彼』の家族も心配しているはずだ。
元の世界に帰る方法が見つかっても、それが数十年後では意味がない。いつ迄といった明確な設定はなくとも、日本への帰還には確かにタイムリミットがあるのだ。
「今はまだ帰れなくても、せめて電話か手紙で私は無事だと伝えられたらいいのに」
リフィリシアの言葉に、アンカルヤは息を呑んだ。
元の世界に帰ることばかりを考えて、元の世界と通信を行うことは思い付かなかった。
だが、これは検討する価値のあるアイデアだ。
「……本当の私は、今の私ほど可愛くはありません」
ん?
何の話だ?
「お父さんもお母さんも、私のことを可愛いって言ってくれていたけど、それは身内だからです」
私もキミは可愛いと思うよ。
そう思ったが、それを言葉に出せる『彼』ではなかった。
「でも、おばあちゃんは違って、私のことを本当に世界で一番可愛い女の子だと思っているんです。だから、おばあちゃんが私のことを可愛いと言うたびに、それがとても恥ずかしくて、そんなことないって否定していました」
夢の話を聞いていたはずが、いつの間にか話題が変わっている。おそらくリフィリシアは話の脈絡など考えておらず、心に思い浮かんだことを取り留めもなく言葉にしているのだろう。
「でも、私がそんなことはないって言うと、いつもおばあちゃんは少しだけ悲しそうな顔をするんです。そんな顔、してほしくないのに」
女の子との接し方がわからない『彼』でも、今のリフィリシアにどう接すればよいのかはわかる。ただ彼女の話に耳を傾けて、頷けばよいのだ。
「そうだね。真実は人の数だけある。おばあちゃんにとって、キミが世界一可愛い女の子だということは間違いようのない真実なのだろう」
アンカルヤにしがみ付くリフィリシアの腕の力が増す。
「アンカルヤさんは、いつも私に答えをくれるんですね」
「ん? ん~? そのようなつもりはないのだが……」
ふと思い浮かんだ言葉を口にしただけで、アンカルヤには答えを返したという認識はない。
「私がもう少しだけ大人で、それが理解できていたら、おばあちゃんにあんな顔はさせなかったのに……。おばあちゃんに会いたい、そして今すぐに謝りたい」
リフィリシアがアンカルヤの胸元を涙で濡らす。
かけるべき言葉が見つからない。この状況は、どう対応するのが正解なのだろうか。
勇気を振り絞り、リフィリシアの背に回した腕に申し訳程度にほんの少しだけ力を加える。それが、今のアンカルヤにできる精一杯だった。
それでも彼女には伝わったようで、リフィリシアはそれ以上に強い力でアンカルヤに縋り付いてきた。
ど、どうしよう……。
アンカルヤはこの後どうしたらよいかわからず、心の中であたふたする。
リフィリシアは言いたいことを全て口に出し終えたようで、今は沈黙している。
二人の接触面が熱を持ち、じんわりと汗ばむ。不快感はないが、とても落ち着かない気分になる。
緊張に喉が渇き、生唾を飲み込む。体が強張り、僅かな身じろぎさえできない。
心臓の鼓動は今も高回転を維持している。
密着するリフィリシアの体から、彼女の心臓の鼓動も伝わってくる。
会話が止み、テント内に音を発するものはなくなった。
だが、二人の鼓動が互いの体内で共鳴して、世界中に響き渡っているように感じられた。
アンカルヤの腕の中で、リフィリシアの小さな肩が一定のペースでゆっくりと上下している。
まさか、この状況で眠ってしまった?
いや、それはないだろう。ないと思いたい。
少女の微かな呼吸音が、アンカルヤの耳を優しくくすぐる。
自分の胸の上で、寝間着姿の少女が無防備に身を委ねている。それだけ気を許してくれているということで、これは信頼の証でもあるのだろう。
それはそれでムズムズするような気恥ずかしさと嬉しさを感じるが、同時にもう少しお互いの距離感を見直してほしいとも思う。これでは心臓がもたない。
腕の中にすっぽりと収まる体の小ささに、彼女がまだ中学生だということを思い出す。
まだ、自分が女性であるという意識よりも、子供であるという意識のほうが大きいのだろう。だからこそ、リフィリシアはこのように無邪気に甘えることができるのだ。
そんな少女に対して、自分はどう接すればよいのだろうか。残念ながら、その答えをアンカルヤに教えてくれる者はいない。ならば、とにかく手探りで対応していくしかないだろう。
リフィリシアは本当に眠ってしまったのだろうか?
