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「ミカロ!」
僕は迷わず彼女の元へ駆け寄った。服はあちこち破れ、腕や足には無数の傷が刻まれている。
それでも、彼女は僕が近付いてきたのを見ると、少しだけ表情を緩めた。
「ちゃんと反対側、守ったから」
「ああ、そうだね」
「・・・服、見ないでね」
ミカロは一瞬視線をそらし、それから僕の傷に手をかざした。回復魔法の光が、切り傷や打撲の痛みを少しずつ和らげていく。振り返ると、魔法のように彼女は隙の増えすぎた服を整えていた。
「まずは、エイビス達と合流しよう」
僕が言うと、ミカロは小さく頷いた。
「そうだね、早く行こ。あっちで何が起きてるか分かんないし」
そう言った直後、足元で嫌な感覚が走った。
床が、静かに沈んでいく。
アクアマリン色のラインの隙間から、空の青が覗いた。足を踏み出しても空は残酷に僕を欺いた。
次の瞬間、床に大きな穴が開き、下には何もない空間が広がった。
「シオン!」
ミカロが僕の背中を押し出した。風の魔力が体を持ち上げる。僕の体は、穴の外側へと弾き出された。
振り返ると、ミカロが口だけで大丈夫と形を作った。声は聞こえない。それでも、その意志だけははっきりと伝わってくる。
彼女は真っすぐに、空の底へ落ちていった。
オルウェラは、床の端に倒れたまま、その光景を満足そうな表情で見届けると、ゆっくりと目を閉じた。
攻撃を加えることは、できなくはなかった。だが今はそれよりも、一刻も早く合流する方が重要だ。
僕は青いペンダントに視線を落とした。ペンダントは、左右に揺れながら、かすかに光っている。
「どっちかといえば、右の気分だな」
左右に分かれている理由が何となく分かっていたが、苦笑しながら僕は右を選んだ。
ミカロの大丈夫という言葉と、皆が生きているという前提だけを信じて、足を前へ出すことにした。
◇◇◇
閉ざされていた木製の扉を開いて入ると、左右一面に、天井まで届く棚が並んでいた。
百どころか、数えようとする気すら起きない量のファイルラックが、灰色の壁のように続いている。
その隙間で、金属がぶつかり合う音がした。
「シオンさん、こちらです!」
シャルルローゼスの声が聞こえたので、僕は棚の角を曲がって駆け込んだ。
ボルディミアスが人型で兵士と打ち合い、その横でシャルルローゼスが紫色の魔法陣を展開している。相手は全身鎧をまとった兵士が五体。顔も隙間も見えない、無機質な鉄の塊のようだ。
「加勢する。シャルルローゼスは後ろ下がって」
僕は剣を構え、水属性を剣にまとわせようとした。
「シオンさん、止まってください!」
シャルルローゼスの制止が飛ぶ。けれど、僕は勢いをつけて踏み込んでしまった後だった。
僕はそのまま兵士の胴を横一文字に薙いだ。金属を叩いた鈍い音だけが鳴り、手に嫌な振動だけが残った。
水属性の斬撃が入っているはずなのに、刃先にまとわせた水は、なぜか兵士の横を泳ぐように流れていき、何もない空中で渦を巻いている。
「・・・どういうことだ」
思わず周囲を見渡す。
シャルルローゼスの杖からも、火や光の魔法が放たれているはずなのに、それらは敵へ向かわず、頭上をふわふわと漂っていた。火の球が棚と棚の間を気ままに飛び、水の弾がまるで魚の群れみたいに空を泳いでいる。
「やはり誰であっても、同じ状況のようですわね」
シャルルローゼスが眉を寄せた。
「私も先ほど、属性魔法を放とうとしました。けれど杖から離れた途端、意志を持ったように言うことを聞いてくれませんでしたの」
