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霧の薄いところを選び、風の通路をたどって奥へ進む。床板はまだ乾ききっておらず、ところどころに粉末になった木片が溜まっている。通路の端で、倒れている人影が微かに動いた。
「シャルルローゼス」
僕は膝をつき空気の巡りと脈を確かめた。瞳が揺れ、すぐに焦点が戻る。
「大丈夫か」
「はい……問題ありません、シオンさん。少し眩んだだけです」
問いかけに静かに返す声。安堵するのと同時に、背筋に冷たいものが走った。気配が変わる。視界の縁で金属のきらめきがほぐれるように広がった。
「伏せろ!」
言葉が終わる前に、空間が装飾の施された銀線で満たされる。ナイフ一本や二本じゃない。数えるのをやめたくなるほどの密度で、青紫の霧を裂いて一直線にやって来る。僕はシャルルローゼスの肩を抱いて押し倒し、自分の背を盾に差し出した。鋼の冷たさが何度も布越しに触れ、浅く、深く、皮膚に刻む。まとわりつくのは鉄の匂いではない。遅れて、舌の奥に渋い痺れが上がってきた。
「……っ」
「シオンさん!」
指先の感覚が遠ざかる。肘から先の命令が遅れる。だが――妙だ。熱も痛みも、ほとんどない。あるのは麻酔のような無感覚だけ。身体が正しく悲鳴を上げていない。嫌な種類だ。
「シオン様!」
風の通路の後方からエイビスが走り込んでくる。手には、さきほど預けた治療薬のアンプル。僕は首を振ろうとする。やめろ、これは痛みを鈍らせて運動神経を潰すタイプだ。投薬の順番と量を間違えると逆効果になる。止めないと。
声が出ない。唇に力が入らない。魚みたいに口だけが開いて、空気が往復する音しか出ない。僕がもがくのを、エイビスは「痛みに耐えている」と勘違いしたかもしれない。彼女は迷わず僕のもとへ踏み込む。
その動きを狙っていたかのように、霧の奥で銃声に似た圧が弾けた。ナイフが発射される。刃は一本。けれど、柄の木地が黒く染まり、独特の粘りが纏わりついている。
「来ます、御姉様!」
シャルルローゼスが右手を浮かせ、風で軌道をわずかに捻る。ナイフは床の板目を削って外れた。安堵する暇はなかった。別角度から二本目が迫り、彼女の杖に当たる。軽い杖は呆気なく根元で折れ、破片が頬を掠める。白い肌に細い線が走り、赤がしみ込んだ。
「・・・っ、大丈夫です、御姉様」
痛みを飲み込み強がる声。だが、杖なしでは魔法の精度が落ちる。状況を一瞬で判断したのだろう。エイビスは僕の肩に手を置き、アンプルを半歩引いた。双剣の目つき。攻める側に切り替わった顔だ。
「シオン様、少しだけ待っていてくださいませ」
空気が震えるほどの踏み込み。速度にすべてを寄せた一撃――エイビスがあえて選ばない、直線的な突き。刹那、床板の下から木で組んだ巨大な腕が伸び上がり、彼女の腰と二の腕を絡め取る。幹の中に姿を隠していた、圧搾機のような木の大腕は三日月を浮かべたように見える。
「動かないで。痛むから」
青紫の霧の向こうからカリーナがゆったりとした足音で近寄ってくる。声音は棒読みめいているのに、やっていることはあまりに生々しい。
「お嬢様を傷つけるのは悲しいけど、そうした方が盛り上がるでしょ?」
「ああっ……」
彼女は袖口から取り出した小型のナイフを、エイビスの腹へ静かに押し当てた。毒の黒が刃先から薄く滲み、布の上に染みを作る。鋭い息とともに赤が広がる。
「まっ……まだ、です。私、まだ――動けますわ」
エイビスは歯を噛み、木の大腕を肘でこじ開けようとする。だが、力を入れるたびに腕がきしみ、締め付けが増す。毒の回りも早いのだろう。指先がかすかに震え、空気の巡りが浅くなる。抵抗の音が、薄れていく。
「御姉様!」
シャルルローゼスの叫びが割れる。カリーナは視線だけで彼女を指し示すと、床に鉄剣を一振り滑らせ、同時に正面へエイビスの剣を投げた。二本の剣が彼女の前で交差して止まる。
「選んで。戦ってみる? あなたの毒は、力を入れるほど回りが深くなるの。腕を使えば使うほど終わりに近づく。お姉様を守るために、あなたは何ができるのかしら」
淡々と告げながら、心の芯を正確に抉る言葉を重ねる。押し殺していた痛みと恐れの顔へ、冷たい針を打ち込むみたいに。
