表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/17

第16話 虚妄の恋愛マニュアル

 都内の貸会議室に足を踏み入れた瞬間、鈴木達也はむせ返るような熱気に圧倒された。

 等間隔に並べられたパイプ椅子には、ざっと見積もって百人以上の男女がひしめき合っている。年齢層は二十代から三十代が中心だろうか。彼らは皆一様に、ステージ上の一点に向けられた瞳に、どこか異様なほどの熱を帯びていた。

 達也は二十八歳のシステムエンジニアだ。真面目だけが取り柄で、学生時代からただ黙々と与えられた仕事に打ち込んできた。だが、その代償として女性との縁は皆無に等しかった。思い切ってマッチングアプリに登録しても最初のメッセージすら続かず、結婚相談所では年収と容姿の冷酷な壁にぶつかり続けた。孤独と焦りがピークに達し、夜も眠れなくなっていた時、SNSのタイムラインにふと流れてきたのがこのセミナーの広告だった。 


『完全非公開・魔法の恋愛マニュアル。これで運命の相手を確実に手に入れる』


 普段の冷静な達也であれば、そんな怪しげな文句は一秒でスクロールして視界から消していただろう。だが、連日の深夜残業による疲労と、部屋に一人でいる時に押し寄せる底知れぬ寂しさが、彼の判断力を著しく鈍らせていた。


「いいですか、皆さん! 恋愛は運ではありません。完全な『科学』であり、私が長い時間をかけて構築したアルゴリズムです。この『魔法の恋愛マニュアル』さえあれば、どんな相手でもあなたの思い通りに動かせるようになります!」


 ステージの中央で、タイトな赤いワンピースを着こなした女性がマイクを握りしめ、自信に満ちた声を響かせた。

 神宮寺摩耶。ネット上では「マヤ」と名乗り、恋愛コンサルタントとして数十万人のフォロワーを抱えるインフルエンサーだ。彼女が言葉を区切るたびに、最前列付近に陣取った参加者たちが大げさなほどに頷き、一斉にノートへペンを走らせる。


「マインドの低い人間は、常に誰かに搾取されます。皆さんは違います。選ばれた存在です。私のメソッドに投資し、自分自身を根本からアップデートする覚悟があるのですから!」


 会場が割れんばかりの拍手に包まれた。マヤは信者たちの崇拝を全身で浴び、まるで教祖のように優雅で慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。達也はその異様な空気に戸惑いながらも、どこかで「これなら自分も変われるかもしれない」という淡い期待にしがみついていた。


 二時間のセミナーが終了した後、達也は「無料個別カウンセリング」と称して、パーテーションで区切られた狭いブースへと通された。

 目の前に座ったのは、マヤの側近を名乗る威圧的なスーツ姿の男と、派手なメイクの女だった。彼らの目は、獲物を品定めするような冷たさを帯びていた。


「鈴木さん、今のままでは一生孤独ですよ。でも、マヤ先生の『プレミアム・コンサルコース』を受講すれば、半年で人生が変わります。我々が保証します」


 男が提示してきたタブレットの画面には、二百五十万円という信じがたい金額が表示されていた。


「高すぎます……それに、そんなお金は」

「お金の問題じゃありません、覚悟の問題です。ここで諦めるから、あなたは今まで誰からも選ばれなかったんじゃないですか?」


 女の冷酷な言葉が、達也の急所を的確に抉った。長年抱えてきたコンプレックスを容赦なく刺激され、退路を次々と塞がれていく。密室に近い空間で数時間にわたり言葉のシャワーを浴びせられ、達也の思考は完全に麻痺していた。

 気づけば彼は、なけなしの貯金百五十万円をその場で指定口座に振り込み、残りの百万円は男が手際よく手配した消費者金融のアプリを通じて借り入れ、全額を送金してしまっていた。


 数日後、メールで送られてきた「魔法の恋愛マニュアル」のデータを開いた達也は、絶望で目の前が真っ暗になった。

 数十ページに及ぶPDFファイルに書かれていたのは、ネットで検索すればすぐに出てくるような薄っぺらい心理学の用語解説と、「自信を持て」「相手を褒めろ」といった中身のない精神論の羅列だけだった。彼が抱える具体的な悩みに寄り添うような内容は、どこにも見当たらない。

 騙されたのだと悟り、慌てて返金を求めるメールを事務所に送ったが、数時間後に返ってきたのは冷酷な定型文だった。


『契約書第八条に基づき、情報商材およびコンサルティングという性質上、いかなる理由があっても返金には応じかねます。これ以上クレームを続けられる場合は、業務妨害として法的措置を検討いたします』


 達也の口座残高は零になり、毎月の重い返済だけが残された。真面目に生きてきた彼が、すべてを失った瞬間だった。


 深夜零時。

 虎ノ門のオフィス街にそびえる高層ビル。株式会社アンチフレアの社長室は、深い静寂に包まれていた。

 革張りのデスクチェアに深く腰を下ろした佐藤任三郎は、手元にある厚手のロックグラスを静かに持ち上げた。中に入っているのは酒ではない。北海道の契約牧場から取り寄せた、徹底した温度管理のもとで運ばれてくる無殺菌の生乳だ。

