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第13話 隔離された金庫

 深夜零時。アンチフレアの社長室の奥に併設されたプライベートなキッチンスペースで、佐藤はミッドナイトブルーのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してコンロの前に立っていた。

 大鍋にたっぷりと張られた湯が、勢いよく沸騰している。佐藤は手元にある最高級の讃岐うどんの乾麺を取り出すと、パラリと扇状に広げて熱湯の中へ投入した。湯の対流に合わせて麺が自然に踊るよう、吹きこぼれないギリギリの火力を維持しながら、タイマーで指定された時間きっちりと茹でていく。

 麺を茹でている間に、出汁の準備に取り掛かる。乾麺に添付されている濃縮出汁の封を切り、あえて全量は使わずに器の底へ注ぐ。そこへ、市販されている良質な昆布と飛魚の白だしを数滴、絶妙な割合でブレンドする。たったそれだけの微調整で、単調になりがちな旨味が複雑に絡み合い、奥行きのある料亭のような味わいへと昇華される。

 トッピングの準備にも一切の妥協はない。沖縄産のもずくは流水で丁寧に揉み洗いし、特有の磯の香りを残しつつ、余分な塩気とぬめりを的確に落とす。万能ネギは、繊維を潰してエグみを出さないよう、よく研がれた包丁で極限まで薄く、小気味良いリズムで刻んでいく。あらかじめ用意しておいたゆで卵は、氷水で急冷して殻をむき、半分に割ってトロリとした半熟の黄身をのぞかせる。

 タイマーが鳴ると同時に、茹で上がったうどんをザルにあけ、流水で表面のぬめりを素早く洗い流す。そして、たっぷりの氷水に浸して一気に麺を締めた。急激な温度変化が小麦のグルテンを引き締め、乾麺とは思えないほどの強烈なコシと滑らかな喉越しを生み出す。

 水気を完全に切ったうどんを深めの器に盛り付け、準備したもずく、ゆで卵、万能ネギを余白を活かして美しく配置する。そこへ、冷蔵庫で冷やしておいた特製の出汁を器の縁から滑らせるように注ぎ入れた。

 仕上げに、京都の老舗から特別に取り寄せている黒七味を軽く振りかける。焙煎された唐辛子の深い香ばしさと、山椒の鮮烈で刺激的な香りが、冷たい出汁の風味と混ざり合って鼻腔をくすぐる。

 佐藤はダイニングテーブルに器を運び、無言で端正な所作のまま箸を進めた。

 もずくのつるりとした食感と、うどんの強いコシ。出汁の旨味を、黒七味のピリッとした辛味が引き締める。冷徹なまでの温度管理と時間計算によって生み出された、一切の狂いのない完璧な一杯だった。

 佐藤がこの孤独で研ぎ澄まされた一杯を味わっている最中も、オフィスのメインフロアでは、チームのメンバーたちがそれぞれの持ち場で息を潜め、網にかかった獲物の動向を常時監視し続けていた。


★★★★★★★★★★★


 同時刻。港区の超高級タワーマンション、地上四十五階のペントハウス。

 東京の夜景が一望できる広大なリビングのソファに、北条玲は得意げな笑みを浮かべて深く腰を下ろしていた。彼の対面には、深いエメラルドグリーンのイブニングドレスを着こなしたグレタ・ヴァイスが、足を組んで座っている。

 先ほどのアフターパーティーでグレタが提示した、桁外れのダミーファンドの運用資産額。自分よりも遥かに上のステージに存在する本物の権力と富の匂いに己の強欲を限界まで刺激された北条は、迷うことなく彼女を自らの「城」へと招き入れていた。


