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「・・・空間の異変も消えましたね」
剣を下ろし、深く息を吐く。アレクシオが動かないのを確認すると、ようやく肩の力が抜けた。
「ふう……ホントのことを言えば、次に備えて、火を温存しておきたかったんだけどな」
エルジードが苦笑を浮かべる。けれど、炎の使い過ぎで足取りがふらついていた。頬も少し赤い。
「大丈夫か」
僕は彼女の肩を支える。
「触るな。そうやって支えられると、誤解される」
エルジードは真顔で僕の腕を払いのける。
「勘弁してくれ。お前に治療されたら、姉姫様にどやされる」
「そこまでは考えにくいよ」
「いや、銀髪を彼女に持ち、金髪や姉姫様にも好かれている女たらしと知ったら、誰だってそうするだろ」
納得したくはないが、確かに説得力はある。とはいえ、この状態で無理をさせるわけにもいかない。
僕は安全に落ちられる高さまで待ってから、そっと彼女から離れた。
「姉姫様と妹姫様の方が、心配だ。戻るぞ」
エルジードは、遠くの天井を見上げる。お互い干渉できるのかもしれないが、僕の胸中でも不安は消えていない。
その時、ホールの外壁の一部が、風にえぐられるように崩れた。
「シオーン!」
雷を巻き込んだ風のような声と共に、強い風圧が吹き込んでくる。
破壊された壁の向こうから、杖を構えたミカロが飛び込んできた。髪も服も、さっきの戦いの傷と埃で乱れている。
「ミカロ!」
対して僕は、彼女の姿を確かめた瞬間、安心と別種の危機感を同時に覚えた。今の彼女の顔は、完全に本気の続きの顔だ。
「細かい説明は後!」
僕はエルジードの肩に手を置きつつ、ミカロへ向き直る。
「その場で伏せて!」
ミカロが怪訝そうに眉を上げ、それでも即座に地面へ身を沈める。
同時に、外からさらに強い風と、別の気配が、ホールへなだれ込んできた。
息を吐く間もなく、頭上を焼けた空気が流れていく。
顔を上げると、礼拝堂のように並んでいた長椅子は無残に裂かれ、壁もパイプオルガンも黒い炎にえぐり取られていた。高い天井に穿たれた穴からは、焦げた木片と石片がゆっくりと落ちてくる。
黒い鱗で全身を覆い、赤い線が血管のように走る巨体。胸郭が大きく膨らみ、口の奥には再び光を集める気配がある。黒龍は、ちょうど僕たちが立つ中央通路を狙っていた。
「シオン、動かないで」
ミカロが僕の肩を押さえた。伏せたまま剣の柄だけを握り直す。飛び出したい衝動を、喉の奥で無理やり押しとどめた。ここで迂闊に動けば、ブレスの軌道が分散して、全員まとめて飲み込まれる。
黒龍が首を振り上げようとした、そのとき。
崩れたパイプオルガンの奥、階段の影から人影がよろめき出てきた。年老いた男。金と紫のロクサリエン王家の紋章を身にまとい、震える手で手すりを掴んでいる。シェトランテからもらった資料と同じ顔だ。
「・・・ロクサリエン王」
僕は立ち上がり、黒龍と王の中間に移動して剣を向けた。喉の奥が熱くなる。今は礼儀より、聞かなければならないことがある。
「この船を止めろ。今すぐに」
王は息を荒くしながら、ゆっくりと僕を見た。その瞳には恐怖よりも、奇妙な高揚が浮かんでいた。
「止める……? 何を言う。これは栄光だ。インフィニタ計画は、我が国の兵を無限に強化する術だ。世界は、ようやくロクサリエンの力を思い知ることになる」
静かに言っているのに、声がやけに大きく響く。背後では黒龍が息を止めたように動きを止めている。王の意思で制御されているようにも見える。
「望みであれば、我を殺すがいい」
王はあっさりと言い切った。
「だが、誰が殺そうとこの船は止まらん。もはや世界の流れは動き出した。貴様らのような小さな抵抗など、何の意味もない」