 佐藤は冷えた液体を静かに喉の奥へと流し込み、口の中に広がる濃厚な乳脂肪の甘みを味わう。グラスを置くと、今度はデスクの引き出しから質の良い手巻きの煙草を取り出し、的確な動作で火を点けた。

 甘く重い紫煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと虚空へ吐き出す。生乳のまろやかな後味を、煙草の鋭い渋みが上書きしていく。膨大な情報を処理し、冷徹な思考の海へと潜るための、彼独自のチューニングだった。


「ターゲットは神宮寺摩耶、二十六歳。自称・恋愛コンサルタントの『マヤ』ね」


 壁際のモニター前で、襟華がヘッドホンを首にかけながら報告した。手元には開けられたばかりの強炭酸のコーラが置かれている。


「被害者の鈴木達也さんから、うちの相談フォームにSOSが来てたよ。貯金ゼロで借金まみれ。メンタルもかなり追い詰められてる」


 佐藤は煙草の灰を落とし、静かに口を開いた。


「千尋、手口は」

「巧妙ね。実体のない『半年間の個別コンサルティング』を主目的として契約させているわ。本人が同意して署名した以上、弁護士が介入しても全額返金に持ち込むのは骨が折れる設計よ」


 千尋は手元のタブレットから視線を外さず、淡々と答えた。


「松本さん。資金の流れはどうなっていますか」


 佐藤が視線を向けると、愛永が素早くキーボードを叩き、複雑なネットワーク図をメインモニターに投影した。


「入金された二百五十万円は、即座に複数のダミー法人の口座を経由して分散されているわ。最終的な着地点は海外の暗号資産取引所。完全にプロの詐欺グループの手口ね。彼女自身は、そのスキームの『客寄せパンダ』として機能しているだけでしょうね」


 佐藤の視線が、モニターに映し出されたマヤのSNSアカウントに向けられた。

 高級ホテルのラウンジでシャンパンを掲げる写真。ブランド品のバッグ。そして、信者たちからの絶賛のコメント群。

 次の瞬間、佐藤の視界に鋭いノイズが走った。

 画面の中のマヤの笑顔にまとわりつくように、歪な文字列と黒い淀みが明滅している。他者の孤独や劣等感を食い物にすることへの一切の躊躇のなさ。そして、自分は特別な存在であるという肥大化した虚栄心。彼女がネット上に撒き散らした身勝手な欲望が、佐藤の眼にははっきりと視覚化されていた。


「……なるほど。彼女は自分を、信者たちを導く絶対的な教祖だと本気で錯覚しているようですね」


 佐藤は灰皿に煙草を押し付け、ゆっくりと立ち上がった。


「他人の人生を破滅させて得た金で着飾った虚像。ならば、そのメッキを剥がし、彼女自身が信者たちからどのように『査定』されるか、ステージを用意してあげましょう」


 翌日の午後。

 都内の五つ星ホテルの最上階にあるアフタヌーンティー・ラウンジ。

 マヤは、目の前に座る圧倒的なオーラを放つ女性から目を離せずにいた。


「マヤさんのメソッド、本当に素晴らしいわ。私、感銘を受けちゃった」


 流暢な日本語でそう微笑んだのは、グレタ・ヴァイスだった。完璧に仕立てられたハイブランドのドレスに身を包み、本物のセレブリティだけが持つ余裕を漂わせている。

 マヤは興奮を隠しきれなかった。数百万人のフォロワーを持つ世界的モデルのグレタが、自分のSNSを見て直接コンタクトを取ってきたのだ。


「ありがとうございます、グレタさん! 私の恋愛科学は、富裕層の方々にも必ずお役に立てると確信しておりました」

「ええ。だからね、来週私が主催するシークレットな船上パーティーに、マヤさんをご招待したいの。私のパトロンである投資家や、メディアの重役たちも来るわ。そこで、あなたの素晴らしい『マニュアル』をプレゼンしてみない?」


 マヤの目が欲望にギラリと光った。

 今の数十万人のフォロワーから搾取する小銭など目じゃない。本物の富裕層のネットワークに入り込めば、億単位の金が動かせる。彼女の肥大化した承認欲求と強欲さが、警戒心を完全に奪い去っていた。


「ぜひ、喜んで参加させていただきます!」

「ふふ、楽しみにしてるわね」


 グレタは優雅に紅茶を口に運びながら、氷のように冷たい眼差しで浮かれるマヤを見据えていた。


 同じ頃。

 マヤが不在にしている都内の高級タワーマンションの一室。

 電子錠のセキュリティを物理的に突破し、音もなく室内に侵入した吉田彩は、黒いレザージャケットのポケットから小型のデータ抽出デバイスを取り出した。

 彼女はデスクの上にあるマヤの私物ノートパソコンにデバイスを接続し、耳元の極小インカムを叩く。


「侵入完了。物理デバイスの接続をした。襟華、引けるか」

『余裕。ファイアウォールなんて飾りみたいなもん。今からクラウドに上がってないローカルの裏帳簿と、サクラのバイト連中のリストを全部抜く』


 オフィスの襟華からの即答を聞きながら、彩は部屋の隅に無造作に積まれたブランド品の空箱を冷ややかな目で見下ろした。


「……他人の血を吸って買ったガラクタばかりだな。さっさと終わらせるぞ」


 彩は短く呟き、逃げ道を塞ぐための決定的な証拠が抽出されるプログレスバーの動きを、静かに見つめ続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