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幻想世界の紀行録  作者: TaYa
迷宮島の放浪者たち
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戦いの余韻

 アンカルヤとリフィリシアの二人は、補修したポールに負担をかけないように気を付けて、丁寧にテントを設置した。

 ロウギスのテントの隣に、アンカルヤの小さなテントがちょこんと並ぶ。

 身を屈めてテントの入口をくぐったアンカルヤは、中の様子を確認して安堵する。

 テント内の状態は、今朝と何一つ変わっていない。

 付呪の効果は、テントの損傷にも耐えて正常に機能していた。

 これから先のこの世界での生活を考えれば、エンチャントテントはアンカルヤの生命線といっても過言ではなかった。実際、この森の中で三度の夜を安全に過ごすことができたのは、このテントのおかげである。

 もし偽ロウギスの攻撃でテントが失われていたらと考えるとゾッとする。

 エンチャントテントの扱いには、今まで以上に気を使う必要があるだろう。


 アンカルヤの後に続いてテントの入口をくぐったリフィリシアが、小さくため息に似た声を漏らした。


「あ……」

「ん? なにか気になることでも?」

「――朝と何も変わっていない、と思ったんです」


 彼女の言う通り、テントの中の様子に変化はない。

 魔法の火の灯ったランプが、テントの内部を照らしている。

 洗濯ロープにはリフィリシアの洗濯物が吊るされたままだ。

 テント内の空気には、今朝の石鹸の匂いがまだ微かに残ってた。

 薪ストーブの火はすでに消えていたが、それ以外で今朝と異なるところは見当たらない。

 エンチャントテントは付呪の効果が有効であれば、多少破損しても内部の状況はきちんと保存されるのだ。


「変わらないことが、気になるのかい?」


 これは感性の違いなのだろうが、リフィリシアは薪ストーブの周囲のラグの焦げ目に喜んだように、アンカルヤが思いも寄らないようなことに関心を向けることが度々あった。

 彼女はテントの中の様子を見て、アンカルヤが気にも留めていない何かに気が付いたのかもしれない。


「私は――いえ、私達は今日、色々な出来事があって、多くのことが変わってしまいました。なのに、このテントは今朝と何も変わっていないのが、なんだか少し不思議な感じがして……。ごめんなさい、うまく言葉にできません」

「……そういうことか」


 輪郭のはっきりしない感情を、言葉で言い表すのは難しい。

 それでも、アンカルヤにはリフィリシアの言いたいことが何となく理解できた。それは今自分が感じている感情と同じものだと思えたからだ。

 今朝と何も変わることがないテントの中の様子に、今日一日の経験を通じて変わってしまった自分を、否応なしに意識させられたのだ。

 今日、アンカルヤは自身の生命の危機に恐怖し、自らの意思で戦いに赴いて敵の命を奪った。

 このような命のやり取りは、平和な日本で高校生として生活していた『彼』にとって、もちろん初めての経験だった。

 それ以外にも、今日はいろいろな出来事があった。

 今朝の予定では、今頃アンカルヤたちは島の中央にある迷宮に向かっている途中か、あるいは既に迷宮に到着しているはずであった。

 なのに、南方に見えた煙につられて迷宮とは反対の方向に進み、濃霧の中をさまよい、リフィリシアを見失い、偽のロウギスに襲われる。そして危うく命を落としかけ、リフィリシアと彼女が魔法で召喚した白狼に助けられる。その後、アンカルヤと同じくこの世界にやってきていた多くのプレイヤーたちと出会い、彼らに協力してゴブリンとの戦いに参加した。そして武器を振るい、多くの敵を殺し、勝利した。

 今日一日の経験は、アンカルヤたち三人の今後の人生にとても大きな影響を及ぼすことになるだろう。

 いや、既に影響は及んでいるはずだ。今朝のアンカルヤと今のアンカルヤは、もはや別人といっても大げさではない。それだけの経験を経て、彼女はこのテントに帰ってきたのだ。


 自分が変わってしまったがゆえに、変わらないものに違和感を感じてしまう。もどかしさにも似ていて、同時に深い喪失感も伴うこの感情を、一言で表す言葉をアンカルヤは知らない。