「どうだい、この夜景。俺はスマホ一台で、この景色を手に入れた。君のクライアントの資金を俺に預ければ、この夜景のすべてを買い占めることだってできる」


 北条は高級なシャンパンをグラスに注ぎ、グレタへと差し出した。


「ええ、素晴らしい景色ね」


 グレタはグラスを受け取ったが、口をつけることはなく、大理石のローテーブルにコトリと置いた。彼女はドレスの深いスリットから覗く長い脚を艶かしく組み替え、北条を頭の先から爪先まで冷ややかに見つめる。


「でも、私が興味があるのはあなたの見栄っ張りなタワーマンションじゃないわ。あなたが本当に、私のクライアントの莫大な資産を管理できるだけの『器』を持っているかどうかよ」

「俺を疑ってるのか? 俺の資産管理は完璧だ。ハッカーが何百人束になっても、俺の金には指一本触れられない」

「口で言うのは簡単よ」


 グレタは甘く、しかし明確な挑発のトーンで囁いた。


「オフショアの口座と、物理層で隔離されたコールドウォレット。確かに理論上は強固だけれど……あなたが本当にそれをスムーズに扱えるのかしら。どれだけシステムが強固でも、扱う人間にミスがあれば一瞬で資金は消えるわ」

「俺の管理能力を舐めないでほしいな」


 北条の安いプライドが、グレタの言葉に激しく反応した。彼は立ち上がり、部屋の奥に隠された金庫を開けた。中から、USBメモリ型のデバイスと、小さな液晶画面がついた物理トークンを取り出し、テーブルの上に乱雑に放り出す。


「これが俺のすべてだ」

「それだけ? オフショアの口座へのアクセスには、強固な生体認証が必要なはずよ。今、この場で私にログインして見せて。あなたが本当にその資金にアクセスできる権限を持っているのか、確認させてもらうわ」


 北条は鼻で笑い、スウェットのポケットから自身のスマートフォンを取り出した。彼は疑うことなくアプリを起動し、インカメラに顔を向けて顔認証を通過させる。さらに、手元の物理トークンに表示された十桁のワンタイムパスワードを入力し、オフショア口座のメイン画面を開いてみせた。


「ほら、見ろ。これが俺の本当の資産だ」


 ドヤ顔で提示されたスマートフォンの画面を、グレタが覗き込む。

 その瞬間、すでに襟華によって裏口が開かれていたスマートフォンのバックグラウンドで、ログインが完了したセッションそのものが完全にハイジャックされた。愛永が即座にアンチフレアのターミナルからダミーファンドの口座との接続を確立し、裏側で資金の移動準備を整える。


「口座の方は確認できたわ。でも、コールドウォレットの暗号資産はどうかしら?」


 グレタは表情を崩さず、テーブルの上のUSBデバイスを指先でなぞった。


「こっちの復元に必要な二十四個の単語の羅列は、絶対に忘れないように、俺の人生の成功体験に紐づいた言葉で構成してある。紙にもデータにも残していない。俺の頭の中にしかない完全な金庫さ」

「人間の記憶ほど脆くて当てにならないものはないわ」


 グレタは北条のネクタイに指を這わせ、吐息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。


「もしあなたが明日、交通事故で意識不明になったら? その莫大な資産は電子の海に消えてしまう。そんな危うい記憶に頼っている人間に、数千億のファンドを任せるわけにはいかないわね」

「事故になんて遭わないさ。それに、絶対に忘れない」

「本当に?」


 グレタのサファイアブルーの瞳が、北条の視線を射抜く。


「なら、私に証明してみせて。あなたがどれだけ確実な『記憶の宮殿』を築き上げているか。声に出して、その二十四の単語を暗唱してみて。一つでもつっかえたり、迷いを見せたら、この話はなかったことにするわ」


 北条の頬の筋肉が微かに引きつった。目の前にいる絶世の美女と、彼女の背後にちらつく莫大なチャージマネー。ここで引けば、すべてを失う。己の野心とプライドが、かすかな警戒心を完全に握り潰した。