ミカロが僕の横まで走り寄ってくる。肩越しに王を睨みつけているのが分かった。
「シオン、こいつ――」
「待って、ミカロ」
僕は剣を下げた。殺すかどうかは後でもいい。今、僕が知りたいのは別のことだ。胸の中で、別の名前が浮かんで消えない。
「女神はどこにいる」
王の顔から、初めてわずかに色が引いた。
「・・・教える必要もない。あれは、ロクサリエンで唯一の武器だ。貴様らに渡すこともない」
王はそれだけ言うと、宝石の埋め込まれた剣を抜いた。刃から白い光が立ち上り、空気が張り詰める。
「そして――」
王の視線がこちらを射抜く。
「ここで消えろ」
白光の斬撃がこちらへ奔る。僕たちは横に飛び、エルジードは箒ごと上へ跳ねた。長椅子が線で切り裂かれ、後方で木片が散る。
間を置かず、二撃目、三撃目が続く。防御に回れば押し切られる。僕は歯を食いしばり、王の腕が振り下ろされる軌道を追い続けた。
どこかで必ず隙が生まれる。
「・・・来い」
心の中で毒づいた瞬間、王の動きが変わった。
剣を頭上に掲げたまま、そこから先に進まない。筋肉の緊張はそのままなのに、関節だけが空間に縫い止められたようだ。
「離れて!」
ミカロが叫んだ。声に混じる焦りが、ただ事ではないと告げている。
「シオンも、エルジードも、王から離れて!」
僕は王から距離を取るように横へ滑り、エルジードも上空から軌道を変えた。
次の瞬間、王の足元の床が、内側から砕けた。
重いものが落ちる鈍い音。上がった砂煙の中から、低い男の叫び声が響いた。
王の身体が横へはじき飛ばされる。床を転がり、宝剣が手から離れた。
砂煙の向こうに、人影が立っていた。
黒いドレス。龍の眼を横に並べたように豊かな胸。その下にあり得ないほど細い腰と脚。紫の髪をまとめ、赤い瞳でこちらを静かに見下ろしている。
僕の手が、無意識に剣を握り直すと背中に冷たい汗が流れる。
「ミカロ、下がって」
僕はミカロの肩を掴んで、一歩だけ後ろへ下げた。あの視線を、彼女に直接浴びせたくなかった。
「あなたは、誰なの?」
ミカロが問う。声が少しだけ掠れている。
黒いドレスの女は、わずかに首を傾げてみせた。
「名を問うのね。滑稽だわ」
落ち着き払った声。けれど、耳の奥に直接触れてくるような響きがある。魂の輪郭をなぞられているような感覚だ。
「ベルメディア・アインズレッド。そう呼ばれていたわ」
彼女がそう名乗ったとき、背後で空気が変わった。
「女神、今戻りました」
低い声とともに、巨大な影が彼女の前へ膝をついた。
ボルディミアスだ。今まで無骨で大きな姿しか見せなかった龍が、まるで臣下のように頭を垂れている。
「遅れて、申し訳ありませんでした。本来であれば、すぐにあなたを救いに行くべきでした」
「いいえ」
ベルメディアは、わずかに目を細めた。
「あなたは、他の愚かな龍たちとは違った。自分の力を理解している。それだけで、十分よ」
赤い瞳が、今度は僕たちのほうへ向く。エイビスたちが後方の扉から駆け込んでくるのが視界の端に見えた。
「シオン様」
エイビスが息を切らしながら僕の横まで来る。その姿を見るだけで、胸の奥の緊張が少しほぐれた。ここまで来られた。それだけで、まだ戦えると思えた。
「この方は……」
エイビスが小さく呟く。尊敬と警戒が入り混じった声。
ベルメディアはエイビスを見て、わずかに口角を上げた。
「探す手間が省けたわね」
ボルディミアスの視線がエイビスへ向かう。
「剣士、女神の元へ」
「ボルディミアスさん……?」
エイビスの足が一歩だけすくんだ。ベルメディアとボルディミアス。
その間にあるものが何か、本能が警告しているのだと思う。




