第3話 蜘蛛の糸
佐藤が送信したビジネスメールに対する反応は、予想以上に早かった。
送信からわずか二時間後。オフィスのモニター前で作業をしていた襟華が、ヘッドホンを片耳だけずらして声を上げた。
「来たよ。タケルのビジネス用アドレスから返信。一応丁寧な言葉遣いを取り繕ってるけど、誤字が多いし、返信のスピードからして相当焦ってるのが丸わかりだね」
「なんと書いてありますか」
佐藤はデスクから立ち上がり、襟華のモニターへ歩み寄った。彼女のデスクには、すでに新しいエナジードリンクの缶が開けられている。
『メール見ました。アカウントのリスクってどういうことですか。うちのチャンネル、今めちゃくちゃ伸びてるんで変なことされると困るんですけど。話くらいなら聞きます』
「強がっていますが、不安で仕方がないのでしょう。すぐに返信を。今日の夕方、このオフィスで面談の場を設けます」
その日の午後六時。虎ノ門の高層ビルにある株式会社アンチフレアの応接室。
磨き上げられた大理石のテーブルと、沈み込むような本革のソファ。壁一面の窓からは、夕暮れから夜へと移り変わる東京の街並みが一望できる。
案内されて入ってきたのは、動画で見るよりも少し小柄な男だった。ヤバイタケルこと、木下健太。派手な金髪に、一目でそれとわかる高級ブランドのロゴが大きくプリントされたスウェットを着ているが、落ち着きなく視線を泳がせる様は、この重厚な空間に完全に気圧されていた。
彼の後ろには、動画で声だけが入っていた撮影担当の男が、おずおずと続いている。
「どうも、ヤバイタケルです」
木下はソファにどっかりと腰を下ろし、わざとらしく足を組んだ。虚勢を張るように、顎を少し上げて佐藤を見る。
「株式会社アンチフレア、代表の佐藤です。本日はお越しいただきありがとうございます。こちらは弊社役員の渡辺です」
佐藤は手慣れた動作で名刺を差し出した。隣に立つ千尋も、隙のない笑みを浮かべて会釈する。
木下は名刺をチラリと見ただけでスウェットのポケットに突っ込み、すぐに本題を切り出してきた。
「で、なんの用ですか。アカウントのリスクとか、収益の最大化とか。俺、今めちゃくちゃバズってて、企業案件とかもバンバン来てるんで。そっちのコンサルだかなんだか知らないけど、変な話ならすぐ帰りますよ」
言葉とは裏腹に、木下の声は少し上ずっている。動画のコメント欄の熱狂とは違い、目の前に座る完璧なスーツ姿の男と、冷徹な美貌の女が放つ底知れぬ威圧感に、無意識のうちに防衛本能を働かせているのだ。
「ええ。現在のあなたのチャンネルの勢いは、我々も高く評価しています。直近の洋食店での動画は、過去最高の再生数を叩き出しましたね」
佐藤は木下の横柄な態度を完全に受け流し、手元のタブレットを操作してテーブルの中央に置いた。
「しかし、我々のような危機管理の専門家から見れば、現在のあなたは『目隠しをしたまま綱渡りをしている』状態に等しい。……こちらをご覧ください」
タブレットの画面に、いくつかのグラフとデータが表示される。
「これは……?」
「我々が独自に解析した、あなたのチャンネルの裏のデータです。確かに再生数は急増しています。しかし、同時に『不適切コンテンツ』としての通報件数も、過去三日間で異常な数に達している。プラットフォームのアルゴリズムは、すでにあなたのアカウントを『レッドゾーン』に分類しています。あと数回、同規模の炎上が起きれば、事前の警告なしにアカウントは永久凍結、つまりBANされるでしょう」
木下の顔から、ヘラヘラとした余裕が消えた。
「は? 永久凍結って……いや、俺、規約違反になるようなエロとかグロはやってないし! あの動画だって、ただの辛口の食レポじゃないですか。店のおっさんも納得してたし!」
