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木造の建物内は外観よりも中身が閉ざされていた。縦長の窓は板で塞がれ、廊下の端には錆びた鍵束の影が点々と残る。僕は足音を殺しながら奥へ進み、白銀の階段へ続く大扉の前に出た。吹き抜けの広間は薄暗く、階段の手すりだけがやけに新しい。
「シオン様!」
振り返ると、エイビスとシャルルローゼスが広間の反対側から駆けてくる。ふたりの手には、それぞれ色も形も違う古鍵。息は上がっていないのに、眼差しは忙しい。
「無事でよかった。鍵は……それか」
「はい。大扉の錠前は三重構造でしたので、手分けして集めておりましたの。もう一つは――」
「こちらにありますわ、御姉様」
シャルルローゼスが胸元のポーチから最後の鍵を取り出し、丁寧に見せる。僕は思わず苦笑した。
「正直に言うと、剣で壊してしまえば早いと思うけどね」
「まあ……シオン様。淑女は鍵を使いますわ。扉は叩き割るものではございません」
口ではそう言いながら、エイビスの頬にはまだ粘つく緑の痕が残っている。さっきまでの森の植物がつけたものだろう。僕は手を出し、軽く頬に触れた。
「取るよ。動かないで」
「あ……ありがとうございます、シオン様」
拭い取ると、ほっとした表情で僕を見上げる。そのまま距離を詰め、抱きつこうとして――
「御姉様、作戦中です。後にしてくださいませ」
シャルルローゼスがすっと一歩出て、両腕を広げるみたいにやわらかく制した。エイビスは「わかっておりますわ」と微笑み、鍵束を両手で持ち直す。
「では、開けますわね」
三つの鍵が、違う音色で錠前を回っていく。最後のひと回し――
奥で重い何かが外れる気配のあと、反対側から突風のような圧が押し寄せた。大扉が内側から弾け飛ぶ。現れたのは、過剰に肥大した猪――いや、木質化した皮膚と瘴気をまとう獣だ。一直線へ進むことに躊躇がない。
「下がって!」
僕は一歩踏み込み、刀身を立てて衝突を受ける。が、踊り場は狭すぎた。踏ん張りきれず足場がずれ、背後の空間に身体が持っていかれる。縁に左手がかかった。指に体重が集まり、肩が軋む。
「シオン様!」
エイビスの声が上から降る。僕は短く息を整え、片手のまま剣を振り上げた。
「大丈夫だ。待っててくれ」
足を振り子にして身体を起こし、刃に魔力を灯す。円を描く熱の斬撃が階段の縁から半月形に走り、突進の軸を狙って獣の顎を割った。
「――焦陽輪舞!」
斬光が獣の下顎を支える骨格を断ち、進行方向を上へ撥ね上げる。勢いを失った巨体は背面から転がり、広間の柱に叩きつけられて崩れた。手を引き上げ、踊り場に戻る。
その時、耳の奥に冷たい声が落ちた。
「一撃で屠られるなんて、かわいそう」
感情の温度を欠いた女の声。大扉の内側、アルミ階段の影から白衣にエプロンを重ねた女が歩み出る。銀色の髪を低く束ね、瞳は眠っているみたいに乾いていた。
「あなたがカリーナ・イクリシアですね」
名を口にすると、彼女は瞬きもせず小さく頷いた。
「その子は、耐久の指標にしていたの。割らないでほしかったわ」
「悪いが、道具扱いは趣味じゃない」
返した僕に、カリーナは無関心のような悲しみの言葉を含ませると、両袖からナイフを滑らせた。刃は薄く、毒に濡れている。
「御姉様、来ます」
シャルルローゼスの声と同時に、二本、三本、四本と銀の線道が走る。だが、ふたりは読んでいた。エイビスは踏み込みの角度を変えて斜めに身を送る。シャルルローゼスは杖を旋回させて光の糸を張り、刃の軌道をわずかに逸らす。床板に軽い傷が刻まれるだけで、どちらの衣の裾も裂けない。
「今です、御姉様」
「ええ――エアリエル・ライン!」
エイビスの袖口から風が伸び、カリーナの足元をすくう。同時にシャルルローゼスのルミナス・コードが十字に交差し、目くらましの閃光が爆ぜた。ふたりの合体の一拍が揃い、カリーナの立ち位置に重なって落ちる。
「僕が出る幕はあまりなさそうだね」
剣を構え直しながら、視界の中心を探す。が、光が引いたあと、床に女の影はない。
