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「ミカロ、回復を……!」
僕は我に返り、ミカロの方を振り向く。
ミカロは倒れ込んだまま、痺れる腕を無理に持ち上げようとしていた。
歯を食いしばりながらも、ミカロの指先は震えて、シャルルローゼスに届かない。
「・・・御姉様。泣かないで……ください」
シャルルローゼスが、自分の方からエイビスの手を握り返す。
その動き一つ一つが、見ていられないほど遅く、弱々しかった。
「私は……幸せ者です」
淡い光が、シャルルローゼスの指先からあふれ出す。
呼び出されたフロラメリアの花弁が、僕たちの傷口に降りてきて、痛みを和らげていく。
「シャル、やめなさいっ! 自分を治して! お願いです、もう――」
エイビスの声が、すすり泣きに変わる。
それでもシャルルローゼスは首を振り、微笑みを崩さない。
「御姉様と、シオンさんと、ミカロさんと……エルジードさん……皆さんが、少しでも先へ進めるなら、それで、十分です」
光が強くなり、同時に彼女の顔色が、雪のように白くなっていく。
僕は、一歩近づくことしかできなかった。
最後の言葉とともに、シャルルローゼスの腕から力が抜けた。
握っていたエイビスの手が滑り落ち、開いたままの指が冷たい床に触れる。
「シャル……シャル、起きなさいっ!
……お願い、返事を、返事を返してぇえええ……」
エイビスが何度も名前を呼ぶ。
それでも、閉じられた瞳が開くことはない。
その上から、甲高いのにどこか楽しげな笑い声が降ってきた。
「アハハハハッ! 実に滑稽ね。醜いあなたにはお似合いよ」
見上げると、砕けたバルコニーの上でベルメディアがこちらを見下ろしていた。
子どもが転んだのを見て笑う大人のような、悪意と退屈が混じった顔だった。
「仲間同士で傷つけ合って、無垢な娘がひとり死んだ。ねえ、エイビス。これほど無意味な搾取も珍しいわ。あなたたち、本当に哀れね」
言葉が、刃物より冷たく肌を刺す。
僕の視界の端で、エルジードが立ち上がるのが見えた。
彼女の手足には血管が浮き出ており、自分の炎で焼けただれたように赤黒く染まっている。
それでも目には、燃えあがる怒りしかなかった。
「・・・妹姫様を殺しておいて、その口の利き方かよ。いいぜ、ベルメディア。今ここで、アンタの因果ごと燃やし尽くす」
エルジードが炎を纏い、ベルメディアに向かって突進する。
だが、ベルメディアを包む薄い膜のような障壁に触れた瞬間、その炎ごと動きが止まる。
「薪火はもう飽きたの。記録として価値はないわ」
ベルメディアが横に視線を流す。
次の瞬間、エルジードの足元から岩の柱が立ち上がり、彼女の身体を包み込む。
「エルジード!」
僕が叫んだときには、岩は幾つもの剣の破片に貫かれていた。
表面に赤い筋が広がり、そのまま床へと落ちていく。
「黒龍。まだ働きぶりが足りないわ。あの豚姫も含めて、纏めて焼き払ってあげなさい」
ベルメディアが軽く指を弾く。
黒龍が翼を広げようとするが、その動きは途中でぎこちなく止まり、翼が縮むようにして震えた。
「・・・私に恥をかかせないで。ブレスくらい、すぐに撃ちなさい」
黒龍が再び大量の黒霧を吸い込み始める。
そのとき、耳に、金属が鞘に触れる控えめな音が届いた。
嫌な予感がして、僕は横を振り向く。
そこには、瞳の周りを黒い影が縁取り、紫色の血を舌でなぞるエイビスが立っていた。
「エイ、ビス……?」
ミカロが息を呑む。
エイビスの瞳は、どこか遠くを見ているようで、しかし標的だけははっきりと捉えている。
