蓮【ヒューマンドラマ】
「あれ、珍しい。今日は午後も庭に出ているんだ」
「なんだか今日は気分がいいの。日差しも気持ちいいし」
そう言って彼女は、本当に気持ちよさそうに目を閉じた。
柔らかな風が彼女の黒髪を揺らして、真っ白なワンピースの裾をはためかせる。
いつもは青白い頬も、今日はピンク色だ。
僕はその眩しさに、思わず息を呑んだ。
病に冒された彼女は、一日のほとんどをベッドの中で過ごす。
まだ日差しが柔らかい午前中のほんの少しの間だけ、庭に出るだけだ。
けれど今日は、どういう訳か長い時間を庭で過ごしているようだ。
「ねえ、前に話していたあの池に行ってみたいの。連れて行って」
「少し歩くよ。大丈夫?」
僕なら五分もあれば着く距離だ。
けれど、彼女はどうだろう。
体への負担が気になりすぐに頷くことができずにいると、彼女の視線とぶつかった。
「大丈夫。疲れたらすぐに休むから。お願い」
その真剣な眼差しを、僕はついに振り切ることはできなかった。
いざとなれば、僕が彼女をおぶえばいい。
そう決意して、いつもよりもずっと時間をかけて池に向かう。
池を一目見た瞬間、彼女は小さく感嘆の声を上げて、そのままそっと池の中に足を踏み入れた。
「冷たい。とても気持ちいいわ」
ふわり。
彼女が笑った。
まるで、池の中に咲いた蓮の花のようで。
その笑顔はいっそ神々しく、触れてはならないとさえ思えるほどだった。
——いつまでも、彼女の笑顔を見ていたい。
そう、強く願った。
その翌日。
彼女は静かに息を引き取った。
まるで前日のあの姿は、彼女の最後の命の煌めきだったかのようで。
僕はいつまでも、あの日の彼女を忘れられないでいる。
【解説】
仏教と深い繋がりのある蓮。
花言葉はそのイメージ通り「清らかな心」「神聖」です。
泥の中に根を張って、水面からすっと美しいピンク色の花を咲かせるその姿は、確かにとても象徴的に思えます。
そして、蓮の花は明け方に咲き始めて、昼前には閉じてしまうという性質があります。
しかし開花してから四日目になると、午後になっても花が閉じることはなく、そのまま散っていくのだそうです。
そんなところも、どこか神秘的な花と言えるでしょう。




