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第1話 承認欲求の奴隷

 深夜零時を回った虎ノ門。オフィス街の喧騒はとうに絶え、窓の下に広がる幹線道路を走る車のテールランプだけが、等間隔の赤い線を描いて流れていく。

 雑居ビルや商業施設が立ち並ぶ一角にそびえる高層ビル。その最上階に位置する株式会社アンチフレアの社長室は、深い静寂に包まれていた。微かな空調の動作音だけが、広々とした空間を満たしている。


 革張りのデスクチェアに深く腰を下ろした佐藤任三郎は、手元の分厚いクリスタルグラスを静かに傾けた。

 グラスの底で揺れているのは、琥珀色の洋酒ではない。純白の液体だ。北海道の特定の牧場から、厳格な温度管理のもとで週に一度だけ空輸されてくる無殺菌の生乳。冷え切ったそれを喉の奥へと流し込み、濃厚な乳脂肪の甘みと微かな草の香りを感じ取る。

 グラスをコースターに戻すと、佐藤はデスクの端に置かれた漆黒のケースを開いた。中から質の良い紙巻き煙草を一本引き抜き、使い込まれたライターで的確に先端を炙る。

 硬質な金属音が響き、細く青い炎が立ち上がる。甘く重い煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと虚空へ吐き出した。生乳のまろやかな後味を、煙草の渋みがゆっくりと上書きしていく。膨大な情報を処理し、次の思考へ移行するための、彼にとって欠かせないルーティンだった。


「ねえ、牛乳と煙草って相変わらず最悪の組み合わせだよね。見てるこっちの胃がもたれるんだけど」


 オフィスの奥、壁一面を埋め尽くすように配置されたマルチモニターの向こう側から、呆れたような声が飛んできた。

 オーバーサイズのパーカーをすっぽりと被った十七歳の少女、田中襟華だ。彼女は座面の広いワークチェアの上であぐらをかき、手元のペットボトルから強炭酸のコーラを直接流し込んでいる。デスクの端には食べかけのポテトチップスの袋が乱雑に置かれていた。


「君が摂取しているその大量の糖分と油分よりは、はるかに健康的だと認識していますが」


 佐藤が静かに応じると、襟華は「はいはい」と適当に返し、すぐに複数のキーボードを叩く作業へと意識を戻した。乾いた打鍵音だけが、再び室内に響き始める。


 数十分後、控えめなノックの音が鳴り、社長室の重厚なドアが開いた。

 体にフィットしたダークグレーのパンツスーツを着こなす渡辺千尋が、静かな足取りで入ってくる。手には業務用のタブレット端末が握られていた。


「夜分に申し訳ないけれど、新規の相談よ。……あまり気分の良い案件じゃないわね」


 千尋の言葉に、佐藤は灰皿に煙草の灰を落とし、視線を向けた。


「こんな時間にですか」

「懇意にしている弁護士からの緊急の紹介案件。昼間は店の周りに野次馬や面白半分の配信者が張り付いていて、外に出られなかったそうよ。日が回って連中が散った隙を突いて、タクシーでここまで来させたわ」


 千尋が手元のタブレットを操作しながら答える。


「通してください」


 促されて応接室のソファに座ったのは、二十代前半の女性だった。

 髪は乱れ、ノーメイクの目元には濃い疲労の影が落ちている。パーカーの上に羽織ったカーディガンを強く握りしめる両手は、膝の上で小刻みに震えていた。


「小川真奈美さん。ご実家は下町で老舗の洋食店を経営されています」


 千尋の紹介を受け、佐藤は名刺を差し出した。


「株式会社アンチフレア、代表の佐藤です。まずは、何があったのかゆっくりとお聞かせいただけますか」


 真奈美は佐藤の名刺を両手で受け取ると、すがるような目を向け、震える声で語り始めた。


 発端は数日前、彼女の父親が四十年間守り続けてきた『洋食キッチン・オガワ』に、一人の客が訪れたことだった。


「相手は……『ヤバイタケル』と名乗る、動画の配信者でした」


 真奈美の言葉を補足するように、千尋が佐藤へ目配せをする。


「最近、過激な突撃動画で中高生を中心に再生数を稼いでいるアカウントね。他人の迷惑を顧みない行動で、意図的に炎上を狙うタイプ」


 真奈美は顔を伏せ、ぽつりぽつりと当時の状況を口にした。

 男は許可もなく店内でカメラを回し始め、父親が出した看板メニューのハンバーグに、持参したマヨネーズと激辛ソースを大量にぶちまけたという。見かねた父親が注意すると、男は突然激高し、「こんなマズい飯、食えたもんじゃねえ」「客商売の態度じゃないだろうが」と大声でわめき散らした。


「それだけじゃありません……。男は食事の途中で急に、皿の中に虫が入っていると叫び始めたんです」


 真奈美の声に、抑えきれない怒りと悔しさが滲む。


「父は提供する前に必ず確認しています。あんな大きな虫、見落とすはずがないのに。でも男はそれを撮影して、『衛生管理が最悪だ』『店主が逆ギレした』って……自分に都合のいい部分だけを切り取って、動画をネットに投稿したんです」