「――残念。ここにはいない」
どこからともなく声だけが降りる。広間の換気孔、壁面の通風口、階段の裏。複数の反響が位置を狂わせる。
「散漫にさせる気配の切り方……厄介ですわね」
エイビスが眉を寄せ、シャルルローゼスが僕の袖をそっと引く。警戒を深くするしかない、と判断した次の瞬間、空気の色が変わった。
青紫の霧が、床からも壁からも滲むように広がっていく。カリーナ自身の喉にも薄く絡みつき、咳のような吐息がどこかで混じる。
「自分も吸う気か。正気じゃない」
「私にとって毒は空気と同じ。吸うたびに体へ栄養が流れていくのよ」
「合理的ですわ、シオン様。ここは彼女の庭。このままでは私たちが不利です。手早く済ませましょう」
対策は入口側で取る――三人の合意が早かった。広間の風下へ戻ろうとした、その時だ。
「御姉様――!」
シャルルローゼスの悲鳴が霧の奥から響いた。反射で足が前に出る。エイビスが腕を伸ばして僕の手首をつかんだ。
「シオン様、だめです。霧の中は危険ですわ」
「平気だよ。セインと別れるとき、最新の治療薬をもらったから」
ポーチからアンプルを見せる。エイビスの視線が一瞬だけ揺れた。彼女の中の不信――そして僕の中の信頼。その交差点に、小さな沈黙が落ちる。
「・・・本当に、効くのでして?」
「試す価値はある。この先は僕が行く。二人を待たせるわけにはいかない」
エイビスは目を伏せ、息を整え、顔を上げた。かすかな笑みが戻る。
「わかりました。お借りしますわ」
僕から一本受け取り、彼女自身の喉元へ素早く注射する。青紫の霧の中で、彼女の魔力が軽く脈打った。
霧の中で何かが蠢いている姿が見えるだけで何が起こっているのかは確認ができない。
「エアリエル・コリドー」
エイビスの風が半円の盾となって広間に通路を穿つ。霧が押しのけられ、床板の木目が見える一本の道が入口から奥へ延びる。
「シオン様、どうか――シャルをお願いします」
「分かった」
僕はアンプルを自分の腕に打ち、肺に意識を落とす。冷たく澄んだ感覚が血に走り、喉の刺激が薄まる。剣を低く構え、風の通路へ踏み込んだ。
霧の向こうで、何かが床を引きずる音がする。粉末の木片と薬品の匂い。壁際に倒れた器具棚、軋むチェーン。少し先で、杖が床を叩く軽い音。シャルルローゼスだ。声は上げない。押し殺している。誰かに掴まれている可能性が高い。
「シャルルローゼス。僕だ。返事は要らない。三つ数えたら、右へ」
届くかどうかは賭けだ。だが、彼女の勘は悪くない。僕は心の中で三つ数え、二で走り、三で刃を送った。霧の幕を裂いた先、細い影が右へ身をずらす。僕の斬撃は、彼女の頭上を掠める角度で、絡み付いていた青い蔦を断った。
「助かりました、シオン様」
息を潜めたままの礼。それだけで十分だ。僕は彼女の背を押し、風の通路へ戻す。背後、微かな靴音。カリーナが位置を移した。
「エイビス!」
「こちらですわ!」
風の盾が延長され、戻り道が太くなる。僕とシャルルローゼスがそこへ滑り込む。合流の瞬間、エイビスが僕の肩越しに視線を投げた。
「シオン様、もう一本を持っていてくださいませ」
「ああ、わかった」
僕は頷き、鞘を軽く叩いた。刃はまだ濡れていない。動ける。エイビスはわずかに口角を上げる。
「では――こちらで霧を抑えます。シャル、協力してくださいまし」
「はい、御姉様」
二人が左右に展開し、風と光で霧を裂く。僕はその先頭に剣を立て、カリーナの気配が向かう側へ角度を取った。敵が理屈で動くなら、遮断と誘導は効く。敵が感情で動くなら、揺さぶりは効く。彼女はおそらく、その両方だ。
「カリーナ。まだ終わらせない」
霧の奥で、乾いた声が返る。
「終わらせないのは、私も同じ」
青紫の幕がまた厚みを増した。だが、僕たちには道がある。背にはふたりの気配。遠くには、風の気脈と、槍を立てた男の冗談まじりの笑い声が浮かぶように想像できた。心はばらけていない。
「行こう」
僕は一歩踏み出した。霧の中心、毒の核へ。風の通路が背を押し、光が焦点を示す。
剣が、重さの正体を忘れないように少しだけ鳴った。




