霧の中へ・17
この世界は危険に満ち溢れている。
そんな世界を旅しようというのであれば、立ちはだかる危機や困難を乗り越える勇気や力を求められることになる。
この戦いはアンカルヤたちにとって最初の試練であると同時に、彼女たちがこの世界を旅する資格を持つかを問う試金石でもあった。
ここで臆し、逃げ出す様では星去り峰への旅など夢のまた夢である。
だから、アンカルヤたちは走った。
目前の脅威に向かって。
ゴブリンの集団に向かって走りながら、デルトカンは懐から小さなガラス瓶を取り出した。そして、それを傍らの岩に叩きつける。
すると砕けたガラス瓶から黄色い光が放たれ、空に向かって飛んでいった。
「今のは?」
「救援要請の信号だ。この状況で、気付いてくれる者がいるかは怪しいがな」
夜空を仰いで上昇する光を目で追うアンカルヤに、デルトカンがぶっきらぼうに言葉を返した。
「つまり、来るかもわからない援軍は、当てにするなということだな」
先頭を走るロウギスは背負っていたグレートソードを手に取ると、鞘から抜き放つ。
それは今朝、彼が練習で振るっていた剣だった。
彼は鞘を投げ捨てると剣を両手に構え、更に加速して後に続くアンカルヤたちを置き去りにして進んでいく。
その大柄な体格には見合わない軽快な動きで、森の木々や岩などの障害物をスイスイと避けて前進するロウギス。
そして彼は、ついにゴブリンの群れの外周部に接触した。
周囲のゴブリンたちは飛び込んできたロウギスを見て、慌ててそれぞれの武器を構える。
だが彼はそれに構わず、さらにゴブリンの集団の中へと突き進んでいく。
「突っ込み過ぎだ! 敵に囲まれるぞ!」
その様子を見たデルトカンが狼狽するが、それこそがロウギスの狙いであった。
彼は自分を取り囲もうと迫りくるゴブリンの群れの中心で、グレートソードを大きく振り回した。
周囲のゴブリンはロウギスの剣に触れた瞬間にズタズタに引き裂かれ、血と骨と肉片になって飛び散った。
まるでゴブリンをミキサーに入れて、蓋をせずにスイッチを入れたかのような光景だった。
「ひっ!」
そんな凄惨な様子を目の当たりにして、リフィリシアの足が止まる。
だが半歩後退ったところで、彼女は踏みとどまった。
そして後ろ足に力を込めて、再び前進を始める。
「わ、私だって、皆の仲間なんだから!」
流星丸が彼女の前に出る。
流れるようなスムーズな動きで、森の木々の合間を抜けていく。
狼の咆哮が夜の森の轟いた。
流星丸の遠吠えにゴブリンたちの体がビクリと震え、動きが止まる。
その一瞬のスキに流星丸はゴブリンの群れの中に飛び込み、踏み付け、蹴り飛ばし、噛み潰す。
巨体の白狼が、まるで草刈機のようにゴブリンの命を刈っていく。
ゴブリンの群れが、この状況に戦意を保つことは不可能だった。
『火炎球』の圧倒的な火力を見せつけられ、為す術なく敗走していたところに、この襲撃である。
彼等は仲間たちが容易く殺されていく様にパニックを起こし、総崩れになって四方八方に逃げ出した。
デルトカンが戦いの始めに言っていた「まず始めにデカいのをぶちかまして、相手の戦意を挫く」を、ロウギスとリフィリシアはここで実践したのだ。
単純に両者の戦力を比較した場合、数の上ではゴブリンたちの方が優勢にあった。その優位を活かしてアンカルヤたちを取り囲んでいれば、彼等にも勝機はあったかもしれない。
だがこうなってしまっては、もうどうしようもない。
ゴブリンたちの敗北は、ほぼ確定していた。
しかしゴブリンシャーマンの周囲を固めるゴブリンたちは、流石にこの状況でもまだ士気を保っている。
彼等はゴブリンシャーマンを中心に、守りの陣形を組んでいた。
そして襲撃者を迎え撃とうと待ち構える彼等に向かって、アンカルヤたちは突撃していった。
先行するロウギスとリフィリシアの背を見ながら、アンカルヤは覚悟を決める。
次は、自分が戦う番だ。
心臓の鼓動が煩い。
額に嫌な汗が滲み、体の震えが止まらない。
喘ぐように息は荒く、喉が乾いて気持ちが悪い。
頭がクラクラして、何度も意識を失いそうになる。
右手に持った斧が、何時にも増して重く感じられる。
――臆するな!