 動画は瞬く間に拡散された。


「タケルのファンたちが、うちの店の住所や電話番号を特定して……無言電話や、いたずらの大量注文が一日中鳴り止みません。受話器を取れば『人殺し』『ゴキブリを食わせる気か』と罵倒される。グルメサイトには、一度も来たことがない人たちから『不衛生だ』『店主の態度が最悪』という嘘のレビューが何百件も書き込まれて、評価は最低まで落とされました。マップの店舗名すら、勝手に『ゴミ処理場』に書き換えられていて……」


 真奈美は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。


「警察にも相談しました。でも、相手は『あれはエンタメの感想を言っただけで、店主も納得していた』と嘘をついていて。虫の件も、元から入っていた証拠がないからと……すぐには動いてくれないんです。このままじゃ、店は潰れます。父は心労で倒れて、今も病院から起き上がれません。父の人生を、あんな嘘で終わらせたくないんです……!」


 佐藤は黙って真奈美の言葉に耳を傾けていた。その端正な顔立ちからは、感情の揺らぎを読み取ることはできない。


「千尋、問題の動画を」


 佐藤が短く促すと、千尋がタブレットを操作し、デスクの上に置いた。

 画面の中で、金髪に染めた男が下品な笑い声を上げながら、丁寧に盛り付けられた料理をめちゃくちゃにしている。


 動画を見つめる佐藤の視界に、異質なものが混じり始めた。

 画面の中の男を取り巻くように、不快な黒いモヤがノイズとなって明滅している。再生数を稼ぐためなら他人の日常をいくらでも踏み荒らしていいという浅薄な自己顕示欲。そして、炎上すらも利益に変換しようとする打算的な計算。

 ネット上に残された悪意や嘘、そして隠蔽された感情。それらを視覚的なノイズとして感知する佐藤の直感が、画面の向こうにいる男の身勝手さを正確に捉えていた。


「……なるほど。お預かりします、小川さん」


 佐藤はタブレットの画面を伏せ、顔を上げた真奈美を真っ直ぐに見つめ返した。


「我々アンチフレアは、ネット上のトラブルを解決し、クライアントの信用を回復させる専門企業です。お父様のお店に、必ず平穏な日常を取り戻してみせます。法的措置に向けた準備も含め、すべて我々にお任せください」


 淡々と、しかし一片の揺らぎもない佐藤の断言に、真奈美の強張っていた肩の力が抜け、縋るように深く頭を下げた。


 真奈美をエレベーターまで見送った後、千尋が社長室に戻ってきた。彼女は伏せられていたタブレットを手に取り、画面をスワイプする。


「弁護士としての見解を言わせてもらうなら、あの動画だけで業務妨害や名誉毀損を立件するのは骨が折れるわね。本人はあくまで『辛口の食レポ』だと主張しているし、炎上を面白がっている匿名の野次馬たち全員の身元を開示請求して訴えるには、膨大な時間と費用がかかる。その間に店は完全に潰れるわ。仮にプラットフォーム側に動画の削除要請を出して認められたとしても、あの男は確実に『不当な圧力で真実を隠蔽された』と騒ぎ立てて、二次的な炎上を引き起こすだけよ」


 千尋の冷静な分析に、佐藤は新しい煙草に火をつけながら頷いた。


「ええ。失われた店の信用を根本から取り戻すためには、彼自身の口から、すべてが捏造であったと自白させるしかありません」

「自白させるって……あんな承認欲求の塊みたいな男が、素直に自分の非を認めるとでも?」

「襟華。ヤバイタケルがネット上に残した痕跡をすべて洗ってください」


 佐藤が奥のモニター群へ声をかけると、襟華はキーボードから手を離さずに答えた。


「了解。現在のアカウント、消された元動画の生データのキャッシュ、裏で繋がっている取り巻きとのやり取り。この手の目立ちたがり屋は不用意にデジタルタトゥーを残しまくってるからね。明日の朝までに、目ぼしいルートは全部確保しておく」


 襟華は短く言い捨てると、ヘッドホンを装着して作業のペースを一段階引き上げた。


 佐藤は細く煙を吐き出し、窓の外の夜景に目を向けた。


「彼は今、炎上によってかつてないほどの注目を集めています。批判の声すらも、彼にとっては心地よい餌にすぎない。次にどう動けばよりバズるのか、彼自身も内心では迷っているはずです。そこへ『もっと安全に、もっと稼げる方法がある』と手を差し伸べるプロフェッショナルがいれば、必ず食いつく」

「……コンサルタントとして、あなたから接触するつもりね。彼を一番高い場所まで持ち上げて、自分が無敵だと勘違いさせる。そして、一番輝いている瞬間に、すべての梯子を外す。相変わらず悪趣味なやり方」

「高い場所から落ちるほど、人は己の過ちに気づきやすいものです。まずは、彼に最高のステージを用意してあげましょう」

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