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薄暗い客室に転送の酔いが抜ける前、剣の柄に指がかかっていた。窓辺で夜空を眺める横顔。セインだ。肩の力は抜けているのに、気配の輪郭だけが研ぎ澄まされている。
僕は呼吸を整え、床の軋みすら潰す歩幅で間合いを詰めた。
セインは振り返らない。代わりにベッドへ視線を落とす。
そこで、白い寝息を立てるエイビスの喉元に、小剣の切っ先が静かに触れた。
刃には紫の液体が薄く光っている。僕の足は一振りの前で止まった。
「いい距離で止まったね、シオン君。相変わらず戦いの察しが良いね」
セインは窓の反射越しに僕を見ている。
「君が迷うまでもなく、この毒の方が先にエイビスちゃんへ届くよ」
「下ろすんだセイン。僕と話をしたいんだろう?」
「わかってるよ。そんなこと」
彼女は小さく笑った。
「君がドルフェリアの住人であるエイビスちゃんを守ろうとするなんてね。
シオン君、ペンダント探しはもうやめて、私とどこか遠くへ行くのはどうかな」
「答えは、セインが逃げる理由を聞いてから出したい」
僕は問いを重ねる。
「何から、誰から、どれほどのものから逃げる必要が」
「ね、シオン君」
セインは首を傾げる。
「理由を聞いたら、君はこの提案を突っぱねるって分かってるんだ。だから敢えて教えてあげない。
それに何も言わない女の子に差し迫って来るようなマネ、シオン君はしないよね」
「・・・わかった」
僕は剣からそっと手を離す。床に落ちる音を立てず、両手を見える位置へ上げた。
呼吸を一つ。
次の拍で、左足を切り、袖口から送ったナイフを視線の死角で弾く。
同時に腰を落とし、鞘走りから柄打ちへ――
「やっぱりそう来るよね、シオン君」
甲高くない金属の衝突音。セインの右手に、見覚えのある曲刀。
僕の柄打ちは刃の腹で受け止められ、角度の逃げ道を塞がれる。
「次は読めるかな」
挑発を投げるように笑ってみせる。右手を空に見せたまま、左肘の内側で彼女の手首を刈り、刃の向きをずらす。
セインの肩が半分だけ泳ぐ。毒刃はエイビスの喉から離れ、ベッド柵にかすった。
「エイビス、起きてください」
僕は声を落として呼ぶ。シーツがゆっくり動き、紫の瞳が開いた。状況の把握は速い。
エイビスは上体を起こすと、手首のスナップで髪飾りの細針を飛ばした。
「失礼いたします、セインさん」
針はセインの手首を貫かない。彼女は指一つで軌道を逸らし床へ落とした。
その瞬間、部屋のどこにもいないはずの低い声が、壁の内側から滲み出る。
「――つまらん戦略だ、セイン。自分のフィールドで戦うことを選んでおきながら、なんと情けない」
男のような声。剛腕が笑う時の低さ。僕は音源を探る。
「誰だ。出てこい」
「名乗る必要はない。名など、死体の札に書けば足りる」
声は窓と扉の中間、立体のどこにも属さない位置から響いた。
セインがかすかに顔をしかめる。
「やめて、手を出さないで」
「いいだろう、ならば足を出す」
声の主は、セインの否を押し潰すみたいに言った。床が揺らぎ、青黒い楕円が開く。
セインの足元に吸いこむような流れが生まれ、彼女の体がふわりと浮く。
「シオン君」
セインは僕にだけ届く声で言い、抵抗もせずに白へ溶けた。
同時に、僕らの足元にも別の楕円が口を開く。遅い吸引。逃げられる速度。
だがエイビスの足が縺れる。僕は彼女の手を掴み、引き寄せた。
「離さないでください、シオン様」