自分にそう言い聞かせて、アンカルヤはゴブリンシャーマンに向かっていく。
辺りのゴブリンたちは逃げることに必死で、アンカルヤたちに構う様子はなかった。
そんな中で、一匹のゴブリンがアンカルヤに槍を向けて突っ込んできた。
その表情は、脅えて引きつっていた。
恐怖に耐えられなかったゴブリンが、自棄を起こしてアンカルヤに向かってきたのだ。
木の棒を削っただけの粗末な槍は、柄が歪んでいて先端は微妙にアンカルヤから逸れている。
それでも、自分に向けられた槍の先端に向かって自ら突き進んでいくのは怖い。
逃げたい。
アンカルヤの瞳に涙が滲むが、歯を食いしばり、恐怖を堪えて足を進める。
ゴブリンはアンカルヤが自分に向かってくるのを見ると、その場に立ち止まり槍を構えて迎撃の体制を取る。
それとも、恐怖に身が竦んで動けなくなっただけか。
何れにせよ、相手が動きを止めたことによって、アンカルヤは攻撃のタイミングが取りやすくなった。
ゲームのキャラクターとしてのアンカルヤは、レベル70の審問官だ。
これは、ゴブリンの群れなど容易に蹴散らすことが出来る強さを有していることを意味する。
彼女は高レベルのプレイヤーキャラクターであり、ゴブリンは序盤のザコ敵だ。この条件で苦戦する方がおかしい。
問題は、プレイヤーである『彼』がどこまで出来るかだ。
『彼』は戦闘はおろか、ろくに喧嘩もしたことのない平凡な高校生に過ぎない。
当然だが、戦いや殺し合いなど、これが初めてだ。
だから戦うには、戦いに慣れた彼女の記憶を頼るしかない。
大丈夫、自分はゴブリンを苦もなく倒せる力を持っているのだ。
アンカルヤの、彼女の戦い方を思い出すのだ。
この体には、彼女の戦いの経験と記憶が染み付いている。
彼女の戦い方をなぞる様に真似ればいい。
その動きを再現できれば、自分は勝つことが出来る。
生き延びることが出来るのだ。
アンカルヤは戦いの恐怖に怯える自分の心を励まし、奮い立たせる。
「行くぞっ!」
ゴブリンの槍の先端が、どんどん近付いてくる。
だが、まだ遠い。
もっと近付け。もっとだ。
怖い。
足を止めたくなる。
だが、それは絶対に駄目だ。
速さこそがアンカルヤの刃だ。ここで速度を緩めるのは、刃を鈍らせるということだ。
それにここまできて方向転換をしたら、敵に無防備な背を晒すことになる。
もはや前方にしか、生存の道はないのだ。
今だ!
アンカルヤは大きく息を吸い込むと、斧を持つ手をめいっぱい伸ばして大きく振るった。
ゴブリンの持つ槍の先端を弾き飛ばす。
目の前には、体勢を崩されて無防備な姿を晒す一匹のゴブリン。
そのまま更に一歩を踏み込み、アンカルヤは槍の間合いの内側に飛び込んだ。
そこで彼女は、ゴブリンの表情を間近に見た。
醜いその顔は恐怖に歪み、ギョロリとした大きな目には涙が浮かんでいた。
敵はアンカルヤに恐れを感じている。精神的に優位をとっているのは、彼女の方だった。
いける!
再び腕を大きく伸ばし、前進の勢いもそのままに体を一回転させて、さらに刃を加速させる。
続けて地面を蹴り、斧を高々と掲げ、そして垂直に振り下ろす。
遠心力に重力。アンカルヤの筋力だけでは出すことのできない大きなエネルギーが、彼女の手にした斧には宿っていた。
自分は、今からこの恐怖に震えているゴブリンを殺す。
それを自覚したとき、斧を持つアンカルヤの手から力が抜けそうになる。
ほら、やっぱり。
『彼』は自分を信じていなかった。
覚悟を決めたつもりになっていても、いざというときになれば怯むだろうということは予想していた。
だから、そうなったときの時の対処も、予め心に決めていた。
自分に言い聞かせる。
とにかく、まずは殺せ。
悔やむことも、悩むことも、その後で存分にすればいい。
今ここで死んでしまったら、それもできないのだから。
歯を食いしばり、感覚がなくなるほどに強く斧を握りしめて、真っ直ぐに振り下ろす。
ゴブリンの右肩に、斧がめり込む。
そして右肩から右脇腹にかけて、ゴブリンの体を大きく抉り取る。
間違いなく致命傷だ。
断末魔の絶叫が耳に痛い。
肉を裂き、骨を砕く感触は、彼女が想像していたよりも軽かった。
頬を濡らす返り血の熱さに、自分がゴブリンを殺したことを実感する。
そして、敵の命を奪うことに対する罪悪感や恐怖の中に、僅かながらも興奮と高揚があることをアンカルヤは発見した。
まさか自分の内に、このような感情があったとは。
だが、これならやれる。自分は戦える!