 今日、『彼』は確かに何かを得た。そして、その代償に何かを永遠に失ってしまった。

 それは良いことなのか、それとも悪いことなのか。この変化は、はたして成長とよべる様なものなのか。

 今のアンカルヤにはわからない。

 ただ、自分が不可逆的に変わってしまい、もう以前の自分に戻ることはできないのだという事実が、どうしようもなく切なかった。






 アンカルヤは薪ストーブの横に置いてあった薪を手に取ると、ストーブにくべた。するとストーブにひとりでに火がともり、周囲に暖かな空気が広がる。

 その熱は、彼女たちの体だけではなく、心もほんのりと温めてくれた。

 薪ストーブの火が安定していることを確認すると、アンカルヤはソファーに腰を下ろした。

 彼女の全身から、力が抜け落ちた。


「ああ、これは駄目だ。もう、今日は動けそうにない」


 アンカルヤは腰のベルトポーチから浄化薬の小瓶を取り出すと、一口で一気に飲み干した。

 彼女の衣服から血や泥が幻のように消えていく。

 同時に、彼女の体にまとわり付いていた汚れの不快感もなくなる。

 そんな不思議な光景を目の当たりにしたリフィリシアが、目を丸くして息を呑んだ。


「浄化の薬って、すごいですね」

「そうだね。残念ながら、服はボロボロのままだが」


 浄化薬には衣服の汚れを消し去る効果はあっても、損傷を修復する効果はない。

 幸いなことに、ブーツとグローブは多少の傷はあるものの問題なく使えそうだった。もともと頑丈なつくりであり、直接的な攻撃のダメージも受けていないからだ。

 しかしコートは駄目だ。かなりひどく損傷しており、修復は不可能だろう。

 着替えなければならないと思いつつも、そんな気力は残っていなかった。

 アンカルヤはとりあえずブーツとグローブだけを脱ぎ捨てると、ソファーに体重を預けて大きく息を吐いた。


 リフィリシアがアンカルヤの隣にちょこんと腰掛けた。

 そんな彼女にアンカルヤは腰のポーチからもう一本の浄化薬を取り出し、言葉もなく差し出した。

 群青色の小瓶を見て、リフィリシアは少し躊躇った様子を見せる。

 しかし、すぐにこの状況に観念したらしく、何かを諦めたような力ない笑顔を浮かべて小瓶を受け取った。

 彼女は少し手間取りながら小瓶の封を解くと、魔法薬を恐る恐る口にした。

 もともと彼女には目立った汚れもなかったので、見た目に変化は殆どない。

 それでも、彼女自身には薬の効果が実感できたようだ。


「魔法のお薬って、こんな感じなんですね。何だか、不思議な感覚です」

「この薬の効果は、あくまで浄化のみ。怪我や疲労の回復は期待しないようにね」

「怪我は大丈夫ですけど、疲労回復の薬は欲しいかも。確かゲームにはありましたよね、疲労値を回復する薬」


 アンカルヤは細い眉をしかめた。


「確かに疲労の回復薬は存在するし、私も持っているよ。だがゲームで使う分には問題はないのだが、現実での使用はおすすめできないかな。自然回復が望める状況では、使うべきではないよ」

