第2話 調査
翌朝。
夜通し稼働していたサーバー群の排熱音が、微かに空気を震わせるアンチフレアの社長室。厚手のブラインドの隙間から差し込む鋭い朝日が、毛足の長い絨毯の上に白黒の縞模様を描き出している。
「終わったよ。目ぼしいデータはあらかた抜いておいた」
壁際を占拠するモニター群の奥から、くぐもった声がした。
襟華はワークチェアの上で膝を抱えるように丸まり、血走った目で画面を睨みつけていた。足元には空になったエナジードリンクの缶が三つ転がっており、デスクの端には食べかけのポテトチップスの袋と、無造作に束ねられたケーブル類が散乱している。彼女が昨夜から一睡もせずに作業を続けていたことは明白だった。
佐藤はデスクから立ち上がり、襟華の背後へ静かに歩み寄った。彼女の正面にある広大なメインモニターには、無数のフォルダと階層化されたテキストデータ、そして再生待機状態の動画ファイルが整然と並べられている。
「ご苦労様です。思ったより早かったですね」
「相手のセキュリティ意識が素人以下だっただけ。あんな自己顕示欲のバケモノ、ネット上に自分の痕跡を残さずにはいられないんだよ」
襟華はキーボードを素早く叩き、一つのテキストファイルを開いた。
「まずは本名と身元。『ヤバイタケル』こと、木下健太。二十二歳。実家は埼玉で、今は都内のワンルームマンションに撮影メンバーの男と二人で転がり込んでる。で、こっちが本命の裏アカウント」
画面が切り替わり、SNSの非公開アカウントのタイムラインが表示される。アイコンは適当なフリー素材が使われており、プロフィール欄には意味不明な文字列が羅列されているだけだった。
「メインアカウントのフォロワーの中から、不自然にタケルの行動を先読みしてリプライを送っている連中を抽出した。その交友関係を辿って浮上した非公開アカウントの過去の画像データと、タケルのスマートフォンの位置情報の履歴を照合して裏付けを取ってる。間違いなく本人のものだよ」
佐藤は無言で、画面上に次々とスクロールされていくテキストを目で追った。
『今日のジジイマジウケるw 手震えてたし』
『炎上ウマウマ。これでまた登録者一万人増えたわ。バカなアンチどもが勝手に宣伝してくれるから笑いが止まらん』
『店潰れるとか知らんし。自己責任だろ。俺はエンタメ提供してやってんだから感謝しろっての』
『次はどこのクソ店に突撃してやろうかな。また泣かせてやるわ』
そこにあるのは、動画内で見せる「過激だが憎めないエンターテイナー」という作り物のキャラクターですらない。他者の痛みや生活への想像力が完全に欠如した、薄っぺらでグロテスクな本音の垂れ流しだった。
「これだけでも十分な悪臭ですが、動画の方も復元できたようですね」
「もちろん。タケルの同居人が撮影と編集を担当してるんだけど、そいつが使ってるクラウドストレージの同期設定がガバガバだった。ローカルのパソコンで動画を消したつもりでも、クラウド上のゴミ箱には生データが丸ごと三十日間残る設定のまま放置されてたんだよ。ほんと、笑っちゃうくらい脇が甘い」
襟華は小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、動画ファイルを再生した。
それは、昨夜小川真奈美が持ち込んだ動画の、未編集のマスターデータだった。
動画は、タケルと撮影者が洋食店『キッチン・オガワ』の少し手前の路地にいるところから始まっていた。
『おい、今日はここでやるぞ。見た感じ客も少ねえし、クソボロい店だからクレーム入れても文句言えねえだろ』
タケルがヘラヘラと笑いながら、年季の入った店の看板を指差す。カメラが揺れ、撮影者の『了解っす。いつもの感じでいきます?』という声が短く入る。
場面が飛び、店内での食事風景になる。古いが隅々まで磨き上げられたテーブル。そこに、熱々の鉄板に乗せられたハンバーグが運ばれてくる。デミグラスソースの焦げる香ばしい音が、動画越しにも伝わってくるようだ。父親が四十年間、丹精込めて作り続けてきた看板メニューだ。
しかしタケルは、カメラに向かって大げさなリアクションを取りながら、持参した安物のマヨネーズと激辛ソースをその上に大量にぶちまけた。
そして問題のシーン。公開された動画では突然タケルが激高して虫の混入を指摘していたが、未編集のデータにはその直前の行動が克明に記録されていた。
タケルは周囲に店員がいないことを確認すると、ズボンのポケットから小さなプラスチックケースを取り出した。蓋を開け、中からピンセットのようなもので何かをつまみ出し、ハンバーグのソースの影に素早く隠す。
『よし、回せ』
小さな声で撮影者に合図を送った直後、タケルはバンッとテーブルを強く叩き、大声でわめき始めた。
『おい! なんだよこれ! ふざけんな!』
モニターの中で激高を演じるタケルの輪郭から、どす黒いノイズが滲み出ている。
「……見事な自作自演ですね。これほど分かりやすい証拠を残してくれているとは、かえって清々しい」