彼女の顔には、無自覚に小さな笑みが浮かんでいた。
それは、獲物を前にした獣の笑みであった。
アンカルヤの体は、錬金術によって強化されている。
そのため、彼女は見た目からは想像もつかないほどの高い身体能力を有している。
しかし、そのベースとなっているのはあくまで非力な貴族の少女。
やはり限界はある。
男性よりも小柄な、女性の体格と体重。
それが制限となっていた。
今以上の強化も可能ではあったが、それをしてしまうと、彼女の体の質量が運動を支えられなくなる。
体格とのバランスを考慮すると、すでに限界まで彼女の身体能力は強化されていた。
これ以上のフィジカルの強化は、逆に弱体化につながる。
だから、彼女はさらなる力を得るために戦い方を工夫した。
ステップを踏んで、踊るようにリズミカルに、コートの裾を翻して。
全身を大きく伸ばしてダイナミックに。
目一杯に腕を振るい、遠心力と重力を味方につける。
勢いを殺さないよう、動きは滞ることなく流れるように。
アンカルヤの戦い方は、まるでダンスのようだと言われていた。
こうして彼女は、手にした武器に自身の限界を超える威力を宿らせるのだ。
屠ったゴブリンにはもはや目もくれず、右往左往して逃げ惑うゴブリンの合間を縫うように、アンカルヤはゴブリンシャーマンに向かって駆けてゆく。
すでに標的との距離は三十メートルを切っている。
目の前には、リフィリシアと流星丸の背が見える。
指揮棒のようにワンドを振るう彼女と、それに応える流星丸との連携は完璧だった。
大きな白い狼が周囲のゴブリンたちをバタバタとなぎ倒していく様子は、見ていて痛快だ。
そして一行の先頭を進んでいたロウギスが、ついにゴブリンシャーマンのもとに到達した。
両手剣を手にした大男の接近に気づいた護衛のゴブリンたちが、ゴブリンシャーマンを守るために武器を構えて立ちはだかる。
明らかに他のゴブリンたちとは事なる、戦士の風格を漂わせる五匹の護衛たち。
だが、その凄味に怯むようなロウギスではない。
彼も躊躇うことなくグレートソードを構えて、護衛のゴブリンたちに突撃していく。
事前の手はず通り、彼は自分がゴブリンシャーマンを倒すのではなく、その護衛を引き付ける役目を果たすつもりでいるらしい。
ならば、アンカルヤも自分に与えられた役割を果たすのみ。
狙いは唯一つ。
ゴブリンシャーマンの首だ。
獲物に向かって駆ける彼女の前に、二匹目のゴブリンが飛び出してきた。
アンカルヤは躊躇うことなく片手斧を一閃させて、そのゴブリンを苦もなく屠った。
赤い軌跡を残して宙を舞うゴブリンの首を一瞬だけ目で追い、それからただ一つの獲物に視線を戻す。
喧騒と血の匂い。
自然と唇に笑みが溢れる。
戦いと殺しに酔っているという自覚はある。
危険な兆候だ。
だが、あえてブレーキは踏まない。
殺しに不慣れな『彼』が戦うためには、今はこの感覚が都合よかった。
突然始まった戦闘に混乱して、散り散りに逃げ惑うゴブリンたち。
だが流石に集団の中心であるゴブリンシャーマンの周囲には、護衛以外にも士気を保った多数のゴブリンが待ち構えている。
ここでは敵が、アンカルヤたちに対して数で優位に立っていた。
先に突入したロウギスは護衛のゴブリンを半数まで減らしていたが、敵が彼の剣の間合いを避けて投擲武器を主とした戦法に切り替えたため、少し手間取っている様子だ。ここにきて攻めあぐねている。
