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第14話 枯渇する血液

 冷たい雨が上がった翌朝。灰色の雲の切れ間から、鋭い冬の薄日が差し込み始めている。

 都内の高層マンションの一室。佐藤はキッチンの前に立ち、一切の無駄を削ぎ落とした滑らかな動きで朝食の準備を進めていた。

 専用の焼き網に乗せられた肉厚の紅鮭から、上質な脂が弾けてジュッと微かな音が上がる。表面を焦がさず、かつ皮目はパリッと香ばしく焼き上げられるよう、絶妙な火加減を維持しながら、傍らでは別の調理が並行して進行していた。

 電子レンジで柔らかく蒸し上げた茄子を氷水で手早く締め、鮮やかな紫色の皮の色止めをする。水気を拭き取り、手で一口大に裂いてガラスの鉢へ移した。そこへ、あらかじめすり鉢で丁寧に当たっておいた白ゴマ、極細の輪切りにした唐辛子、繊維に沿って千切りにした大葉と生姜を合わせ、熟成された醤油と一番搾りのごま油で風味を整えた特製の香味ダレをたっぷりと回しかける。香ばしいゴマと生姜の鮮烈な香りが、静寂なキッチンにふわりと広がる。

 冷蔵庫から取り出したのは、しっかりと味が馴染んだキビナゴとタマネギの酢漬けだ。ガラスの小鉢の中央に小高く、立体的に盛り付ける。

 炊飯器から立ち上る湯気とともに、艶やかに炊き上がった白いご飯を茶碗によそう。米粒の一つ一つが独立して立ち上がり、新米特有の甘い香りを放っている。

 最後は小鍋に張った昆布と一番血合い抜きの鰹節から引いた澄んだ出汁を火にかけ、沸騰する直前の八十五度という絶妙な温度で、大量の沖縄産もずくを落とす。もずく特有の磯の香りがふわりと広がった瞬間に火を止め、熱い澄まし汁を漆塗りの椀に注いだ。


 ダイニングテーブルに並べられた五品。佐藤は椅子に腰を下ろし、静かに箸を手にした。

 紅鮭の強い塩気と豊かな脂を、白米が完璧に受け止める。蒸し茄子に絡んだ香味ダレの鮮烈な風味、キビナゴの鋭い酸味が口の中を的確にリセットし、もずくの心地よい歯応えが咀嚼のリズムを生む。

 食材のポテンシャルを極限まで引き出し、一切の妥協を排した調和。佐藤は一つ一つの味の輪郭を確かめるように、淡々と箸を進める。五感を研ぎ澄ますこの食事の時間は、彼がこれから行う冷徹な仕事に向けて思考を完全にクリアにするための、欠かせない儀式だった。


 食後、書斎へ移動した佐藤は、デスクの上のヒュミドールを開いた。

 厳密に湿度七十パーセントに管理された箱の中に並ぶ葉巻の中から、キューバ産の『エル・レイ・デル・ムンド』の『ペティ・コロナス』を選び出す。滑らかな褐色のラッパーに覆われた、美しい一本だ。

 シガーカッターの鋭い刃で吸い口を抵抗なく切り落とし、専用の長いマッチを擦る。硫黄の匂いが完全に消えるのを見計らい、炎の先端で的確に火を移して、軽く煙を吸い込んだ。

 花のような甘い香りと、ローストナッツを思わせる柔らかな風味が口腔内に広がる。

 紫煙をゆっくりと虚空へ吐き出しながら、佐藤は手元のタブレット端末を起動した。

 画面は、オフィスのメインモニターと完全に同期している。

 午前十時。北条玲のオンラインサロン限定の生配信が、まさに始まろうとしていた。


 ★★★★★★★★★★★


 虎ノ門のアンチフレアのオフィス。

 壁面の大型モニターが映し出しているのは、高級タワーマンションのラウンジでふんぞり返る北条の姿だ。仕立ての良いオーダースーツに身を包み、腕にはこれ見よがしに数千万円の機械式時計を光らせている。

 昨夜、グレタの手によって完全に骨抜きにされ、すべての資産と権力を奪われたことなど露知らず、彼の顔には世界を支配したかのような万能感が張り付いていた。

 愛永がティーカップを片手に、冷酷な笑みを浮かべる。


「自分の口座が完全に空になっていることも知らずに、よくあんなに堂々と振る舞えるわね。息を吐くように他人を騙す。ある意味、才能だわ」


 襟華が手元のキーボードを弾くように叩く。


「同接、すでに一万を突破。クローズドなサロンにしては異常な数字だよ。あいつが事前に『人生を変える重大発表がある』って煽りまくったからね」


 配信画面の中の北条は、カメラに向かって大げさな身振りで語りかけていた。


『お前ら、よく集まったな。今日は、俺を信じてついてきてくれたお前らだけに、特別な情報を公開する』


 北条は自信に満ちた笑みを浮かべる。若者を洗脳するための古典的な不安煽りの話法と、絶対的な自信を演出する間の取り方を的確に使いこなしている。


『昨日の夜、俺は海外の超大物セレブ投資家の代理人と極秘の会談を行った。結論から言うと、俺のメソッドと実績が完全に認められて、数百億規模の巨大ファンドと直接パイプを繋ぐことに成功したんだ』