しかしアンカルヤのほうは、この状態ではとても眠れそうにない。仕方ないか、と彼女は自分の睡眠は諦めることにした。
リフィリシアが安心して眠れるというなら、自分の胸を枕に貸すくらいは構わない。アンカルヤはリフィリシアを起こさないように、慎重に彼女の背に毛布を掛けた。
今は何時くらいだろうか?
テントの中に現在の時刻を示すものはない。
感覚的には、既に夜を迎えていると思われる。
だとすれば、夕食を食べそこねてしまった。
朝食にかなりの量を胃に収めたとはいえ、昼食をキャンセルしていることもあって、流石に空腹を感じる。
しかし、夜ももう遅いと思われるので、アンカルヤは夕食を断念することにした。そもそも、今のこの状態では食事をとること自体が不可能だ。
だが、空腹を抱えたまま、朝までこの状態を維持するのは流石に辛い。
やはりリフィリシアを起こして、自分のベッドに戻るように促すべきだろうか。このままゆっくりと眠らせてあげたいとは思うが、自分と密着したこの状態は、あまり好ましいことではないだろう。
そのようなことを考えながら、アンカルヤはリフィリシアの黒髪にそっと触れた。サラサラと指先を流れる繊細な感触に、思わずうっとりする。
彼女と出会った日の夜、アンカルヤはリフィリシアに対して同性の友人として接したいと伝えた。だが困ったことに、女の子同士の友人関係というのがよくわからない。
少女の体温と心臓の鼓動をダイレクトに感じながら、女の子の友達というのはこういうものなのだろうかと疑問に思う。これは友人というには距離を詰めすぎているのではないだろうか。
これから先、どのようにリフィリシアと接していくべきか。
それもまた、元の世界への帰還や謎の黒幕と並んでアンカルヤを悩ませる、大きな課題であった。
もし自分が男性キャラクターの体でこの世界に転移していたら、どうなっていただろう。
薄暗いテント内の風景をぼんやりと眺めながら、アンカルヤはふとそんなことを想像した。
今の自分が男性であったら、リフィリシアとこのように接することはなかっただろう。それは間違いない。
おそらく、このテントはリフィリシアに預けて、自分はロウギスのテントにお邪魔させてもらうことになっていたはずだ。
そうなると、あの夜もなかったことになる。
アンカルヤとリフィリシアが初めて共に過ごした夜は、運命の分岐点だった。
あの夜から、星去り峰を目指すアンカルヤたち三人の物語は始まったのだ。
だが、それよりも重要な事実がある。
もしもアンカルヤとリフィリシアがテントを共有していなければ、リフィリシアは他に誰もいないこのテントで、一人きりの孤独な夜を涙と共に過ごしていたのだ。
それは駄目だ。断じてあってはならないことだ。
そのような最悪の事態は、幸運にもアンカルヤが女性であったことで避けることができた。
今の自分がアンカルヤであって良かったと思ったことは、これまでにも度々あった。
だが、今の自分が女性であって良かったと思ったのは、これが初めてだった。
無力な自分が無力な少女にしてあげられることなど殆どない。こうして側にいることだけで精一杯だ。だが、それができるというだけで、今は充分だった。
アンカルヤの上に重なっていたリフィリシアの体が不意にピクリと揺れたかと思うと、プルプルと震えだした。
お腹のあたりに感じていた彼女の心臓の鼓動が激しくなる。
起きている?
寝ていなかった?
だが急にどうしたのだろう?
もしかして、勝手に髪に触れたことを怒っている?