「もちろんだ」
視界が反転し、匂いが変わる。鼻腔に湿った鉄と泥の気配。
落下の着地が決まったとき、足裏は石板の冷たさを踏んでいた。
下水道の深部。
天井は低く、壁面には古い符丁。流れは緩いが、水は黒い。
「殺すならここが一番だと、昔から決まってる」
声の主は満足げだった。
「音は上に抜けない。臭気は証言を曖昧にする。水が流せば痕も消えるだろう」
「君がセインの理由なのか?」
待てど揺らめく声は返ってこない。ひとまずエイビスと共に先に進むか。
下水道の匂いは鼻の奥に張り付くのに、耳はやけに澄んでいた。
水路の向こうで水位が揺れ、黒い鏡から塊が起き上がる。
上半身は逞しい猿の骨格、下半身は大きなヒレ。全身を覆うのは筋肉ではなく、水そのもの。
目にあたる部分だけが深い群青に沈み、こちらを測っている。
「・・・現れましたね」
「エイビス、僕が前に立つよ。距離を詰めるけど、無理はしないでください」
剣を抜き、流路の縁に沿って角度を切る。肩口へ斜めに一撃。
刃は確かに入ったはずなのに、手応えは重さを失った布に似て、通り抜けるだけで何も残らない。
肩の形を保った水だけが揺らぎ、即座に元の形へ戻った。
「物理は通りにくいみたいだ。それなら属性で――」
試しに剣先で水路を撫で、細い水の刃を起こして打ち込む。しかし相手は水。
同質の打撃は薄膜を震わせる程度で、痛みと呼べる反応は引き出せない。
僕が一歩退く間に、生き物は両脇から太い水腕を二本伸ばし、壁面の鉄管を易々とへし曲げた。
ゴリラとラッコを合わせたみたいな姿は全くもって愛らしくない。
「低い声が言っていた通り、僕と相性が悪いらしい。エイビス、頼めますか」
「お任せください、シオン様」
彼女は僕の横へ半歩出て、指先に微かな光を集めた。瞳が僕を一度だけ見上げ、すぐ獲物へ戻る。
その視線が頼もしい。僕は相手の注意を僕側へ引きつけるため、足元の石片を拾いリズムを作って投げる。水腕がそちらを叩き落とし、僕に向き直る。
狙いが散った一瞬、エイビスの髪が帯電し、白い閃光が生まれた。
しかし、ゴリラッコは雷そのものを見た瞬間、標的を僕からエイビスへ切り替えた。
集中を乱すように、彼女だけを狙って水腕を打ち込む。慎重で厄介だ。
僕の牽制のいくつかは無視され、エイビスが保つべき距離だけが削られていく。
「相変わらず戦いの外か。エイビス、溜めさせてくれる時間は少なそうだ。何とか時間を稼いでみるよ」
素早く回り込み、足音を意図的に大きく鳴らし、剣の腹で水面を叩いて波紋を広げる。
相手は一瞬だけ僕へ目を向けるが、すぐに雷の源へ帰る。視線の粘着が彼女に張りつく。
作戦の効果は薄い。カリーナとやり合った時の、理不尽な手札の差を思い出す。
あの時は、不利をひっくり返すには一点だけを最大化するしかなかった。
「エイビス。僕のいる方向へ、できる限り強い一撃をお願いします」
「シオン様に、ですか。
・・・わかりました。信じます」
彼女は攻撃の圧を受け流しながら、両掌を合わせて力を束ねる。
対してゴリラッコは、彼女が溜めに入った瞬間を狙い撃ちにしてくる。
水腕が上下左右から編まれ、逃げ道を潰す網を形作る。
僕はその網の結び目を斬り、こじ開け、エイビスの足元に空間を作る。
「今だ」
「――雷哭哀歌!」
エイビスの掌から走った白線は、雷鳴と共に空気ごと対象を割るように進む。
ゴリラッコはそれを軽やかに避け、水面へ逃がした。反射で水柱が立ち、雷は散って消える。