「厄介だな。敵の能力じゃないといいけど」
魔法に頼れないのなら、やるべきことは単純だ。
「我を手伝え、人間」
ボルディミアスが短く言った。彼は既に魔法を諦めたのか、拳と脚だけで鎧兵を殴り飛ばしている。
重力魔法の残滓が、うまく纏まらずに彼の周りを漂っていた。
「分かった」
僕は属性を使うのをやめ、純粋に剣だけで兵士へ斬りかかった。
隙間のない鎧は面倒だが、動きは鈍い。関節の角度を読み、膝裏や首元の隙間へ斬撃を差し込んでいく。
ボルディミアスの拳が一体の鎧を吹き飛ばし、その勢いに合わせて僕が追撃を差し込む。
五体の兵士は、やがて全員が床に倒れ伏した。中身が入っていたのかどうかも分からない。抜き身の鎧が、ただ転がっているだけだ。
そこで、間の抜けたような拍手が聞こえた。やがて、その拍手に音の厚みが増していく。静かに始まり、必要な分だけ空間を満たしてくる声と同じリズムだった。
「悪くないわね。良い肉弾戦だったわ」
女性の声がファイル棚の向こうから届いた。白いトップスに白のマント。黒いボトムの軍服。腰には双剣が揺れている。
彼女は一礼すると、まっすぐこちらを見た。
「ロクサリエン正規軍、ハイコマンド特務部隊。セリア・アーベントといいます」
澄んだ声が、徐々に音量と鋭さを増しながら名乗りを告げた。
「あなたたちを殺す者の名だから、一応自己紹介するわ」
「物騒な挨拶だ。我の関わる人間はいつもこのような者ばかりだ」
僕が構え直した瞬間、彼女はもう動いていた。剣が半拍ずらしたような二連の斬撃で迫る。
僕は剣の柄を握ろうとした。が、指先から抜けるように、相棒が自分の手を離れた。
「嘘だろ!」
剣は僕の意思を拒絶したように、空中でふらりと方向を変え、少し離れた場所でひとりでに漂い始める。
「ほら、私の予想通りになっただろう?」
セリアが低く制するように呟いた。彼女の双剣が僕の胸元へ迫る。
「そこまでだ」
ボルディミアスが割り込んだ。彼は拳で双剣を横から叩き、軌道を僅かに逸らす。次の瞬間、彼の腕が肘から先ごと切り落とされた。
「我の腕を落としたか。興味深い」
ボルディミアスは淡々と自分の腕を見下ろした。力を込めると、切断面から新しい腕が伸びるように再生していく。
セリアは一瞬だけ目を細めると、双剣の刃にオレンジ色の気配をまとわせた。
刃が細かく震え、その振動が棚のファイルまでも微かに揺らしている。
「ま、こんなこともあるわよね」
僕は駆け出した。ふわふわと漂っていた自分の剣へ手を伸ばす。
今度はすんなりと柄を掴めた。試しに一振りしてみる。
特に違和感はない。握りも重さも、いつもの相棒そのものだ。何かきっかけがあるに違いない。試してみるか。
僕はセリアへ斬りかかった。セリアの双剣が僕の一撃を受ける。
金属のぶつかる音にしては、妙に軽い音がした。まるでスプーンでプリンを弾いたみたいな、柔らかいのに耳に残る音だ。
衝撃は、手から抜けるように消えた。
代わりに、耳の中でその音だけが何度も反響する。世界の音が遠のき、足音も呼吸も、ぼやけていく。
「確かにあなたの剣は悪くはない。ただ、リズムとしてはまだ荒いわね」
セリアの口元がわずかに上がった。気付くと、彼女はほとんど音もなく目の前に来ていた。
僕は反射的に正面に剣を構えていたが、位置を微調整する余裕がない。
斬撃は剣に当たりながら、角度のせいで右手に大きな衝撃を集中的に叩き込んだ。
骨がきしむ感覚に顔をしかめる。セリアは、歯に何か挟まったような、少し不機嫌そうな顔をした。




