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幻想世界の紀行録  作者: TaYa
迷宮島の放浪者たち
28/71

霧の中へ・5

 偽ロウギスがデタラメに剣を振り回し、周囲の木々を破壊しながら追ってくる。

 アンカルヤは、まるで戦車かブルドーザーにでも追われている気分だった。

 右手首の痛みは、ますます酷くなる。

 さすがに、これ以上は耐えられそうにない。

 腰のポーチから治癒の魔法薬を取り出そうとしたが、指先が震えて薬瓶を落としてしまった。

 手首の痛みに耐えながら全力で走りつつ、魔法薬を服用するのはやはり無理があった。

 状況は最悪だが、それでもなんとか走り続けるしかない。

 痛みに霞む視界で、足元を流れる川を確認する。

 この川の流れに沿って戻れば、リフィリシアとはぐれた場所まで引き返せるはずだ。

 だが、この川。おかしくないだろうか?

 あの川は浅かったが、川幅は広かった。そこそこ大きな川だ。

 だが、足元に見える川は、それに比べて随分と小さいように思える。

 もちろん、自然の川の幅が常に一定ということはありえない。広いところもあれば、狭いところもあるだろう。

 しかし、この小ささはそういうレベルではない。

 この小川は、本当にあの川と同じ川なのだろうか?

 怪訝に思いながら川を見ていると、流れる水が流れる霧に変わり、周囲の霧の中に溶けて消えた。

 ロウギスが霧で出来た偽者であったように、この川も霧で出来た偽物だったのだ。


「ああ、うん! そんなことだろうとは思っていたさ!」


 これで、霧の中を進む道標を失ってしまった。

 こうなってしまっては、もう闇雲に逃げることしか出来ない。

 背後からは、一撃必殺の剣を振り回しながら偽ロウギスが追ってくる。

 絶望的な状況だった。


 そして、ついにアンカルヤの運が尽きる時が来てしまう。

 手首の痛みに気を取られ、一瞬だが足下への注意が疎かになる。

 地面の窪みに気付くのが遅れてしまった。

 しまった!

 アンカルヤがそう思ったときには、もう手遅れだった。

 体がふらりと傾く。

 この状態からバランスを取り戻すことは不可能だった。

 後は地面に倒れるだけ。

 そうなれば、確実に偽ロウギスに追い付かれてしまうだろう。


 しかし、彼女の体は地面に届く前に勢いよく持ち上げられる。

 偽ロウギスの振るった剣、その先端がアンカルヤの背負っているバックパックに引っかかったのだ。

 そして彼の腕力は、アンカルヤの体を軽々と宙に投げ飛ばした。

 空中でくるくると回転する彼女は、一瞬で平衡感覚を失う。

 そして暫くの浮遊感の後、強烈な衝撃が何度も彼女を襲う。その度に気を失い、そして意識を取り戻す。


 気が付くと、アンカルヤの目の前には草と枯れ葉があった。

 土と血の匂い。

 口の中に広がる血の味。

 じっとりと湿った、固くて冷たい地面。

 体が動かない。感覚もない。

 そして手首の痛みも感じない。

 感じなければならないはずの痛みがないというのは、かなり不味い状態だ。


 剣はバックバックに引っかかっただけで、アンカルヤの体には届いていなかった。

 そのおかげで、彼女はまだかろうじて生きている。

 だが、もう動くことが出来ないこの状況は、死んだも同然であった。

 ゆっくりとこちらに向かってくる足音。

 偽ロウギスだ。

 目だけを動かして偽ロウギスを見ると、彼の顔は相変わらずの無表情だった。薄気味悪い目で、アンカルヤに近付いてくる。


 アンカルヤの体は、全く動かなかった。

 致命的だ。

 絶望的だ。

 もう助からない。

 お終いだ。

 死ぬのだろうか?

 いや、死ぬのは不味い!


 死んだら、生き返ってしまう!