考えなしに触ってしまったが、女性の髪に許可なく触れるというのはかなり失礼な行為のはずだ。
「ああっ、あの、ごめんなさい!」
「あっ、すまな――ん?」
アンカルヤが謝罪を口にしようとした瞬間、それよりも一瞬早くリフィリシアが先に謝罪の言葉を発した。
そして慌ててアンカルヤの上から飛び退こうとしてバランスを崩す。その体をアンカルヤはとっさに受け止めた。
再び密着する二人。
リフィリシアの感触に、アンカルヤの顔が真っ赤になる。
「す、すまない。勝手に触れてしまって」
アンカルヤはそっとリフィリシアの肩から手を離した。
「えっと、リフィリシア?」
今度はふらつかないように、リフィリシアはゆっくりと上体を起こした。
「その……私、鬱陶しいですよね。ウザったいですよね」
「ん? いや、そんなことは全くないが?」
リフィリシアはランプの薄明かりを背にしていて、表情はよく見えない。
逆光の影の中で、彼女の瞳から数滴のきらめきが零れ落ちた。
「アンカルヤさんだって自分のことで大変なのに、私はこんなふうに何度も甘えてしまって。泣き言ばかり言って。こんなことではだめだって、私もわかっているんです。こんな弱い心では、大変な旅などできないって。自分は、もっとしっかりしないとだめだって」
確かに、アンカルヤがリフィリシアを重荷に感じていることは事実だ。
だが両者の認識には、大きなズレがあった。
少なくともアンカルヤは、リフィリシアに甘えられて鬱陶しいとかウザいと思ったことは一度もない。
だが、彼女の自己評価の低さとアンカルヤに対する過大評価と過剰な期待は、はっきりいって迷惑だった。
どうもリフィリシアは、アンカルヤのことを常に正しい答えを導き出すことのできる頭脳明晰な人間だと勘違いしているようだ。
もちろん、これは間違いだ。
言うまでもないことだが、アンカルヤは完璧超人などではない。彼女の中の『彼』は唯の高校生に過ぎない。中学生のリフィリシアとは、僅か数年の歳の差しかないのだ。
ロウギスのような大人ならともかく、まだ未熟な『彼』にできることなど高が知れている。
もちろん、リフィリシアには可能な範囲で出来る限り手を貸すつもりだが、寄り掛かられるとさすがに支えきれない。
アンカルヤは、その程度の存在なのだ。リフィリシアの保護者にはなれないし、なるつもりもなかった。
「……そうだね。それについては、私もキミの言葉を否定しない」
突き放すような言葉になってしまったが、しかし他に言いようがなかった。
ここで耳にやさしい言葉を選んでも、リフィリシアの勘違いを悪化させてしまうだけだ。
「……ご迷惑をおかけしました。私は上に戻ります」
震える声でそう言うと、リフィリシアはアンカルヤの上から離れる。火照った体が冷気に晒されて、ひどく寒く感じた。
ふらつきながら立ち去ろうとするリフィリシアの手首を、アンカルヤは慌てて掴んだ。
「待って! 誤解がないように、キミに伝えておかなくてはならないことがある」
リフィリシアは立ち止まったが、アンカルヤのほうを振り向かなかった。
「今のキミに甘さや弱さがあることは事実だが、それは私もロウギスも同じだ。以前にも言ったことだが、私はキミに無理や不可能を求めてなどいない。そして、私にも求めないでほしい」
リフィリシアは自分の心の弱さや体力不足が仲間の足を引っ張ってしまっていると気にしているが、そんなことはアンカルヤもロウギスも気にしていない。彼女の年齢を考えれば心や体力が未熟であることは当然で、もしそれを責める者がいたら、間違っているのはそいつのほうだ。
「迷惑というなら、こうして甘えられることよりも、何も言わずに一人で感情を抱え込まれるほうが私は困る。仲間に頼ることを、迷惑をかけてしまうからという理由で躊躇わないでくれたまえ」
そしてアンカルヤはリフィリシアの手首からそっと手を離した。
「――そうだ。キミさえよければ、今夜も寝袋を用意してキミの側にいようか?」
「いいえ、そこまで甘えられません」
