霧の中へ・9
河原を南に向かい、一行の先頭を進んでいた流星丸が、右の森の方に視線を向けた。
「アンカルヤさん、この近くに血の匂いです。あと、死体の匂い」
リフィリシアの声が緊張に震えている。顔色も悪い。
「死体は人間? それともゴブリン?」
「ゴブリンの匂いだけです」
「この先?」
「いえ。河原から少し離れて、森に入ってすぐの所です」
今は一刻も早くロウギスと合流したかった。
寄り道をしている余裕はない。
だがこの近辺で人間とゴブリンの戦闘が行われているのなら、その様子も調べておきたかった。
「ここからすぐの場所で時間がかからないなら、少し確認していこう」
流星丸の先導で、一行は河原を離れて森の中に足を踏み入れた。
そして一分ほど進んだところで、戦いの痕跡を見付ける。
森の中に、数匹のゴブリンの死体が転がっていた。
地面には血溜まりが広がり、人間の鼻でもわかるくらい濃厚な血の匂いが漂っている。
「ひっ!」
その光景に、リフィリシアが小さく悲鳴を上げる。
アンカルヤも喉の奥に酸っぱいものがこみ上げてきたが、唾を飲み込んで堪えた。
死体は五つ。まだ新しい。全てゴブリンだ。
アンカルヤはこの島でゴブリンの巣を発見していたが、『彼』がゴブリンそのものを目にするのは、これが初めてだ。
人間の子供ほどの体格の、しかし明らかに人間とは異なる姿の生き物。
なるほど、ここは異世界なのだと、あらためて実感させられた。
「頭や肩を、真上から砕かれているね。この傷口は、大型の両手斧かな? そして矢はゴブリンの側頭部を貫いている」
五匹のうち三匹は近接武器で倒され、残りの二匹は矢で頭を撃ち抜かれている。
「両手斧を装備した前衛がゴブリンの注意を引き、そのスキを射手が横から突くというシンプルな戦法だ。だが、視界の悪いこの霧の中では、よほどの腕と自信と信頼関係がなければできない戦い方でもある」
痕跡から、ここで行われた戦闘の大まかな流れが把握できた。
これがアンカルヤたちと同じ王冠物語のプレイヤーによるものだとしたら、なかなかの手際だ。
王冠物語は一人で遊ぶシングルプレイのゲームだ。だから、この様な仲間との連携という戦術は存在しない。
だが、このゴブリンたちを倒したプレイヤーは、明らかに連携をとって戦闘を行っている。
つまり、ゲームとは異なるこの世界の戦闘ルールに適応しているのだ。
「これがプレイヤーによるものなら、我々の先輩は随分と先に進んでいるようだね」
「先輩、ですか?」
「この痕跡を見る限り、ゴブリンを倒したのは少なくとも二人組の何者かだ。ロウギスの仕業ではないだろう」
「はい。流星丸も、ここにロウギスさんの匂いはないと」
「ならば、ここで見るべきものはもうないな。ロウギスの追跡を再開しよう」
「はい」
アンカルヤたちは森を出て河原に戻ると、再び南に向かって歩を進めた。
霧の中、川の流れに沿って河原を南下する二人と一匹。
先頭を歩いていた流星丸が、不意にその足を止めた。
「どうかした?」
「えっと、この場所で、向こうの河原からこちらの河原に、沢山の人が川を渡っています」
「川の向こうから、人が?」
「あっ、人だけではありません。他にも森の妖精に大地の妖精、古い妖精に牙の生えた妖精くずれの匂いも混じっていると、流星丸が言っています」
やはり、プレイヤーだ!
ウッドエルフにドワーフ、そしてハイエルフとオーク。どれも王冠物語でプレイヤーが選択できる種族だ。
そしてこれらの種族が共に集団で行動するということは、この世界の常識ではありえないことだった。
だから、ここで川を渡った集団は、王冠物語のプレイヤーであるとしか考えられなかった。
「その他にも、この辺りで何かが燃やされていたみたいです」
「言われてみれば、確かに灰の匂いみたいなものが漂っているね。ここで火を用いた戦闘でもあったのかな?」
「いえ。生き物の焼ける匂いはないので、多分ですが戦いではありません」
ならばここで何を燃やしていたのだろうか?