次の瞬間、黒龍の喉元から放たれかけたブレスが、形を成す前に細切れにされていた。
喉、首、腕、腹、脚――数え切れない斬撃の線が、龍の身体を彫刻のように刻み、残骸だけを床に落とす。
僕の目が追いついたのは、黒龍が完全に動かなくなったあとだった。
「あなたの血は、どんな味がするのかしら」
エイビスが小さく呟く。
その姿は、さっきまで泣き崩れていた姫ではなく、何か別のものに引っ張られているように見えた。
彼女は、僕には認識できない速度で空間を飛び、ベルメディアの目の前に現れる。
六連の各方面の斬撃が、舞踏のような軌跡で障壁に叩きつけられた。
だが、障壁は砕けない。
ベルメディアは初めて一歩後ろに下がったものの、その表情には興奮よりも退屈さが残っていた。
「面白いわね。でも、あなたの刃は私には届かないのよ」
ベルメディアが指を払うように動かす。エイビスの身体が弾かれ、僕たちの足元まで滑り落ちてきた。
「白龍。三人の相手を任せるわ。私は奥で、準備を進めるわ」
呼び出した白銀の鱗を幾層にも輝かせ、吐息だけで周囲の温度を奪い取るほどの冷気を放ちながら、咆哮ひとつで空間と大気を震わせる威容を誇る巨躯の白龍が、エイビスの前に降り立つと、ベルメディア自身は、奥の部屋へとふわりと姿を消した。
「エイビス、大丈夫か」
僕は駆け寄りながら声をかける。
エイビスはうつむいたまま、瓦礫を片手で払いのけて立ち上がった。
「シオン様。ベルメディアは、私が必ず……と言いたいところですが、今は白龍の方が優先のようです。どうか、ミカロと一緒に先へお進みください」
かすれた声だったが、言葉の芯はいつものエイビスだった。
「でも、今の君の状態じゃ――」
「シオン、今はエイビスに任せようよ」
ミカロが僕の言葉を遮る。彼女は額の汗を拭いながら、真剣な目で僕を見る。
「ベルメディアを止められるの、今ここではワタシたちしかいない。今は抑えられてるみたいだけど、エイビスまで暴走したら、それこそ手が付けられないよ」
確かに、エイビスの瞳にはまだ紫の光が残っている。
それでも彼女は、見えない何かに抵抗するように肩を震わせながら立っていた。
「・・・エイビス」
僕が呼ぶと、エイビスはゆっくり顔を上げる。
瞳の黒い縁取りの奥で、いつもの理性的な光がまだ消えていないのを見て、少しだけ安心する。
「シオン様。白龍くらい、私ひとりで十分です。ベルメディアは……どうか、シオン様の剣で」
エイビスが、瓦礫を払う最後の一撃で、近づいてきた暴走戦士を粉々にする。
その破片が床に散る間に、彼女は短くだけ続けた。
「後で……必ず助けに来てください。私だって、一人の淑女なんです」
「必ず行く」
僕は頷き、肩越しに笑みを作る。
エイビスも、ごくわずかに口角を上げた。
「もちろんです。シオン様は、約束を破らない方ですから」
背後で白龍の咆哮と斬撃の音が重なり始める。
「急いで」
エイビスの短く呟いた声に押されるように、僕とミカロは奥の通路へと走り出した。
暴走戦士が開いた通路を塞ごうとする中、その身体もすぐに横から叩き斬られ、粉のようになって崩れた。
剣戟と咆哮と、砕ける音が混じり合う音も、階段を下りるごとに薄れていった。
残されたのは、右手に伝わるシャルルローゼスの最後の温度と、必ず戻ると告げた約束の重みだけだった。
僕は握った剣に、もう一度だけ力を込める。
「ミカロ、ベルメディアを、彼女を止める」
「うん。今度こそ、ワタシたちの手で」
やがて僕らの足音だけが、奥の闇へと続いていく。