敵は随分と戦い慣れしている。やはりこの護衛たちは、他のゴブリンとは明らかに違うようだ。
ロウギスに続いてゴブリンシャーマンのすぐ近くまで迫っていた流星丸が、急に方向転換した。
次の瞬間、狼の足跡が燃え上がった。
ゴブリンシャーマンの攻撃魔法だ。
大きく弧を描いて迂回する流星丸の後を、燃え上がる炎が追いかけていく。
流星丸は強力な戦力ではあるが、一つだけ大きな制約がある。
それはリフィリシアを守りながら戦わなくてはならないということだ。
ゴブリンシャーマンの攻撃の流れ弾が彼女に向かわないように気を使いつつ、しかし彼女の側を離れないように動いている。
流星丸に、これ以上ゴブリンシャーマンに近づく余裕はなかった。
ここに来て足止めを食らうのは、まずい。
混乱しているゴブリンたちに冷静さを取り戻す時間を与えてしまうと、少数であるアンカルヤたちは苦戦を免れないからだ。
敵が態勢を立て直す前に、速やかに目標を達成しなければならない。
今のところ戦いはアンカルヤたちの優位で進んでいるが、彼女たちに余裕があるわけではないのだ。
アンカルヤはゴブリンシャーマンに迫る。
ロウギスが護衛の注意を引き、ゴブリンシャーマンが流星丸に気を取られている今、自由に動けるのは彼女だけだった。
途中、立ちはだかるゴブリンの首を、灰色の髪をなびかせてクルクルと踊りながら刈り取っていく。
既に何匹のゴブリンを殺したかなど覚えていない。
「あははっ!」
気持ちいい。
興奮していた。
圧倒的に勝る力で敵の命を刈り取っていくことに、アンカルヤは快感を覚えていた。
言い訳のしようもなく、彼女は一方的な殺戮を楽しんでいた。
だが、今はこれでいい。
恐怖や罪悪感に震えて、戦いの最中に動けなくなるよりは、ずっといい。
後で正気を取り戻したときのことを考えると少し怖いが、そのときはそのときだ。今、思いみることではない。
さあ、あと一息だ。
凶悪な笑みを浮かべて、標的に迫るアンカルヤ。
その表情は、それを見たゴブリンシャーマンの心に恐怖を焼き付けるに十分なものであった。
ロウギスは護衛のゴブリンが投擲した石のナイフを剣の柄で弾き飛ばすと、強引にグレートソードの間合いまで踏み込んだ。
護衛のゴブリンは咄嗟に腰の剣を抜き、ロウギスの剣を受け止めようとした。
大したものだ。普通のゴブリンには、到底不可能な反応だ。
相手が並の戦士であれば、そのゴブリンはここから反撃に転じることもできただろう。
だが残念なことに、相手は高レベルの戦士であった。
ゴブリンは構えた剣ごと、ロウギスの振り下ろしたグレートソードによって真っ二つに両断された。
そんな残酷な光景を見ても、アンカルヤは羨ましさを感じるだけだった。
彼女が馬鹿みたいにクルクル回って飛び上がってやっと到達できる攻撃力を、彼はただ剣を振り下ろすだけで実現している。
あの力が自分にもあったなら。
体格の違いばかりはどうしようもないと理解しながらも、彼女はそう思わずにはいられなかった。
ロウギスは護衛のゴブリンにかかりきり。
一時はゴブリンシャーマンの目前まで迫っていた流星丸も、敵の反撃で今はかなり距離をあけてしまっている。
今、ゴブリンシャーマンの首に最も近いのはアンカルヤだった。
それでも、まだ両者の間には手の届かない距離が立ちはだかっている。
アンカルヤは加速する。
もっと速く、もっと速く!
