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彼女は自分の指先に歯を立てた。赤黒い血が、細い線となって空中へ飛ぶ。
その血は、雨のように住人たちへ降り注いだ。
「やめろ!」
僕は踏み出した。しかし、間に合わない。血が皮膚に触れた瞬間、彼らの悲鳴がホールを満たした。
皮膚が赤く染まり、血管が表面へ浮かび上がる。白目が赤紫色に染まり、指先が獣の爪のように変形していく。
「やめて……」
ミカロの声が震えた。彼女の体内が、過去の冷たさを思い出したかのように強張っている。
やがて、住人たちの声は止んだ。代わりに、言葉を失った呼吸だけが聞こえる。
赤く濁った瞳が、僕たちを見下ろした。
「暴走戦士のかぁーんせーい」
ベルメディアが、淡々と名前を告げる。
「あなたたちが望んだ力よ。世界を壊すのに、大いに役立つわ」
そう言い残し、彼女は奥の部屋へとふわりと飛んでいった。
残されたのは、黒龍と、変質した住人たちと、こちらを見据える赤い瞳の群れ。剣を握る手に、汗が滲む。
「行こう、ミカロ」
僕は小さく息を吸った。セインの願いも、ボルディミアスの覚悟も、ここで止めたくはない。
たとえ相手が世界を弄ぶ女神でも。僕は、自分の足で前へ進むしかないのだと思った。
ベルメディアの背が、奥の扉の向こうに消えていく。
僕とミカロは同時に駆け出そうとして、そこで足を止めた。黒い影が、視界を塞いだからだ。
砕けた柱と天井の隙間から、漆黒の龍が身をねじ込むようにして降りてくる。鱗の隙間から漏れる魔力の揺らぎは、見ているだけで胃が冷たくなる。
「隙間を潜り抜けたいけれど、顔を見た限り厳しそうだ」
僕は剣を握り直し、龍の喉元に剣先を向ける。ミカロは一歩前に出て、僕の斜め前に風の層を展開した。
黒龍が深く息を吸い込み、喉奥に濃い闇が集まっていく。
吐き出されたのは炎でも光でもなく、世界の色を削ぎ落とすような黒霧だった。
「引き受けます!」
いつも通り、反射で剣を前に出し、黒霧に意識を合わせる。
だが、柄から先に何の手応えも伝わってこない。魔力が流れ込んでくる感覚が、一切ない。
ただ、視界だけがじわじわと暗くなっていく。
音も遠のき、足元の感覚が薄くなり、僕自身の輪郭まで曖昧になっていくようだった。
「シオン、下がって。風で外側だけ削るよ」
ミカロが短く言い、周囲に風膜を張る。肌を撫でる風が、かろうじて僕とこの場所の境界線を教えてくれる。
黒霧の向こうから、わずかな人の気配がいくつも滲み出してくる。
さっきベルメディアが力が欲しいのでしょうう?と笑いながら、住人たちに血をばらまいた顔が脳裏に浮かんだ。
「ミカロ。あれは、もう人間だった人たちだ」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。胸の内側では、胃と喉のあいだがきしむように痛んでいるのに。
「・・・分かってる。ワタシも覚悟はできてる」
風膜越しに見える影たちは、もう人の形を保ってさえいない。ただ戦うための器として動いている。
「生きていた人間だったって、罪悪感を感じていたら、キリがない。でも、それを踏み台にして笑ってる奴だけは、絶対に許せない」
僕はそう口にして、自分に言い聞かせるように息を吸う。ミカロが小さく頷いたことだけは、暗闇の中でも分かった。
黒霧の濃度が少し薄まり、赤黒い魔力をまとった暴走戦士たちが姿を見せる。
拳が肥大化したもの、身体の一部と剣が同化したもの――そのうち二体が、まっすぐこちらに向かってきた。
「来るよ」
僕は剣を一度構え直し、最初に飛んできた血色の砲弾を剣で受け止める。今度ははっきりと、炎に近い魔力が刃を伝って流れ込んできた。
「今度は、いける」
反射的にそれを反転させるように剣を振るう。