結果だけ見れば外れだ。だが、それでいい。僕はその残滓を剣に受け、刃に絡めて握り直す。
柄と掌の間から、細い電の糸が踊った。
「読み通りだ。エイビス、使わせてもらうよ」
床を蹴り、肩へ斜めに深く。水の肩越しに、雷が芯を貫く。
一瞬だけ、水ではない密度がそこに生まれ、刃は手応えを取り戻す。
黒い体幹が大きく傾き、ゴリラッコは後退した。
「効いています、シオン様」
「はい。ただ、まだ倒れてはいません」
次の瞬間、相手の輪郭がぐにゃりと広がり、六本の水腕が自由に踊り始めた。
一本が僕へ、残りがエイビスへ。同時に二人を狙い続ける器用さ。面倒な相手だ。
僕は反射的にエイビスの方へ駆け寄り、腰を落とす勢いで彼女を抱き上げその場から跳ぶ。
後ろに伸びた水腕が石壁を打つ音がして、破片の感触が衣に当たる。彼女の脈は落ち着いていた。
「しばらくこのまま攻撃を避けるから、反撃は任せるよ」
「はっ、はい。シオン様と触れ合っていると短時間で準備が整いそうです。
・・・次の一撃に合わせてくださいませ」
僕はエイビスの冗談を流し肩の上で彼女の重さを均し、浅い水場の死角へ滑る。
ゴリラッコの視界の端に入らない、壁と柱の影が重なる位置。
エイビスが背中で息を整え、指先の光が濃くなる。ゴリラッコも勘が良い。
狙いを読み、体を圧縮して水面へ潜ろうとする。ヒレが沈み、輪郭が低くなる。
ここで時間を止めるには、もう一押しが要る。
僕は柄を逆手にし、雷の残り香が漂う剣を、潜ろうとするヒレの付け根へ投げた。
刃は深くは刺さらない。
だが、絡みついていく。ゴリラッコの動きが半拍止まり、水面への逃げが遅れる。
「今だ、エイビス」
「――雷哭哀歌!」
耳の中を震わせるような圧が、空気ごと走る。雷は一本の糸ではなく、束のまま落ち、ゴリラッコの体を縫い止めた。水の輪郭が一度だけ大きく弾け、すぐにしぼむ。
僕は前へ出て、剣を引き戻しながら肩の付け根へ再度一撃を重ねる。
雷の残滓が核へ触れたのか、相手は立ち上がりかけてから、ゆっくりと崩れ、大粒の水玉に分解されていった。
丸い滴が石床を転がり、流路へ吸い込まれていく。
本当に威力が上がっているが、攻撃に集中できたからかもしれない。
相変わらずエイビスには読まれてばかりでこちらはほとんど分からない。
「決まりましたね、シオン様」
「さっきの言葉、冗談だと思っていたよ」
手のひらを合わせる。エイビスは嬉しそうに微笑み、ふと何かを思い出したように首を傾げる。
「先ほどのシオン様の剣。私の雷を受けて、属性を吸収したように見えました。もしや――」
言い終わる前に、足元の水が静かに渦を巻いた。
僕のつま先の下、エイビスの踵の下、別々の位置に、膝ほどの大きさの円が二つ、淡く開く。
嫌な既視感が背筋を撫でる。
「またポータルか」
「分かれさせる気ですわね」
掴み合うには距離が微妙に遠い。
二つの渦は互いの干渉を避けるように回転し、僕らの均衡をじわじわ崩してくる。
エイビスは一歩寄ろうとして、足元の石がわずかに沈み、体勢を保つために踏み直した。
その一歩が、決定的な距離になってしまう。
「シオン様」
「大丈夫。必ず合流できる」
「はい。私も追いつきます。セインさんを見つけましょう」
エイビスはそれだけ告げ、渦に身を預ける姿勢に切り替えた。僕も頷き、剣帯を握り直す。
互いの輪郭が光の縁にかかり、視界が白く染まりかけた時、低い男の声がどこかで笑った気がした。
下水道の主だろうか。それに答えず、僕は落ちる方向だけを選んだ。