佐藤の声音には一切の感情が混じっていない。ただ、極めて冷ややかな事実の確認だけがあった。
「おはよう。随分と朝早くから……また胸糞の悪い動画を見ているのね」
背後から声がかかり、千尋が二杯のテイクアウト用コーヒーを手に近づいてきた。彼女はすでに完璧なメイクとスーツ姿を整えており、佐藤のデスクの横にコーヒーを一つ置くと、襟華のモニターを覗き込んだ。
動画の中でわめき散らすタケルの姿を一瞥し、千尋は小さく息を吐き出す。
「これなら器物損壊、威力業務妨害、名誉毀損……どれでもいける、と言いたいところだけど」
千尋は自分用のコーヒーの蓋を開け、一口啜ってから言葉を継いだ。
「実際問題、すぐに警察を動かすのは厄介よ。本人は『辛口の食レポをしただけ』だと主張して逃げるだろうし、わざと虫を入れたというこの動画も、公開する前に『後から合成された偽物だ』とシラを切るかもしれない。警察は実害が確定するか、よっぽど強固な証拠が揃っていないと重い腰を上げないわ」
千尋は冷静に、現在の法制度が抱えるジレンマを指摘する。
「民事での損害賠償請求に切り替えるにしても、発信者情報開示請求から始めて裁判を起こすとなれば、年単位の時間と多額の費用がかかる。個人経営の飲食店には負担が大きすぎるわ。仮に勝てたとしても、慰謝料を含めてせいぜい数百万円。……今のあの男なら、痛くも痒くもないわね」
千尋の現実的でシビアな見解に、襟華が不満げに顔をしかめる。
「でしょ? だからさ、さっさとこの未編集データ、警察の匿名通報フォームにでも送りつけて、同時にネットの掲示板やSNSにも放流しちゃおうよ。炎上してる今なら、一瞬で拡散されてアカウントBANまで持っていける。あんな奴の顔、これ以上見てたくないし」
しかし、佐藤は千尋が置いたコーヒーには手をつけず、じっと真っ暗になったモニターを見つめていた。
「……それでは足りません」
静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った佐藤の言葉に、千尋と襟華の視線が彼に集まる。
「数百万円の賠償金など、今の彼なら炎上商法を利用して『不当な弾圧と戦うための支援』とでも銘打ち、クラウドファンディングで数日のうちに集めてしまうでしょう。警察に逮捕されたり、アカウントを凍結されたところで、熱狂的な信者たちは彼を『真実を暴いて権力に潰された可哀想なクリエイター』として神格化するだけです」
佐藤はゆっくりと振り返り、二人を見た。
「店への嫌がらせは形を変えて続きます。彼の狂信的なフォロワーたちが、自分たちの正義を証明するために、小川さんの店を徹底的に攻撃し続ける。それでは、根本的な解決にはならない」
「……やっぱり、昨夜言っていた通りにするのね」
千尋が腕を組み、細い眉を寄せる。
「コンサルタントとして接触して、一番高いところまで持ち上げてから落とす。でも、今の彼は炎上で再生数を稼いで天狗になっているわ。見ず知らずのコンサルからの連絡なんて、まともに取り合うかしら。むしろ『怪しい業者が来た』って動画のネタにされかねないけど」
「彼は今、数字の暴力に酔いしれていると同時に、怯えてもいます」
佐藤はデスクに戻り、自身のノートパソコンを開いた。
「急激な炎上は、プラットフォーム側からのアカウント凍結という最大のリスクを伴います。実際、彼の動画にはすでに多数の通報が寄せられており、いつBANされてもおかしくない綱渡りの状態だ。彼は内心で『この先どうすれば、アカウントを守りつつ今のバズを維持できるのか』という明確な指針を欲している」
佐藤は流れるようなタイピングで、新規のメール画面を立ち上げた。宛先は、ヤバイタケルのチャンネルの概要欄に記載されているビジネス用の連絡先だ。
「そこへ、確かな実績を持つ専門企業から『あなたのアカウントをBANのリスクから守り、より安全に、より大きな収益化を実現するスキームを提案できる』と持ちかけられれば、必ず食いつきます」
千尋が佐藤の背後から画面を覗き込む。
「……なるほど。そこに、専門企業からの『安全に収益化を最大化する』という甘い提案を投げる。不安と欲の両方を突くわけね」
「彼自身の口で、自分が行っていたことがただの犯罪行為であり、信者たちを金づるとして騙していたにすぎないという事実を告白させる。彼が最も依存しているプラットフォーム上で、最大の注目が集まる瞬間に。千尋は引き続き、彼が罠にかかった後、いかなる法的な抜け道も使えないように、警察への刑事告発状の素案と、プラットフォームへの証拠提示の準備を進めておいてください。襟華は、彼のアカウントの裏の動きを監視し続けるように」
「了解。タケルのスマホの通信履歴は全部抜けるようにトラップ仕掛けといたから、いつでも丸見えだよ」
襟華が大きく伸びをしながら答える。
佐藤は『件名:【重要】現在のアカウントリスクと、今後の収益最大化のご提案』というビジネスライクなメールの文面を推敲することなく書き上げ、送信ボタンを押した。
「さて。彼が我々の差し伸べた蜘蛛の糸にどう反応するか。見物ですね」