声色からリフィリシアが無理をしているのは明らかだが、他にかけるべき言葉も見付からず、アンカルヤは彼女の小さな背中を見送ることしかできなかった。
そしてリフィリシアは、一度もアンカルヤを振り返ることなくロフトの上に姿を消した。
ロフトの上をちらりと見上げ、アンカルヤは深々とぬるい息を吐き出した。
リフィリシアのアンカルヤに対する過大評価は、その誤解に気付きながら訂正の足りなかったアンカルヤにも原因がある。この認識の相違は、できるだけ早く修正しておく必要があるだろう。まだ大きな問題には発展していない、今のうちに。
「とはいえ、どうしたものかな……」
これまでのリフィリシアの言動を思い返して、アンカルヤはあることに気が付いた。
彼女はたびたび、仲間という言葉に強いこだわりを見せていた。
そして仲間という言葉に対する彼女のイメージには、奇妙な偏りが見て取れる。
リフィリシアは自分の体力不足や精神的な弱さを気に病むにもかかわらず、逆に探索や戦闘での自分の貢献には無頓着だ。移動、探索、戦闘であれだけ活躍し、そしてアンカルヤの命を救っているにもかかわらず、どうして自分は何の役にも立っていないなどと思えるのか、全く理解できない。
仲間の邪魔にならない、足を引っ張らないということはやたらと気にする。しかし仲間に対する貢献については、ほとんど意識していない。
この歪な偏りは、何が理由なのだろう。
性格だろうか?
いや、性格の一言で済ませるには、少々極端すぎるようにも感じられる。
それに加えて、仲間という言葉に対するハードルの高さも問題だ。
リフィリシアが仲間の基準としているのは、現実のアンカルヤではない。彼女の意識の中にのみ存在する、過大評価された幻のアンカルヤなのだ。
そのような空想上の存在に、誰が仲間として並び立てるというのか。
彼女は不可能を目標にして、それが達成できないことを気に病んでいるのだ。不毛という他ない。
アンカルヤは物語の主人公ではない。魔王を倒して世界に平和を取り戻すこともできない、囚われの姫君を救い出すこともできない、圧政に苦しむ民衆を開放することもできない、飢えに苦しむ人々を満たすこともできない、病に侵された者を癒すこともできない。そもそも、そのようなことをする気もない。
自分の家に帰る。ただそれだけを望み、そしてその程度のことすらままならない、無力でちっぽけな一人の人間に過ぎない。
そう、アンカルヤはリフィリシアが期待しているような存在ではないのだ。
「もし本当に私がそのような存在であれば、この問題もあっさりと解決して、今頃は気持ちよく安眠していただろうね」
ふと、くだらない愚痴をこぼしてしまい、アンカルヤは自分の思考が行き詰まっていることを自覚した。
今夜はもう、これ以上の思案は止めておくことにしよう。物思いにふけったところで、どうせ有意義な結論など期待できまい。
そう判断したアンカルヤは、鈍重にソファーから立ち上がった。そして覚束ない足取りでテントの入口に向かうと、外の様子を確認する。
真っ暗だ。思っていたとおり、昼寝をしている間に夜になっていたようだ。
消えかけの篝火が見える。東の空は暗く、日の出はまだ先だ。
空気は冷たくて、とても静かだった。
アンカルヤはテントの戸締まりを確認すると、ふらふらとソファーに戻った。
今更夕食をとる気にはなれず、毛布に包まりソファーの上にうずくまる。
一人であることが、ひどく寂しい。
心と体の両方が、とても寒い。ロフトの上に去ってしまったぬくもりが、どうしようもなく恋しかった。
「……甘えているのは私も同じだよ、リフィリシア」
朝はまだ遠い。だが、アンカルヤはリフィリシアの暖かさを思い出して、暫くは眠れそうにはなかった。
テントの中に、カランコロンと乾いた音が反響する。
いつの間にか眠っていたようだ。
鳴子の音に、うつらうつらしていたアンカルヤはのっそりと起き上がった。
今は何時くらいだろうか。時間の感覚が曖昧だ。
億劫そうに立ち上がると、テントの入口に向かう。
先程の音でリフィリシアも目覚めたらしく、ロフトの上からアンカルヤの様子をうかがっている。