彼女は、アンカルヤは、もっと速いはずだ。
加速していく意識。
そして全ての光景が減速していく。
空気が重い。まるで水の中を進んでいるようだ。
重く纏わり付いてくる空気を、地面を蹴る足に力を入れて無理やり引き千切る。
迫るアンカルヤに、ゴブリンシャーマンが節くれ立った木の杖の先端を向ける。
空気が歪んで見えた。
その瞬間、冷たい予感がアンカルヤの高揚感を一気に冷却した。
この感覚は、彼女の記憶に覚えのあるものだった。
戦いの中で度々感じたことのある、彼女には馴染み深い感覚。
死の気配だ。
魔法が来る。
アンカルヤは前進しながら咄嗟に身をかがめ、バランスを崩して転倒するギリギリ直前まで姿勢を低くする。
すぐ目の前に地面が見える。土の匂いをはっきりと感じるほどに近い。
そして前傾した彼女の背を、不吉な何かが通り過ぎていった。
心臓がバクバクと脈打ち、冷たい汗が滲む。
どうやら敵の攻撃を躱すことはできたようだ。
しかし敵の攻撃を受けずに済んだのは、彼女の反応よりも幸運によるところが大きい。
目で捉えることのできない不可視の攻撃に対して、咄嗟に姿勢を低くしたのは判断ミスだ。
目標との距離が開こうが、スピードが落ちようが、左右どちらかに大きく迂回して攻撃を避けるべきだった。
たまたま敵の攻撃が拡散するものではなく直進するものであったから避けることができたが、これが放射状に広がる攻撃であったら、身をかがめるだけでは躱すことができなかっただろう。
今回はミスを運に助けられた。
まさか攻撃を避けられるとは思っていなかったのだろう。
ゴブリンシャーマンが慌てた様子で、再び杖をアンカルヤに向けようとしていた。
だが、もう遅い。
すでにアンカルヤはゴブリンシャーマンの眼前に迫っていた。
タイミングを見計らい、腕を大きく伸ばして高速で二回転。
斧の刃に月明かりが反射し、青白い光の軌跡を描く。
一瞬の閃光がゴブリンシャーマンの首を跳ね飛ばした。
アンカルヤは首を失ったゴブリンシャーマンの体を蹴り飛ばし、そして仲間たちを振り返って叫んだ。
「シャーマンを倒した! 引き上げだ!」
ちょうど最後の護衛のゴブリンの体を真っ二つにしたロウギスが、アンカルヤに頷いて身を翻した。
リフィリシアと流星丸も、アンカルヤに背を向けて走り出していた。
ゴブリンシャーマンを倒しはしたが、まだ周辺には多数のゴブリンが存在している。
目的を達した以上、こんな危険な場所に長居は無用だった。
こちらに向かって駆け寄ってきていたデルトカンも慌てて反転し、引き返していく。
結局、彼はゴブリンシャーマンたちとの戦いに間に合わなかったが、ドワーフの短い足にそれを求めるのは酷というものだろう。
アンカルヤは引き返す途中で、妙な死体が地面に転がっていることに気がついた。
白目を剥いて倒れているゴブリンの死体だ。
外傷が見当たらないので、これはアンカルヤたちが倒したゴブリンではない。
おそらく、このゴブリンを殺したのはゴブリンシャーマンの魔法だ。
アンカルヤに向けて放たれた、不可視の攻撃。彼女が躱したそれが、たまたま後ろに居たこのゴブリンに誤爆したのだろう。
これは諍いを起こしていたゴブリンたちを殺したものと、同じ魔法だろう。
あの魔法攻撃は、死の呪いだったようだ。
もしこの攻撃をアンカルヤが受けていたら、どうなっていただろうか。
彼女は高い呪い耐性を有しているため、このゴブリンの様に即死することはなかっただろう。
しかし、何の影響も受けずに済んだとも思えない。
この攻撃を躱すことができたのは、本当に運が良かった。
引き返していくロウギスとリフィリシアが、デルトカンに追いつく。
程なくして、アンカルヤも彼に並んだ。
短い足で必死に走るデルトカンが、荒い息を吐きながらアンカルヤたちの顔を見上げた。
「お前たち、強すぎだ。本当にこの世界に来たばかりの新人か?」
強すぎる?
そうなのだろうか?
