霧の中へ・4
周囲は変わらず、濃霧に包まれている。霧が晴れる気配は微塵も感じられない。
アンカルヤは、目の前を行く男に話しかけた。
「ロウギス。例の南の煙だが、結局アレは何だったのだ?」
「そこに到達する前に、引き返してきた。だからわからない」
「なるほど」
例の南の煙、という問いにも普通に回答を返してくる。
アンカルヤたちが合流に失敗したときの対応についても知っていたくらいなのだから、三人が南の煙に向かって移動していたことも、知っていて当然か。
しかし、このロウギスが偽者だとしたら、何時どこでそういった情報を得たのだろう?
もしかしたら、彼自体は本人で、魔法か何かで操られているのかもしれない。
ロウギスの言動は明らかに不自然ではあったが、偽者だと断定できるほどの根拠もなかった。
それだけにアンカルヤも、どう対応するべきか判断に迷う。
彼女は前を進む霧の中の背中をじっと観察する。
このロウギスは多分、偽者だ。
あるいは彼自体は本人だが、他の何者かに操られているのか。
彼が偽者なら、本人は今どこに? 本人は無事なのだろうか?
ロウギスの歩幅は、アンカルヤがギリギリ無理なく付いて行けるスピードを維持している。
彼女を置き去りにする気配がないということは、その目的は誘導だろうか?
おそらくこの不審なロウギスの目的は、アンカルヤをどこかに連れていくことだろう。
だが、どこに?
迷宮に向かったリフィリシアの後を追う、などとロウギスは言っていたが、本当に迷宮に行くつもりなのだろうか。
しかし目的が何であれ、アンカルヤが何者かの思惑にまんまと乗せられてしまっていることは間違いない。
冷静さを欠いていたとはいえ、アンカルヤは自分の迂闊さを悔いた。
リフィリシアが無事だといいのだが。
彼女の安否が、最大の気掛かりだ。
焦燥がアンカルヤの全身を締め付けた。
困ったことに、この状況を打開する糸口が全く見えない。
ロウギスを利用してアンカルヤを何処かに誘導するにしても、どういう理由でそんな事をする必要があるのか。どこに連れて行こうとしているのか。
何が目的なのか、全く不明なのが問題だ。
相手の意図がわからないと、アンカルヤも対処のしようがない。
「なあ、ロウギス」
「どうした?」
「私には、リフィリシアが誰かに狙われるような心当たりはない。だが、それは私が知らないだけで、理由はあるのかもしれない」
「……」
「やはり引き返そう、ロウギス。川に沿って戻れば、迷うこともないはずだ」
「……」
しかしロウギスは振り返りもせず、無反応で歩を進めている。
本人か偽者かは別として、彼がおかしいのは明らかだ。
立ち止まり、振り返るアンカルヤ。
リフィリシアは心配だ。今すぐにでも駆け戻りたい。
しかし、この不審なロウギスも放置はできない。
単なる偽者ならば無視しても構わないが、何者かに操られている本人であれば、この場に置いていくことはできない。
「くっ、どうすればいい?」
アンカルヤは迷いながら、フラリと一歩、南に向かって踏み出そうとした。
しかし、その一歩は途中で止まる。
いや、止められたのだ。
彼女の右手が、大きな手にガッチリと掴まれている。
「ロ、ロウギス?」
アンカルヤは、いつの間にか傍らに立っていた大男の顔を見上げ、ギョッとした。
まるで死んだ魚のような表情のロウギスが、何の感情も浮かんでいない淀んだ瞳で彼女を見下ろしていた。
ミシミシとアンカルヤの手首が軋む。
不味い、握り潰される。
アンカルヤは左手でポケットから折りたたみナイフを取り出すと、一瞬の躊躇の後、その細い刃をロウギスの手首に突き立てた。
刃が分厚い肉の繊維を断ち、硬い骨に当たってその表面を削る生々しい感触に、ナイフを持つ手から力が抜けそうになる。
だが、このナイフから手を離すことはできない。そんな事をしたら、彼女の手首はこの男に握り潰されてしまうのだから。
左手に感じる、人間を傷つける感触。その生理的な嫌悪感に耐えながら、ナイフに更に力を込める。
次の瞬間、手からナイフの感触が消えた。
ナイフがアンカルヤの力に耐えきれず、折れてしまったのだ。