「プラットフォーム側は、動画の真偽やあなたの意図など考慮しません。彼らが恐れるのは、スポンサー企業の撤退です。『この動画に自社の広告が表示されるのはブランドイメージに関わる』と判断されれば、即座に広告収益は剥奪されます」
佐藤の冷ややかで事実だけを突きつける言葉に、木下は組んでいた足を解き、身を乗り出した。
「収益剥奪って……それじゃ、動画上げる意味ないだろ。どうすればいいんですか。動画、消した方がいいんですか? でも今更消しても、アンチどもが『逃げた』って騒ぎ立てるだけだし……」
木下の額に、じわりと嫌な汗が浮かぶ。
彼は気づいていない。今、自分が完全に佐藤のペースに巻き込まれ、救いを求める立場に陥っていることに。
佐藤はゆっくりと首を横に振った。
「動画を消す必要はありません。謝罪も不要です。一度炎上した火を中途半端に消そうとすれば、かえって燃え広がるだけです。我々が提案するのは、鎮火ではありません」
佐藤は木下の目を真っ直ぐに見据えた。
「火をコントロールし、さらに巨大なエンターテイメントへと昇華させるのです」
「エンターテイメント……?」
「今のあなたは、単なる『迷惑な一般人』として叩かれています。だから通報される。しかし、これが完全に計算された、視聴者を楽しませるための『過激なショー』であれば話は別です。巨大すぎる数字と影響力は、時にプラットフォームの規制すらも超える免罪符となる」
千尋が手元の書類を揃え、淡々と告げた。
「要するに、あなたの動画を『素人の悪ふざけ』から『プロのエンタメ』に格上げするということです。弊社が全面的にバックアップし、撮影環境、法的リスクの回避、そして何より『安全にバズるための企画』を提供します。あなたはただ、我々の用意したステージで、思う存分『ヤバイタケル』を演じればいい」
木下の隣に座っていた撮影担当の男が、落ち着かない様子で視線を泳がせた。額には脂汗がにじんでいる。
「それって……具体的に、何をするんですか?」
佐藤はわずかに口角を上げ、声のトーンを落とさずに応じた。
「今週末、大規模な生配信イベントを行いましょう」
「生配信?」
「ええ。タイトルは『先日の動画に関する重大なご報告と謝罪』とでもしておきましょうか。現在あなたを叩いている野次馬やアンチたちは、あなたが頭を下げる姿を見たくて必ず集まってきます。過去最高の同接数が期待できる」
「いや、待って。謝罪はしないってさっき……」
「もちろん、本当に謝罪するわけではありません」
佐藤はタブレットの画面を切り替えた。そこには、都内にある防音設備が完備された広いスタジオの写真が映し出されている。
「配信の冒頭で、あなたは神妙な顔で頭を下げるフリをします。しかし、すぐに態度を翻し、集まった何万人ものアンチに向けて、徹底的な『煽り』を行う。相手の怒りに油を注ぎ、コメント欄を極限まで荒れさせるのです」
「……マジで? そんなことしたら、それこそBANされるんじゃ……」
「そこが我々の腕の見せ所です」
千尋が冷ややかな笑みを浮かべて引き取る。
「配信の裏側では、弊社のスタッフがプラットフォームの監視システムに直接働きかけ、一時的に『エンタメ・特別枠』としてのホワイトリスト処理を行います。つまり、どれだけ通報されても、配信中は絶対にBANされない環境をこちらで構築するということです。さらに、法的に名誉毀損や業務妨害に該当しないギリギリのラインの『台本』を、私が作成します。万が一、店側が訴えを起こそうとしても、弊社の法務チームが徹底的にあなたを守ります。あなたはその通りに喋るだけでいい」
木下の目が、ギラギラとした欲望の色を帯び始めた。
絶対にアカウントが消されないという安全圏からの、数万人のアンチに向けた大演説。そして、自分を強固に守ってくれる専門チームの存在。それは、彼にとって想像するだけで脳が痺れるような最高の麻薬だ。