その答えはすぐに判明する。
地面に残る、複数の焚き火の痕跡を発見したのだ。
まだわずかに燻っている燃え残りを見ると、燃やされていたのはその辺りに落ちている枯れ木や流木のようだ。
おそらくここで川を渡ってきた一団が、濡れて冷えた体をこの焚火で温めたのだろう。
「ここで川を渡った沢山というのは、どれくらいの数かわかるかい?」
「数十人――多分五十人くらいか、もしかしたら百人を超えているかも。川を渡ってから一部が森に、残りは河原を南に向かっています」
「想像していたよりも、随分と多いな。そして、南か。ロウギスは彼等と合流したのだろうか?」
「匂いは重なっているみたいですが、一緒に行動しているのかまではわかりません」
「そうか……。まあ、わからないよね」
わけがわからない、というのがアンカルヤの正直な所だった。
この霧の中で、何かが起こっているのは間違いない。
それはアンカルヤの見えないところで今尚進行中だ。
しかも謎は明かされるどころか、更に増える始末。
この多種族集団は何者なのだろうか?
何を目的として、何処から来て、何処に向かっているのだろうか?
「ねえ、リフィリシア」
「はい。どうかしましたか?」
「いい加減、うんざりしないかい? わけのわからない状況に振り回されて、何もわからないまま場当たり的に状況に対応する。このままでは、きっと何もわからないままで全てが終わってしまうよ。それはとても気分が悪いことだ」
アンカルヤは腕を組んで不快そうに唇を歪め、奥歯をぎりぎりと噛みしめる。
全身から不愉快オーラが滲み出ていた。
「何が起こっているのかとか、どう対応すればいいのかとか。そういうのは、もういいよ。もうこれ、考えるだけ無駄だわ」
「いえ、無駄ということはないと思いますが……」
「ここまで私たちのことを散々振り回してくれたのだから、そろそろ立場を逆転させてもいい頃合いだとは思わないかい? こちらから攻勢に出ようではないか」
アンカルヤが、ニヤリと笑う。
その表情に、リフィリシアは嫌な予感しかしなかった。
「今この森では、人間を中心とした多種族集団とゴブリンが戦っているのだろう? 私たちも、この物騒なイベントに参加してみないかい?」
「へっ?」
「受け身で事態に右往左往するのは、もう十分だ。こうなったら、こちら側から積極的に当事者になってやろうではないか」
「でも、それはゴブリンと戦うということですよね? 危険です! ヤケにならないでください!」
リフィリシアは必死な様子でアンカルヤに食い下がった。
「いや、ヤケにはなっていないよ。危険というなら、既に私たちは危険の中心にいるのだ。後は危険がこちらにやって来るのを待つのか、こちらから危険に立ち向かっていくのか。選択肢は、この二択だ」
「逃げればいいじゃないですか!」
「それはおすすめできない。私は、受け身で慎重に行動して、逃げ出して、そして死にかけた。逃避は安全を保証してくれないよ?」
リフィリシアは唇を噛んで俯いた。
彼女にも、アンカルヤの言いたいことは解っているのだ。
「……私は、アンカルヤさんと再会したとき、地面に血まみれで倒れているあなたを見て、心臓が止まるような思いをしました。あなたが死んでしまうのではないかと、そんな恐怖で私の心は埋め尽くされてしまいました。あんな思いは、二度としたくはありません」
それを言われると、アンカルヤには返す言葉がなかった。
「それについては、心配をさせてしまって申し訳ないと思っている。完全に私の落ち度だ。本当にすまなかった」
「本当です。だから、約束してください」
「約束?」
アンカルヤをまっすぐに見つめるリフィリシアの瞳には、普段のおとなしい彼女からは想像もつかない力が宿っていた。
「あなたが戦うというのなら、必ず勝ってください!」
リフィリシアの言葉に、アンカルヤは息を呑んだ。
「勝利以外は認めません! 血まみれになって倒れるなんて、絶対にダメです!」
言われるまでもなかった。
やるからには、アンカルヤも勝つ気でいる。負ける気などサラサラない。
血にまみれて地面に倒れるなど、アンカルヤだって二度と御免である。
だから、リフィリシアの言葉に対する答えは一つしかない。
「もちろんだ。一緒に、このふざけた状況を打倒して、共に勝利しよう!」
「一緒に――?」
「ああ、共に戦おう。私たちは、仲間なのだろう?」
リフィリシアは心の底から嬉しそうに笑って頷いた。
「はいっ!」