「……いいだろう。聞いて驚くなよ」


 北条は自信たっぷりに笑い、ゆっくりと単語を紡ぎ始めた。


「一番目は、俺が初めて起業した場所の名前だ。『新宿』。二番目は、俺が初めて買った車のブランド。『ポルシェ』。三番目は……」


 北条が誇らしげに暗唱していく単語の羅列を、グレタは感嘆の表情を浮かべながら聞いているフリをしていた。

 しかしその裏で、北条のスマートフォンのマイクが拾い上げた音声を、オフィスの弥生がリアルタイムでテキストデータへと変換していく。抽出された単語のリストが、愛永の管理する専用のターミナルへと次々に打ち込まれていった。


「……そして最後、二十四番目は、『勝利』だ」


 北条はすべての単語を淀みなく暗唱し終え、大きく息を吐いた。


「どうだい? 俺の記憶力と管理体制は」

「素晴らしいわ」


 グレタは完璧な営業スマイルを浮かべ、小さく拍手をした。


「あなた、本当に天才なのね。これなら、私のクライアントも絶対に満足するわ」

「だろ? 俺の頭脳と君の資金があれば、この国の経済を牛耳ることだってできる」


 北条が勝利を確信し、グレタの肩を引き寄せようとしたその瞬間。

 グレタの耳元の極小インカムに、愛永の弾むような声が響いた。


『シードフレーズ、完全に一致。ハイジャックしたセッションと合わせて、彼の仮想通貨と法定通貨、一円残らずこっちのダミーファンドのプールに移動完了。いつでも凍結できるわよ』


 グレタの唇の端が、微かに吊り上がった。


「ええ、本当に。あなたは世界中を買い占められるほど、無防備で愚かだわ」

「……え?」


 グレタは北条の胸を冷たく押し返し、ソファから立ち上がった。先ほどまでの甘い空気は跡形もなく消え去り、そこにあるのは冷酷な捕食者の威圧感だけだった。


「どうしたんだよ、グレタ。これから祝杯を……」

「ごめんなさい、急用が入ったみたい。スイスの本社から連絡が来たの。今夜はこれで失礼するわ」


 グレタはイブニングバッグを手に取り、部屋の出口へと向かう。


「おい、待てよ! 話が違うじゃないか!」


 北条は慌てて引き留めようとするが、グレタが肩越しに放った氷のように冷たい眼差しに射すくめられ、思わず足を止めてしまった。


「また連絡するわ、玲。あなたの大事な資産、せいぜい大切に守っていてね」


 グレタは振り返ることなく、重厚な扉を開けてペントハウスを後にした。残された北条は、テーブルの上の物理トークンと空のグラスを見つめたまま、ただ茫然と立ち尽くしていた。


 アンチフレアの社長室。

 佐藤は器に残ったうどんの出汁を最後の一滴まで飲み干し、箸を置いた。

 煙草に火を点けモニターを見る。

 デスクの上のモニターには、愛永が掌握した北条の資産残高がリアルタイムで表示されている。彼が弱者から搾取してきた桁外れの数字が、すべてアンチフレアの管理する強固なダミーファンドへと移されていた。


「ご苦労様でした。愛永、彼の資金の掌握状況は」


 佐藤がインカム越しに問いかけると、愛永の声が返ってくる。


『完璧よ。彼が今持っているコールドウォレットは、ただの空っぽのUSBメモリ。オフショアの口座残高も綺麗にゼロになっているわ。彼がそれに気づくのは、次にログインしようとした時ね』

「十分です」


 佐藤は煙草の灰を灰皿に落としながら、冷酷に言い放った。


「明日の朝、彼が新たなプロジェクトを発表するその瞬間に、すべてを奪います。一滴の血も残さない」


 傍らのキャリーケースの中で、温かなタオルに包まれた子猫が微かに身を捩った。

 佐藤はその小さな命の鼓動を一瞥し、ゆっくりと目を閉じ、明日の処刑の最終フェーズを脳内で組み立て始めた。

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