「それ……超気持ちいいし、絶対歴史に残る配信になる」
「ええ、歴史に残りますよ」
佐藤は小さく顎を引いた。
「そして、配信の最後に『スーパーチャット』、つまり投げ銭を解禁します。アンチの怒りのコメントに混じって、あなたのフォロワーたちが、アンチを黙らせようと大量の金をつぎ込むはずです。一夜にして、数百万、あるいは一千万近い収益が生まれる計算になります」
木下と撮影担当の男は、顔を見合わせた。彼らの目にはすでに、佐藤たちが自分たちを億万長者にしてくれる救世主に映っている。
「すげえ……。じゃあ、これからももっと過激なことやっても、あんたたちが揉み消してくれるってことですよね?」
木下が身を乗り出し、興奮気味に尋ねる。
「ええ。我々は、クリエイターが安全に活動できる環境を提供するのが仕事ですから」
「やります。絶対やる。おたくら、すげえよ。俺のやりたかったこと、全部わかってるじゃん!」
木下は声を弾ませた。最初の警戒心は跡形もなく消し飛んでいる。
「ありがとうございます。我々にとっても、ヤバイタケルというクリエイターを支援できることは大きなメリットです」
佐藤が目配せをすると、千尋が分厚い契約書の束をテーブルに置いた。
「では、今後のマネジメントおよび今回の生配信に関する業務提携契約を結びましょう。こちらが契約書です。弊社が提供するスタジオ設備、機材、通信環境を全面的に使用していただくこと、そして生配信中のすべての進行を弊社の指示に従っていただくことが明記されています」
「はいはい、サインすればいいんですよね。ペン貸して」
木下は内容をろくに読みもせず、差し出された万年筆をひったくるようにして、最後のページに自分の名前を書き殴った。
「あ、収益の配分ってどうなるんですか?」
「今回は初回のお試しということで、我々の取り分はゼロで構いません。投げ銭の収益はすべてあなたの口座に入ります。今後、長期的な契約を結ぶ際に改めてご相談させてください」
「マジかよ! あんた最高だな!」
木下は笑いが止まらないといった様子で、契約書を千尋に突き返した。
千尋は契約書を受け取り、汚れ物を扱うかのように丁寧にクリアファイルに収める。
「契約は成立しました。スタジオの場所やタイムスケジュールは、追ってご連絡します」
「分かりました! いやー、週末が楽しみになってきたわ。アンチども、震えて待ってろって感じですね!」
木下たちは足取りも軽く、応接室を後にした。
ドアが閉まり、微かな空調の音だけが残る室内で、佐藤はゆっくりと息を吐き出した。
「ただの業務提携契約の裏に、『配信におけるすべての法的責任は配信者本人に帰属する』という免責条項がびっしり書き込まれていることも読まないなんて」
千尋がクリアファイルを指で弾きながら呟く。
「彼にとって、我々から提示された『絶対にBANされない』という言葉こそがすべてですから。契約書の細かい文字など、目に入るはずもない」
佐藤はタブレットを手に取り、画面を消した。
その時、応接室のスピーカーから、襟華の楽しげな声が響いた。
『ねえ、今のやり取り全部聞いてたけど、相変わらず詐欺師顔負けの口八丁だね。タケルのやつ、完全に自分が王様にでもなった気でいるよ』
「彼自身の口で、自分が行っていた悪事をすべて吐き出させなければ意味がありませんからね」
『こっちの準備は完了してるよ。スタジオのネットワーク環境は既に押さえてある。タケルのスマホから抜いた裏垢のデータも、消された動画の生データも、発射準備はOK。いつでもコントロールを奪える』
「ええ、ありがとうございます」
佐藤は応接室の窓辺に立ち、眼下に広がる東京の夜景を見下ろした。
「週末の生配信で、すべてを片付けましょう」