アンカルヤはデルトカンの歩幅に合わせて足を緩めながら、首をひねった。
敵の中心に向かって直進し、標的を倒して引き返す。
なるほど、こうして文章にすれば、敵を正面から圧倒した強者の戦いだ。
しかし見た目に反して、アンカルヤの精神面では余裕などないギリギリの戦いだった。戦闘の興奮に進んで酔いしれることで、自分を誤魔化していたにすぎない。
今回に限ってはそれも仕方のないことであったが、これから先もこの様な危うい戦い方を続けるわけにはいかない。
今後に多くの課題を残す、とても拙い戦いであった。
呼吸が荒い。体の内側が燻るように熱く、汗が止まらない。
短い時間とはいえ、全力以上の力を出し切って戦ったのだから当然だ。
ロウギスとリフィリシアも、アンカルヤと同様だった。
その顔には疲労が色濃くにじみ、とても勝者の表情には見えない。
初めて経験する戦闘として評価するならば、この戦いの内容は上出来と言ってもいいだろう。
だが、高レベル帯のプレイヤーキャラクターと序盤のザコ敵の戦いとして評価するなら、お世辞にも両者の実力差に見合った内容だとは思えない。
デルトカンの言う様な、見た者に強さを感じさせる戦いであったという実感はなかった。
突然アンカルヤたちの右側、つまり南の方で赤い閃光が走ったかと思うと、すぐ後に爆音が続いた。
彼女たちが驚いてそちらに視線を向けると、森の木々の向こうに炎に包まれて踊るゴブリンの姿が見えた。
立て続けに爆音が轟き、ゴブリンたちが吹き飛ばされていく。
「あれは――?」
思わず足を止めたアンカルヤのつぶやきに、デルトカンが嬉しそうに答える。
「『火炎弾』の魔法。討伐隊の援軍だ!」
『火炎弾』の魔法は、強力すぎるためにかえって使いづらい『火炎球』を大幅に弱体化したものだ。威力こそ『火炎球』に大きく劣るが、欠点も少なくとても使い勝手がよい攻撃魔法だ。
「ダメ元の救援信号だったが、ちゃんと味方に伝わっていたようだ」
デルトカンは懐から小さなガラス瓶を取り出し、再び傍らの岩に叩きつけた。
ガラス瓶が砕け、放たれた黄色い光が空に登っていく。
「これですぐに、仲間と合流できるだろう」
散り散りに逃げていくゴブリンを、南の森から現れた討伐隊が追っていく。
勝敗は決した。
ゴブリン討伐の戦いは、終わったのだ。
アンカルヤは自分の体から戦いの緊張が抜け落ちて、気だるい疲労に取って代わっていくのを感じだ。
しかし、戦いが終わっても残された疑問は多い。
なぜゴブリンシャーマンは偽ロウギスを戦力として投入しなかったのだろう?
この戦いで偽ロウギスや偽アンカルヤが敵として現れていたら、勝敗はわからなかった。
単純に火力だけを見れば、あの偽者はゴブリンなど比較にならない恐ろしい脅威だ。
もしアンカルヤがゴブリンシャーマンの立場であれば、あの偽者を戦力としない理由はない。
それもと、それができない理由があったのだろうか?
例えば、あの偽者を作り出したのはゴブリンシャーマンではなく、別の何者かであったとか――。
戦いはこれで終わったのかもしれなが、アンカルヤにはこれで全てが解決したとは到底思えなかった。
彼女はふとあることを思い出して、空を見上げた。
『月明け』の魔法に照らされた星空を見つめるアンカルヤに気付いたリフィリシアが、不思議そうにたずねた。
「アンカルヤさん、空がどうかしましたか?」
「いや、カラスがいないかなと思ってね」
「カラス……ですか?」
戦いが始まる前。
アンカルヤたちがゴブリンシャーマンに見つかる直前。
節くれ立った杖から飛び立っていった、一匹のカラス。
その行方が、今になって何故かとても気になった。
「唐突に、なぜカラスを気にする?」
ロウギスも、アンカルヤの視線の先を見上げながら不思議そうな顔をしている。
「戦いの前、ゴブリンシャーマンの杖からカラスが飛び立つのを見た」
「ああ、そういえばカラスがいたな。それの何が気になるのだ?」
「気になるのはタイミングだよ。カラスが飛び立った直後に、私たちはゴブリンシャーマンに捕捉された。ゴブリンに流星丸並みの察知能力があるならともかく、そうでないならあの状況で私達が発見された理由がわからない」
「確かに、かなり距離もあったし『月明け』の魔法に照らされていたとはいえ森の中だ。あの状況で俺たちに気付かれたのは驚きだったな。それにあのカラスが関係していると?」
アンカルヤはロウギスの問いに頷いた。
「これは私の勘に過ぎないが、あのカラスはゴブリンシャーマンの使い魔だったのでは? あのカラスの目を通して、私たちは発見されたのでないかと思うのだよ」
使い魔とは、魔法に関わる者が魔法的な手段によって使役する小動物類などの総称だ。
能力や性質、形態は様々であり、その役割は主である魔法使いや魔術師のサポートや、あるいは単なる愛玩用のペットなどである。
そして外見が普通の小動物と見分けが付かないという点において、使い魔は恐るべき間諜でもあった。
「なるほど。だが、あれが使い魔であれペットであれ、主であるゴブリンシャーマンは始末したのだ。もはや気にすることもあるまい」
「まあ、そうなのだが……」
ロウギスの言う通りだ。あのカラスが何であれ、その主であるゴブリンシャーマンはもういないのだ。今更その存在を気にする必要もない。
それでも、漠然とした不安がアンカルヤの心にまとわりついて離れなかった。