血の砲弾を飲み込んだ炎が、暴走戦士へ向かって奔る――が、その瞬間、敵は視界から掻き消えるように姿を変えた。
高速移動で接近してきた蹴りが、剣と火線の軌道の外から僕の胴を打つ。肋骨に響く重さと痛みが遅れて上がってきて、肺の中の空気が乱れる。
「シオン!」
ミカロの声が聞こえた方を振り向くと、別の個体が剣を構えて彼女に迫っていた。
ミカロは攻撃に使っていた風を防御に切り替え、紙一重で斬撃を逸らしたものの、その代償のように耳元に赤い線が走る。髪の間から、細い血が伝っていた。
「水で止めるよ!」
ミカロが詠唱に入ろうとした瞬間、足元の黒霧が揺れて彼女の魔法の軌道を乱す。
放たれた水の縄は、暴走戦士の身体を掠めることすらできず、床に湿った跡を描いただけだった。
まずい。このままじゃ、持久戦にもならない。僕は一度呼吸を整え、周囲の魔力の流れを探る。
黒霧の奥、少し離れた場所にいるもう一体が、砲弾と違う質の魔力を練っているのが分かった。
「ミカロ、一度位置を合わせよう。あいつらをまとめて落とす」
「分かった。シオンに任せるよ」
返ってきた声は、どこか震えていた。それでも前を向こうとしているのが、伝わってくる。
僕は足を踏み込み、火属性を限界まで高めて剣へ集中させる。
炎が刃を包み、熱が腕を逆流してくるようだった。
「――行くぞ!」
振り抜いた軌跡が大きな炎の弧となって、二体の暴走戦士を巻き込みながら上空へ押し上げる。
黒霧が一瞬だけ晴れ、天井近くに赤い影が二つ浮かび上がった。
「ミカロ、水だ!」
僕はそう叫び、視線だけで位置を示す。けれど、隣から返事は来ない。
視線を落とすと、ミカロはその場にしゃがみ込み、肩で息をしていた。
顔色が悪く、右腕が痺れているのか、指先が震えている。
「・・・ごめん。なんか、動か……ない。あの血の匂いのせいかも……」
ミカロがかすれた声で言う。
その横合いから、さっき上空に跳ね上がったはずの暴走戦士が、いつの間にか僕らの足元にまで降りてきていた。
剣を持った暴走戦士が、五色の魔力を纏わせた刃をミカロに向ける。
そのすぐ隣には、もう一体――部下のように控えていた個体が、ミカロの横を狙う角度で踏み込んでいた。
攻撃を叩き込んだら間に合わない。僕は足に力を込めて駆け出す。
地面の感触が遠くなり、腕が重く、指先が焦りで痺れる。剣を伸ばしても届かない。
だから、最後は自分の拳を突き出した。空気を殴るような虚しさだけが、掌に残る。
「やめろ!」
喉が裂けるほどの声が出た自覚があった。
その瞬間――凍りついた時間を引き裂くような、女性の絶叫が耳を打つ。
頭上から温かい液体が降ってきて、髪と額を濡らす。血の温度が、いやに生々しかった。
僕の視界の中で、まず崩れたのはミカロを狙っていた方の暴走戦士だ。
その身体が形を保てなくなり、血と黒霧に分解されていく。その奥から、白と藍色の布地が覗いた。
「・・・エイビス?」
制服ともドレスともつかない、見慣れたライン。僕は血の気が引くのを感じながら、その影に向かって駆けた。
同時に、剣を振りかぶっていたもう一体の暴走戦士も、形を失っていく。
赤黒い膜がはがれ落ちた先にいたのは、蒼白な顔で、胸元から腹にかけて深く斬り裂かれた氷のように透き通った肌の彼女だった。
「シャル、シャル! 嫌っ、嫌嫌嫌!、そんなの……!」
エイビスが、自分の剣を取り落とし、シャルルローゼスに駆け寄る。
いつもの品のある声は跡形もなく、崩れた子供のような声になっていた。
「御姉様が……気にする必要はありません……私は……」
シャルルローゼスが、かすかに微笑む。唇に乗った血が、言葉の端で揺れた。
エイビスは、シャルルローゼスの手を掴み、震える指で必死に握りなおす。
その目には、涙なのか血なのか分からない赤が滲んでいた。