テントの入口を少し開くと、角度の浅い朝の陽光がテント内に差し込んだ。その眩しさに、アンカルヤは目を細める。
来客は、アマギリイナであった。
「おはようございます、アンカルヤさん。昨夜は充分に休めましたか?」
「この世界に来て初めて、ゆっくりした時間を過ごしたよ」
昨夜はリフィリシアのことを考えていてなかなか寝付けなかったが、それでもそれなりに睡眠をとることはできた。
「それはよかったです。今日は朝のうちにこの基地を出発したいので、移動の用意と朝食を終えたら基地の北門に来てください。全員が揃ったら、すぐに出発します」
「慌しいわね。なにか急ぐ理由でも?」
「街に到着するだけでよいのなら、昼過ぎに出発しても間に合います。ですが、街に到着した後の案内や手続きに必要な時間を考えると、昼過ぎか遅くとも夕方前には向こうに到着したいのです」
「なるほど、街に着いた後にも時間が必要なのか。わかった、用意を急ごう」
テント内に戻ったアンカルヤは、リフィリシアに先程のアマギリイナの言葉を伝えて、出発の準備に取り掛かった。
荷物をまとめるためにロフトの上に戻ろうとするリフィリシアを呼び止めて、浄化の魔法薬を手渡す。
「――昨日のうちに、お風呂を済ませておけばよかったですね」
「そのとおりだが、今更だ」
「そうですね」
リフィリシアは受け取った魔法薬を口にせずにポケットに仕舞う。
「――では、出発の準備をしてきます」
「あ、うん……」
昨夜のこともあってか、態度がどことなくよそよそしい。
言葉を交わしている間、リフィリシアはアンカルヤと視線を合わせなかった。
朝食は錬金術師の焼き菓子と香草茶で手早く済ませる。
時間がないときは、一口で一日の食事を終えることができるこの焼き菓子はとても便利だ。
服と装備を整え、手荷物をまとめてテントを出ると、ロウギスが自分のテントを畳んでいた。アマギリイナたちのテントは既に片付けられていて、ここにはない。
「おはよう、ロウギス。もう出発の用意はできたのかい?」
「もうすぐだ。そっちはどうだ?」
「こちらも、あと十分と少々といったところだ」
アンカルヤの後に続いて、カバンを肩に掛けたリフィリシアがテントから出てきた。
魔法使いのトンガリ帽子に黒いローブを纏った魔術師姿がとても可愛い。
昨夜の彼女の感触を思い出して、アンカルヤの胸がドキドキした。
「おはようございます、ロウギスさん」
「おう。おはよう、リフィリシア。昨日はよく眠れたか?」
「はい。まだ少し筋肉痛が残っていますが」
「今日の移動は一昨日よりも楽だとアマギリイナが言っていたから、大丈夫だろう。だが、くれぐれも無理はするなよ」
「はい」
一足先に出発の準備を終えたロウギスが、自分たちのテントを片付けているアンカルヤとリフィリシアの様子を見て、不思議そうに首を傾げた。
「――何かあったのか?」
「ん?」
「あ~、いや。気の所為だとは思うが、お前たち二人の距離がいつもよりも少し広いように見えてな」
「……どうだろうね」
なかなか目ざとい。
同じことをアンカルヤも感じていた。
どうやら昨夜の出来事がきっかけで、アンカルヤとリフィリシアの距離が少し開いてしまったようだ。
だが、これでよいはずだ。
むしろ今までが近すぎたのだ。
アンカルヤは、そう自分に言い聞かせる。
それでも、胸の奥に感じる寂しさは誤魔化せなかった。
テントの片付けを終えると、アンカルヤたち三人はそれぞれの荷物と装備の最終確認を行う。
天候は快晴。
高くて広い青空に、眩しい太陽。白い雲が北から南に流れている。
風は冷たいが、陽光が肌に温かい。
予定通りに事が進めば、今日の午後には遺跡街に到着する。
迷宮に向かうと決めたのはつい数日前のことなのに、その後にいろいろな出来事があったせいで、ここまで随分と時間がかかってしまったように感じる。
「いよいよだね」
「ああ、いよいよだ」
三人の仲間たちは、期待と不安を胸に採集基地の北門に向かった。
誤字を修正しました。誤字報告ありがとうございます。