 コメント欄が凄まじい速度で流れ始める。


『すごすぎる!』『北条さん、一生ついていきます!』『次元が違いすぎる』


 信者たちの盲目的な称賛が、北条の肥大化した自尊心をさらに膨張させていく。


『そこでだ。今日からこのサロンのメンバー限定で、その巨大ファンドへの特別投資枠を解放する。本来なら最低でも数億の資金がないと入れない枠だが、俺の特別ルートで、一口百万円から参加できるように手配した』


 北条の口元が、醜く歪む。


『一ヶ月で倍にしてやる。本気で人生を変えたい奴、俺と同じ景色を見たい奴は、今すぐ画面の下に表示される口座に振り込め。枠が埋まり次第終了だ』


 千尋が手元の書類を揃え、氷のように冷たい声で言った。


「古典的なポンジ・スキーム。搾り取るだけ搾り取るつもりね」

「受け皿は押さえたわ。被害者の会の弁護団と国税への『お中元』も配送済み」


 愛永がキーボードに両手を置いた。


「裏社会への『誤報』もね。今頃、彼のパトロンたちの端末には、北条が資金を持ち逃げしたというアラートが鳴り響いているはずよ」


 タブレット越しに状況を見守っていた佐藤が、短い指示を出す。


「松本さん。彼の幻想を終わらせてください」

「ええ。お金という血液を、一滴残らず抜き取ってあげる」


 愛永がエンターキーを押下した。


 配信画面の北条は、自分の勝利を微塵も疑っていなかった。


『俺の言うことが信じられない奴は、これを見ろ。俺のオフショア口座の、現在のリアルな残高だ。俺がどれだけの資産を動かしているか、その目で確かめろ』


 北条は自身のスマートフォンをカメラに向け、得意げにログイン画面を操作する。

 顔認証をパスし、物理トークンに表示されたワンタイムパスワードを入力する。

 画面が切り替わり、口座のダッシュボードが表示された。

 そこには、彼の言葉を裏付けるような莫大な数字が並んでいるはずだった。

 しかし。


 画面の中央に表示されたのは、『残高:0.00』という無機質な文字だけだった。


 北条の顔から、一瞬にして表情が消え失せた。


「……あ? え、なんだこれ。通信エラーか?」


 彼は慌ててスマートフォンの画面をスクロールし、更新ボタンを何度もタップする。しかし、何度リロードしても、冷酷な零の文字は変わらない。

 コールドウォレットの管理アプリを開く。こちらも無残なエラーメッセージが表示されるだけだった。額に脂汗が滲み始める。


「おい、どうなってんだよ……俺の金……俺の数百億が……!」


 北条がパニックに陥り始めたその時、彼が手にしていたスマートフォンに別の着信が入った。

 画面に表示されたのは、彼が資金洗浄を依頼していた裏社会のブローカーの名前だった。

 生配信中であることも忘れ、北条は震える指で通話ボタンを押す。


『おい北条! てめえ、俺たちの口座から金全部抜きやがったな! どういうつもりだ!』


 マイクが拾ったドス黒い怒声が、配信を通じて数万人の信者たちにブロードキャストされる。


「ち、違う! 俺じゃない、俺の口座も空っぽで……!」

『ふざけんな! 今すぐてめえのタワマンに行くからな。逃げられると思うなよ!』


 電話が一方的に切れる。

 北条は呼吸を荒げながら、スマートフォンを見つめた。

 さらに、彼の画面を連続した通知が埋め尽くしていく。

 国税局からの差し押さえ通知。ダミー法人の口座凍結を知らせる銀行からのアラート。そして、ネットニュースの号外通知。


『情報商材インフルエンサー・北条玲氏、詐欺容疑で被害者の会が集団告訴。警察が捜査へ』


 その見出しは、北条にとって完全な死刑宣告だった。


 配信のコメント欄の空気が、急激に反転した。


『残高ゼロじゃん』

『さっきの電話なに? ヤバい奴に追われてる?』

『詐欺師! 俺の三百万円返せ!』

『警察に通報したわ』

『こいつ完全に終わったな』


 称賛と崇拝の言葉は跡形もなく消え去り、騙されていたことに気づいた信者たちの怒号と、野次馬たちの冷酷な嘲笑のコメントが、滝のような勢いで流れ続けている。


「違う、待て、これは何かの間違いだ! 俺は……俺は……!」


 北条はカメラに向かって叫ぼうとするが、もはや彼に味方する者は一人もいない。

 タワーマンションの玄関のドアを、外から激しく叩く鈍い音が響き始めた。

 北条は悲鳴を上げ、カメラを叩き落として部屋の奥へと逃げ惑う。床に転がったカメラが天井の豪華なシャンデリアを映し出したまま、配信は強制的に途切れた。


 オフィスのメインモニターがブラックアウトし、静寂が戻る。

 愛永がティーカップを持ち上げ、優雅な所作でアールグレイを啜った。


「血液を抜き取られた化け物は、もう一歩も動けないわね」


 千尋がタブレットをスリープ状態にし、デスクに置く。


「国税への対応と被害者の会の訴訟、それに裏社会からの取り立て。彼が一生かけても返しきれない負債よ」


 タブレット越しにそのやり取りを聞いていた佐藤は、短い言葉を返した。


「他者の未来を奪った代償は、自身の破滅で支払う。当然の帰結です」


 佐藤が通信を切断すると、書斎に再び静かな時間が訪れた。

 灰皿に置かれたペティ・コロナスから、細い紫煙が立ち上っている。

 佐藤は深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

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