 アンカルヤは変則的にではあるが、確かに錬金術の頂点に至っていた。

 そして、そこから生み出される秘薬も口にしている。

 だが、不老不死というこの世に対する反則行為には、相応のペナルティがあるのだ。


 恐らく、アンカルヤはここで死んでも蘇生するはずだ。

 その代償が「死ぬよりはマシ」程度で済めばいいが、「死んだ方がマシ」となれば目も当てられない。アンカルヤは蘇生の魔法薬を服薬していたが、しかし実際に蘇生を行った経験はない。そのため、蘇生に伴う代償がどのようなものであるかも、まだ不明であった。

 それに、もう一つの懸念がある。

 彼女がこの秘薬を口にしたのは、もう何年も昔のことだ。

 当然だが、そのときには『彼』は彼女の中に存在していなかった。

 その『彼』が秘薬の効果の対象に含まれるのか、という疑問があった。

 死後に復活した彼女の中に、『彼』が存在しない可能性もあるのだ。


 剣を片手に近付いてくる偽ロウギス。

 次第にぼやけていく視界と、薄れていく意識。

 いやだ、いやだ。死にたくない。

 アンカルヤの瞳に、涙が溢れる。

 だが、身体は動かない。声も出ない。

 もう、どうすることもできない。






 耳が壊れそうな音量で、獣の咆哮が森の中に轟く。

 地面が揺れて、突風が唸りを上げる。

 大きな白い影が、アンカルヤと偽ロウギスの間に立ち塞がった。

 それはこの世のものとは思えない、美しい獣であった。

 純白の狼。

 一点の曇りもない白の毛並みは、薄っすらと白く光っている。

 透き通るような青い瞳には、知性と理性がはっきりと感じ取れる。

 そして狼としてはありえない馬ほどもある大きな体は、輪郭が淡く透き通って見えた。


「アっ、アンカルヤさん!」


 リフィリシアの声が聞こえる。

 幻聴だろうか?

 それとも、偽ロウギスに続いて偽リフィリシアまで現れた?

 いい加減にしてほしいものだ。


「ひ、ひどい怪我! 生きてますよね? ねっ? 死んじゃ嫌ですよ!」


 リフィリシアが地面に横たわるアンカルヤに駆け寄る。

 眼の前に、小さな靴と細い足が見える。

 アンカルヤが見上げると、そこには今にも泣き出しそうなリフィリシアの顔があった。

 表情がある、感情もある。体の動きもなめらかだ。どこにも不自然さは見られない。

 あれ?

 ひょっとして、本当にリフィリシアなのか?

 いけない、逃げるんだ!

 あのロウギスは偽者で、とても危険だ!

 そう叫ぼうとしたが、アンカルヤの喉の奥からは空気が抜けるだけで、声は出ない。


「ロ、ロウギスさん? これは、どういうことで……えっ? 人間の匂いがしない?」


 いいから、はやく逃げるんだ。


「そうなんだ……。よくわからないけど、あなたはロウギスさんの偽者で、アンカルヤさんを騙してこんなことをしたんだ?」


 それは、アンカルヤも聞いたことがない、本気で怒ったリフィリシアの声だった。


「いいよ。行け、流星丸!」


 再び獣の咆哮が轟く。

 そして地面が震える。

 流星丸とよばれた純白の狼は、霧の中に一直線の軌跡を残して偽ロウギスに迫る。

 その姿は、まさしく流星の名にふさわしい。

 強烈な攻撃力を持つ偽ロウギスだが、その動きはお粗末もいいところ。

 狼は大振りな一撃を苦もなくかわすと、その懐に飛び込み、偽ロウギスの首に食らいついた。

 そして今度は、偽ロウギスの体が宙を舞った。首から勢いよく霧を吹き出しながら。

 彼の輪郭は歪み、崩れ、地面に届く前に白い霧となって消えた。


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