五章 : 幼い君とのengagement ... 前
「寄るなよ」――――小さな少女の手を跳ね退けて、真昼の街路地に身を翻す。
“君”との距離感が分からなかった。
裏路地の一角に入り込み、上がった息を整える。
短時間で押し寄せた“久々”に、走らなくても息苦しさは感じただろう。
尤も全力で駆けたことさえ、彼には久々の事であったが。
何一つまるで変わらない。其れが、逆に苦しかった。
長い空白の果てに今、再び出逢った少女の容姿、雰囲気も。
彼女は数年以上の“過去”を、何一つ覚えていないけれど。
だからこそ、また繰り返す。過ぎし日と重なる未来が見えて。
“これ以上は”。そう思った。
「逢わない方が、幸せ………」
「誰にだ?」
風情無く砂利を踏み締める音と、下卑た笑いが耳に届く。
不愉快そうに横目で見ると、―――「誰、あんた」―――答えの要らない問い掛けを、冷えた声音で其方へ向けた。
「お疲れのようだな、お坊ちゃん」
緩慢に壁から背を離す。
関係ないねと吐き捨てて、見覚えのあるナイフを見た。
要らない事はすぐに忘れる頭だが、此れの記憶は残っている。果刹と『死文書』のオマケとして。
「成る程ね。……ご苦労様」
何度来ても同じなのに。嗤う。
触れたくもない拳を避けて、其の腹に膝を埋め込んだ。
「一匹目」、酷く楽しげに。
「でも其の不変、嫌いじゃないよ」
次は誰? 慈しみでも蔑みでもあり、どちらにも属さない笑顔はカノンにすると随分優しく、人が見せるには『酷薄』という感想がついて回る其れ。
一瞬の血溜りに竦む足が、早々と男を理解に導いた。
―――――あれは“人”ではないのだ。と。
何をしたかは知らないが、いわゆる膝蹴りを食らっただけで血に沈むとは思えない。
武芸などをやっているようにも見えない、高が少年―――そう、相手は精々十歳ほどの、身体も出来てない少年なのだ。
隣の仲間が闇雲に駆ける。
制止の声さえ出せなかった。
赤子の手を捻るなんてものじゃない。其処にある小石を蹴るように、容易く……其れでは言葉の方が難し過ぎる。
呼吸と同じ、振り返っても其れをしたことに疑問さえ起こらない事のように。
「此れで最後?」。品の良い靴が地面を踏んで、男も一歩後退さった。
「な……、」
男の更に先を見て、カノンの目が見開かれる。
其の表情に男の目も。
意志を待つより早く振り向くと、対峙する少年よりもっと幼い不似合いな少女が佇んでいて。
彼女も驚いた表情で、目の前の景色を見詰めている。
ざり。小石の擦れる音が近づく。
「う、動くな!」
彼の足音は身の危険。直感がそう信じた時、男はナイフを少女に向けた。
足音が止まって一息吐く。ナイフを向けた其の位置に、地雷が埋まっていたとも知らず。
世界が、外れた。
向けられたのは殺気ではなく、永遠に赦されない裁きの喇叭。
周りの世界が虚像に映り、それらの塀の一つ一つに何か化け物が棲んでいる――――恐怖に歯が鳴り、手を滑らせた。
落ちずに真っ直ぐ飛んだナイフが何に刺さったかなんて知らない。
何一つ解る事が無いまま、男は地獄の門戸をくぐる。
+ + + +
「あ、の」
「莫迦じゃないの?」
腕を貫いたナイフを引き抜きながら、彼は冷たく吐き捨てる。
肩を震わせた少女の手を乱暴に引き、“ミカル”の恩恵が届く範囲まで出て行った。
人気の少ない小さな公園。ベンチに浅く腰かけて、睨むような目を未だ立ち竦む少女に向ける。
「何で……来たの」
真っ直ぐ彼女の目を見ると、幾分か自然と落ち着いた声。
「寄るなって言ったよね」。繰り返すと、少女は「うん」と頷き返す。
「覚えてる。でも私も不思議」
「放っておいたらもう寄る事は無かったのに」。無機質な声が反響した。
何処で、と聞くことは無い。置いて行ける場所は所々に見当たった。
彼女が其れと言っているのは、ナイフが飛んだあの時だろう。
カノンが思うはもっと安易な、彼女の手を引いたその時。
無視すれば、其れで済んだ。
歯車の何処かが噛み合わないで、“此の先”を見る事も無くて。
「死にたかった?」
「ううん。私はどっちでもいい。ただ、ナイフは怖かった」
「ね。ありがとう」
蘇る記憶に涙が落ちる。
“どっちでも”、そう、彼女は其れに執着しない。
桜よりずっと潔く、椿のように散る事を、望んだ人だと知っていた。
『花ほど綺麗じゃなくて、良いよ』
だから、“君”は散らされないで。
醜くも長い年月生きて、隣空けるから其処で笑って。
そう願ったのは“自分”の方だ。
「如何したの?」
「………見つけたく、なかった」
俯き地面に吸われた音は、少女に届かず首を傾げる。
「でも、見つけてしまったから」
赤く染まった手を伸ばして。
もう、後には退けないから。
「決めたよ」
違う。決まっていた。
此の日、こうして出逢わなくても。
死ぬまで逢わずに済んだとしても。
此の子が此処に居る以上、此の世界に存在する以上、僕には選択肢なんか無くて。
「君の傍にいる」
何度でも。もう失くしはしない。
少女の頭に手を置いて、彼は穏やかに微笑んだ。
「わらった」。少女が紡ぐ驚いた声。
「君の為ならね」。柔く返して、
「何でもする。だから笑って?」
もう一度だけ、僕の為に。