「そんなのあなたが聞く前から決まっています。御姉様の幸せを、私が守ります。この私が」
僕の咆哮は葉を帯びず、シャルルローゼスの隣を横切っていく。
シャルルローゼスは震える手で床に落ちたエイビスの剣に触れ、柄を握りしめる。やはり動きがたどたどしく何より心を配りたくなるほど遅い。腕の内側に紫のインクが広がる中それでも彼女は構えを取る。顎が上がり、瞳に炎が宿っていく。
カリーナはその姿を見て、かすかに首を傾げた。どこか興味深い実験材料を前にした研究者の目だ。
「律してる。偉い。でも、無理は楽にしてあげた方が親切よね」
彼女の掌が横に払われ、空気が薙がれる。圧が殺到し、風の塊がシャルルローゼスの胸元へ押し寄せた――風の魔法まで使えるのか。彼女の領域だ、何を仕込んでいてもおかしくない。
「シャルルローゼス、避けなさい!」
エイビスが珍しく声を荒げる。叫びというより、刃のような命令。だが、シャルルローゼスは首を振る。
「いいえ。私は御姉様を守るために、逃げるわけにはいきません!」
彼女は剣を胸の前で水平に構え、風の圧を刃で受け止める選択をした。腕にかかる負荷が、毒の回りを加速させるのを知っていて――それでも。
「お願い、やめて!」
彼女の泉へ斧を投げるような一言が僕の中で耳元を支配するかのように強く響く。
「やめなさい!」
声には出た。けれど、身体はまだ満足に動かない。僕は歯を食いしばり、痺れる四肢に命令を叩き込む。手足は鈍いが、思考はまだ生きている。カリーナの異様な毒は痛覚を殺し、運動神経を遅らせる。逆に言えば、神経の道を別に立てれば、わずかでも通るはずだ。剣を握り直し、地面を押す。
木の大腕がエイビスを締め付け、彼女の吐息が短く乱れていく。シャルルローゼスの刃が風の圧に押され、腕が小刻みに震えを見せる。カリーナは、感情の起伏のない声で状況を観察しながら、口元だけで檻に閉じ込めた子犬を見るような目で笑っていた。
「ほら。もう少しで、守ることから解放される」
「解放なんて、私は望んでいません」
シャルルローゼスの瞳が強く光っていく。足は震えていても、後退はしない。彼女は剣を押し返し、踏み込みの角度をわずかにずらして風の圧を流した。技量でどうにかするには、あまりに条件が悪い。それでも、やる。彼女の後ろ姿は姉を思わせるほど覚悟を飾ったような信念だった。
「エイビス、今、行くぞ」
僕は体を無理やり前へ運ぶ。舌先に渋い痺れが残る。肺が少し重い。けれど、刃はもう僕の一部だ。腕が動かないなら、肩で。肩が鈍いなら、背で。動く場所を拾い集めて、線にする。地面の木目を読み、足裏で板の反発を拾い、裂け目からさらに薄い裂け目へ。
カリーナの視線がこちらをかすめた。彼女は僕に興味がないわけではない。ただ優先順位が違う。いま彼女が見たいのは、姉妹がお互いの情けなさや実力のなさに苦しみ、壊れていくことだ。ならば、順番をひっくり返す。
「カリーナァ!」
僕は呼ぶ。彼女がわずかに顔を向けた瞬間、剣の鍔で床の鉄片を弾く。金属片が霧の中で小さく光り、カリーナの左目の端で反射した。反射的に瞼が下がる。タッチの差で、僕はシャルルローゼスの肩と風の流れの間に身体をねじ込む。剣の腹で風の圧をずらし、その反動で彼女の腕への負荷を抜く。
「シオンさん!」
「下がれ。ここは僕が受ける」
「でも――」
「エイビスを助けられるのはどちらかだ。それを託したい」
「かしこまりました」
毒は体に残っている。完璧には動かない。けれど、動かす。エイビスは木の腕に縛られたまま、唇を噛んで首を振る。血が顎へ落ちる。その色が、視界の中心を定めてくれた。
「お嬢様を、返してもらう」
カリーナは一歩も引かず、静かに息を吐く。
「なら、証明して」
彼女の合図で、天井梁の影から新しい蔦が垂れ落ちていく。青紫の霧が厚みを増し、視界が再び揺れる。シャルルローゼスは折れた杖の残片を握り、僕の背中に体重を預ける準備をした。エイビスは目でだけ「行かないで」と言い、次の瞬間、小さく頷いた。「任せる」の合図だ。
僕は剣先を落とし、膝を緩め床板の反発をもう一度拾う。痛みはない。だからこそ、力のかけすぎで壊れる危険がある。丁寧に荒く、両方で行く。青紫の幕を切り裂くたびに、背後のふたりの気配が、きちんとついてくるのを確かめながら。
ここで終わらせない。ここから取り返す。