だが、同時に右の手首に感じていた圧力も消える。
ロウギスがアンカルヤから手を離したのだ。
そして折れたナイフが刺さったままの彼の手首からは、しかし血は一滴も流れていない。
かわりに白い煙が吹き出している。
いや、それは煙ではない。
霧であった。
「なるほど、霧で形作った偽者か。本人を傷付けたのではなくて、よかった」
そして、この男がロウギスの偽者であることも確定した。
ならば、こんなものに関わっている暇はない。
急いでリフィリシアの元へ戻り、そしてロウギスも探さなくては。
しかし、アンカルヤの額に脂汗が浮かぶ。
右手が動かせない。
指を少し動かそうとするだけで、耐え難い激痛が手首を襲う。
恐らく手首の骨が砕かれている。
利き腕を潰されてしまった。
ロウギスは霧で出来た偽者だったが、手首の痛みは間違いなく本物だった。
同じく手首にダメージを負っているはずの偽ロウギスが、傷付いた腕で腰のブロードソードを抜く。
どうやら向こうは痛みを感じていない様子だった。
「いや、それは不公平だろう!」
思わず愚痴るアンカルヤ。
彼女に剣を向けて、攻撃の意思を明らかにする偽ロウギス。
対して利き腕を潰されたアンカルヤに出来ることは唯一つ。
逃げるしかない。
偽ロウギスに背を向けて走り出すアンカルヤ。
しかし――。
「くっ!」
彼女が一歩を踏み出す度に、その振動が鋭い激痛となって彼女の右手首を襲う。
その痛みに奥歯を噛み締めて堪えながら走る。
だが到底、本来の全速力には及ばない。精々速歩き程度の速度が限界だ。
腰のベルトポーチに入っている治癒の魔法薬を使用したいところだが、今は利き手が使えない。右腕の痛みに耐えながら左手で薬を口にするとなると、さらなるスピードダウンは避けられない。
そうなれば、確実に偽ロウギスに追い付かれるだろう。
アンカルヤは走りながら振り返って、偽ロウギスの様子をうかがう。
「えっ?」
何だ、あれは?
彼女を追ってくる偽ロウギス。
しかし、その動きはぎこちなく、まるで下手くそな操り人形の様だ。
これならば、普段のアンカルヤであれば苦もなく振り切ることが出来ただろう。
だが今の彼女は一歩毎に手首に激痛が走り、速度が出せない。
しかも霧に視界を妨げられている状態で、転倒しないように地面の様子を確認しながら走らなくてはならない。
その結果、両者の距離は広がりも縮みもしなかった。
何故、急に動きが悪くなった?
アンカルヤを先導していたときは、もっとスムーズに動いていたはずだ。あのときの彼であれば、容易に彼女に追い付いていただろう。
いや、そんなことの理由はどうでもいい。
重要なのは、今の偽ロウギスが相手であれば、全速力を出せないアンカルヤでも逃げ切れる可能性があるということだ。
偽ロウギスが剣を振り回す。
文字通り、ただ振り回しているだけだ。
今朝見た練習中のロウギスには到底及びもしない、無様な動きだ。
子供の剣戟ごっこでも、もう少しマシだろう。
こんな森の中でデタラメに剣を振り回せば、その刃が周囲に木に当たるのは当然だ。
そこで引っかかって止まるのであれば可愛げのあるものを、剣が当たった木の幹は中に火薬が仕込まれていたかのように砕けて折れた。
「アホかっ!」
それはアンカルヤが思わずそう叫んでしまうほど、理不尽な光景だった。
ちょっとした小枝程度ならともかく、直径二十センチはある木の幹だ。それがあっさりと砕け、爆音とともに無数の破片を撒き散らして弾け飛ぶのだ。
驚いて反射的に抜いた剣でゴブリンを倒した、というロウギスの話を思い出す。
確かに、この威力ならばゴブリン程度は一撃だろう。
錬金術によって強化されているアンカルヤの身体は、見かけからは想像できないほど頑丈だ。
それでも、あの剣の威力の前には無意味だ。
一撃でも貰えば、それで終わりである。
治癒の魔法薬を使用しようとすれば、確実に追いつかれるだろう。
手首が回復しても、かわりに身体が両断されるのでは割に合わない。
つまりアンカルヤは、この激痛に耐えながら逃げなければならないということだった。