「そう、ですか……」

「ああ。だから今夜は、ゆっくりと休むことにしよう」

「そうですね。私も、もう動けそうにありません。ごめんなさい。洗濯物は、明日の朝に片付けます」


 このような状況でも洗濯物を気にするリフィリシアが面白くて、アンカルヤは綺麗な顔に小さな笑みを浮かべた。






 二人の少女は並んでソファーに腰掛け、薪ストーブの火を眺めて静かな時を過ごしていた。


「そういえば、キミにランタンを借りたままだったね。返しておくよ、ありがとう」


 他にも、ロウギスに借りた短剣もまだ返していないことをアンカルヤは思い出した。彼には、明日の朝に返せばいいだろう。今から彼のテントまで出向くような気力はもうない。

 腰のベルトからフックを外すと、お礼の言葉とともに小さな携帯ランタンをリフィリシアに差し出した。

 それを受け取る小さな手が、微かに震えていた。


「――寒い? ストーブの薪を増やそうか?」

「あ、いえ。そうではないんです」


 リフィリシアは震える手を暖めるように握り締めた。


「寒いんじゃなくて、怖いんです……。もう終わったのに、まだ心があの戦いの中に残っているみたいで……」


 今にも泣き出しそうなリフィリシアに、アンカルヤはどう対応したらいいかわからず固まってしまった。

 これが映画やドラマなどなら、震える少女の手に、そっと優しく自分の手を重ねるシーンだ。

 だがそれを思いついても、実行できるかどうかは別問題だ。

 高校生の男子にとって、女の子の手に触れるという行為はハードルが高かった。


「覚悟、していたはずなんです。でも、覚悟したつもりになっていただけで、覚悟なんてできてなかった」

「わかるよ、その気持ち。私も同じだ」

「アンカルヤさんも?」


 リフィリシアは意外そうに、アンカルヤの顔を見返した。


「そもそも、殺したり殺されたり、そんな覚悟はしようと思ってできるものではない。だから、今はまだそういうことに正面から向き合えないなら、仕方がなかったのだと割り切るしかないのでは?」

「……いいのでしょうか?」

「良いか悪いかで問うならば、それは勿論、良いことではないだろう。でも、仕方がなかったと割り切りでもしなければ、少なくとも私は前には進めそうにない」


『彼』は高校生で、リフィリシアは中学生だ。

 どちらも、本当ならば戦いなど知らなくていい、知るべきではない存在だ。

 だが、世界がそれを許さない。

 危険に満ちたこの世界で生きていくためには、ましてや果ての見えない長い旅に赴くのであれば、どんなに拙くとも戦う力は必要だ。

 だから、リフィリシアに召喚魔術を教えたハイエルフたちの判断は正解だ。

 それは子供に銃を持たせるに等しい行為だが、この世界で生きていくためにそれが必要であるなら、それは仕方がないことなのだ。

 そう、仕方がないと割り切るしかないのだ。

 アンカルヤは苦々しげに唇を噛み、ランプの影が揺れるテントの天井を見上げた。


「ああ、本当に……」


 そこから先は声にはならず、心の内で呟いた。


 ――本当に、ままならないものだな。






 薪ストーブから、時折パチパチと薪の弾ける音が聞こえる。

 テントの中に、それ以外の音はない。

 アンカルヤは、ただじっと、ストーブの中でユラユラと踊るオレンジ色の火を見つめていた。

 胸の奥深くに大きすぎて持て余す思いを抱き、その重さにジッと耐えながら。

 ふと、ロウギスのことが気になった。

 彼も今のアンカルヤたちと同じような思いを胸に抱えて過ごしているのだろうか?

 しかし、今の彼は一人きりだ。

 アンカルヤの隣にはリフィリシアがいる。だから、二人で同じ重荷を共有できた。

 だが、彼は一人でこの夜を過ごしている。

 ロウギスは大人だ。未熟なアンカルヤやリフィリシアとは違う。

 どうしようもない状況や、ままならない思いを乗り越えてきた、そんな人生経験は豊富だろう。

 そんな彼であれば、一人でもこんな思いを飲み込むことができるのかもしれない。

 でも、それは駄目だ。

 同じ重荷であれば、共に背負うべきだ。

 それが仲間というものだろう。

 だから、近いうちに機会をつくって沢山の言葉を交わそう。

 アンカルヤとリフィリシアとロウギス、三人で――。


「ん?」


 隣に視線を向けると、いつの間にかリフィリシアは小さな寝息をたてていた。

 どれほど思い悩んでいても、疲労には逆らえなかったのだろう。

 仕方がない。

 ソファーは彼女に譲って、自分は寝袋で横になろう。

 アンカルヤはそう思った。

 そして、思っただけだった。

 疲労に逆らえないのは、彼女も同じだった。

 寝袋の用意どころか、ソファーから立ち上がることさえ億劫だった。

 それでもアンカルヤはなんとかふらつきながらも立ち上がると、ソファーの背もたれに掛けていた毛布を手に取り、リフィリシアを起こさないようにそっと彼女の肩に被せた。

 それから彼女の隣に静かに腰を下ろすと、ソファーに深く身を預けてゆっくりと瞼を閉じた。

 睡魔はすぐに彼女の下にもやって来た。アンカルヤは抵抗することなく、睡魔に意識を手渡した。

 静かなテントの中に、二人の少女の寝息が重なる。

 ストーブの中で薪がパチンと弾け、火の粉が舞った。


 こうして、アンカルヤたちの長い長い一日は終わった。


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