保温
アンカルヤは自分のテントの前に立ち、入り口を少しだけ開いて内部に声をかけた。
「アンカルヤだ。もう中に入っても構わないかな?」
「あっ、おかえりなさい。どうぞ入ってください」
テント内からの返事にホッと息を吐くと、アンカルヤはテントの入口を開いた。
女の子に可愛い声で「おかえりなさい」と言われて、少しときめいてしまったのは内緒だ。
入浴を終えたリフィリシアは簡素な部屋着姿で、頭にはタオルを巻いていた。彼女は洗濯物を物干しロープに吊るしている最中であった。
周囲には石鹸の香りが漂っている。
「あの、シャワーを使うとテントの中にすごく湿気がこもってしまったんですけど、大丈夫でしょうか」
不安そうな様子で、リフィリシアがアンカルヤに尋ねた。
「気にすることはない。ストーブを焚いていれば、すぐに空気は乾燥するさ。それよりもバスルームは満足できたかな?」
「はいっ!」
リフィリシアは嬉しそうに笑った。
「ロウギスさんのテントにも、シャワーだけならあったんです。けど、水だけで仕切りもなかったので、流石にお借りできませんでした」
あのシャワー、水だったのか。
アンカルヤの背筋がゾクリとした。
レベル83ともなれば、無限給湯器を含む高性能な入浴設備も苦もなく入手できる財力はあるはずだ。にもかかわらず、あえてそんなストイックなチョイスをしているところに、ロウギスのキャラクターに対するこだわりが見て取れた。
「でも不思議ですよね。テントの中の井戸の水って、どこから汲み上げているのでしょうか? 排水も、どこに流れていってるのでしょうね? このテントだって、外から見たら煙突なんてないのに、薪ストーブの煙突はどこに繋がっているのでしょう?」
アンカルヤはもっともな疑問だと頷きながら、「しかし」と反論を口にした。
「魔術師というのは、そんな事を気にしないものだろう? そういう常識的な意識が妨げになって、魔法が使えないのでは?」
「あー、そうかも知れませんね」
リフィリシアは成程と頷いた。
アンカルヤは雑談に一区切りがついたところで、本題を切り出した。
「この後ロウギスと、キミを交えて今後についての相談をしたい。それと重要なことだと思うから、念の為にもう一度確認しておくよ? 昨夜の話だが、キミの素性と経緯をロウギスにも話して構わないだろうか? 抵抗があるなら、そこは避けて結論だけを伝えるが」
「いえ、言い出す切っ掛けがなかっただけで、秘密にしたいわけではないので」
「うむ、わかった。キミの準備が出来次第、向こうのテントに向かう約束なのだが、構わないかな?」
「あ、はい! すぐに準備します!」
リフィリシアが慌ただしくロフトの階段はしごを登っていく。
「いや、慌てなくてもよいから」
ロフトの上からドタバタと騒がしい音が聞こえ、そのあと魔術師のローブと帽子をかぶったリフィリシアが姿を表した。
「お待たせしました。用意ができました」
「早かったね。では行こうか。外はまだ寒いので、湯冷めしないように」
そう言いながら、アンカルヤは少し傾いていたリフィリシアのとんがり帽子を整えた。彼女の顔が、みるみる赤くなった。
「だ、大丈夫です。このローブ、『保温』のエンチャントが付いているので」
「ああ、それはいい。定番の付呪だね」
リフィリシアが『保温』の付呪が施された装備品を所持していたことは、僥倖といえる。
現状のように体温の低下を懸念しなくてはならない環境下では、『保温』の付呪は極めて効果的だからだ。
ゲームの王冠物語には、体温の概念がある。
この体温値が適正値を下回ると、キャラクターに様々な状態異常が発生する。
そのため、王冠物語は雨や雪がプレイヤーを殺しにかかるゲームともいわれている。
体温低下の対処法は幾つかあるが、その中でも『保温』の付呪は初期費用こそ重いものの、一度装備品に付呪を施せば効果が永続するという利点がある。
『保温』の付呪はゲームの序盤から利用ができ、段階的に強化していくことで後半まで活用できる優秀な付呪だ。
もちろん、『保温』の付呪も万能ではない。
付呪の効果を最大まで強化しても、極端な低温や高温には対抗できない。
つまり魔法で氷漬けにされたり、熱湯の中に飛び込んだりしたら、『保温』の付呪の効果は及ばないのだ。
だが、そういった点を考慮に入れても、『保温』がとても有用な付呪であるという評価に変わりはない。
王冠物語のプレイヤーで、この付呪を利用したことのない者はおそらくいないだろう。
もちろん、アンカルヤもこの付呪は利用している。
しかし、ここにもゲームのアンカルヤと現実の彼女の違いがあった。
ゲーム内の彼女は、コートにのみ『保温』の付呪を施していた。
しかし現実の彼女は、コートではなくグローブとブーツに『保温』の付呪を施している。
理由は単純で、コートに『保温』の付呪を施すと快適すぎるのだ。緊張を保たねばならないような状況でも、眠気を催す程に。
『保温』の付呪が施された衣服は、服の形をしたコタツに近いといえば、誰もがその恐ろしさを察することができるだろう。
そして胴の代わりに手足を『保温』で温めることには、ゲームにはないメリットがあった。
頭や胴は冷気にさらされるので、体が過度に暖められることがない。
手足から暖められた血液が戻ってくるので、体感的な寒さが大幅に軽減される。
指先が寒さでかじかみ、感覚がなくなったり、動きが悪くなったり、力が入らなくなるということがない。
流石に気温が氷点下まで下がると『保温』の効果も不足となるので、万全の寒さ対策とはいえない。
それでも、その効果は絶大だ。
現在の状況では、『保温』の付呪はテントの付呪と並んでとても有効な付呪であった。
「それでは、ロウギスのテントに行こうか」
「はい、アンカルヤさん。ロウギスさんも、星去り峰に行くことに賛成してくれるといいですね」
「そうだね」
アンカルヤは笑顔で同意しながら、心の中で「少し難しいかもしれないけれど」と付け加えた。
ロウギスは基本的に大雑把な性格ではあるものの、大人としての慎重さと用心深さも兼ね備えている。
今のところ、星去り峰に向かうというプランは、足元のふわついた夢物語に近いものだ。
彼が何処まで理解を示してくれるかは、全くの未知数だった。




