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五章 : 幼い君とのengagement ... 後

冷たい風に夜半を感じ、十字の下へと下りていく。

足下の芝が人工的な、虹の明かりに照らされていた。

それなりに広い隣の家は、塞ぎ込んだように重く沈んで家主の帰りを出迎えない。

カノンは其れに見向きもせずに、虹のトンネルを潜り抜ける。



「……いないんだ」



自宅の明かりは消えていたから、チャペルの方だと感じたのだが。

人気の無い空間を見回し、彼は小さく呟いた。

まさか未だ、あちらの家ではあるまい、と。


花瓶の周りに散った花弁が、いやに目に付き其処へ寄る。

一枚手に取った花の欠片。

先ほどまでは確かに此処を、花菖蒲は彩っていた筈だ。



「成る程ね。……あの人のトコ」



何かが擦れ合う微かな音に、カノンは入り口へ目を向けた。

目を丸くして佇む久時が、「帰ってたの」と首を傾げる。―――――「まぁね」


細い花束に目線をずらす。

贈り物ではないために、透明なフィルムだけが巻かれた花。

ドライフラワーのような其れは、けれど鮮やかな紫で。

久時が歩く調子に合わせ、乾いた音を立て続ける。


Sea Lavender。

枯れたまま生きる永遠の花。

褪せることの無い不変の花。


宣教台の上に置き、花瓶の周りを久時は手際よく片付けていく。

「スターチス、ね」。

横たわる花束を見遣り、鼻で笑うような声を出すカノンに彼は律儀に笑い返した。

何所か苦く、また済まなそうに。



「うん、ちょっと……其処の花、あげちゃったから」



分かっている。如何して、誰に渡したのかも。

花に見向きもしない彼に、勝手な思いを伝える、其れだけの為に。

まるで、手紙のようにして。



「で? ………其れが貴方の望みなんだ?」



大切な言葉を花に託す。久時の癖は何時から続いているだろうか。


決して華やかにはならない、三輪も挿せば窮屈になる心許無い細い花瓶は彼の、久時の鏡だと。

何時からかカノンも気付いていた。



―――――『祈れないんだ、大事な事は。不安になってしまうから』



祈りを捧げる時の合間に、悲しく微笑って呟いた彼。

数年前の何処かの記憶。

けれどあの時此の場所を、彩った花は覚えている。


同じ青紫だった。

永遠に変わらない事を、心底願った“時”の色。



「“永遠に”……うん、そうかも」



緩やかに、曖昧に、綻んでいく表情と声。

自分の言葉が全て虚実に聞こえてしまう聖職者の、苦悩の末の表現だった。

無意識に此処に彼が挿した、最初の花がチャペルには到底相応しくない黒紅のカーネーションだったのは、偶然だが当然だったろう。

『たまたま、目に付いたから』。立場と心情の狭間で、彼は行き場を失くしていた。


久時にとっての此の世の中は、未だ朧。

只、言葉には出来ない声を花瓶に挿すようになってから、此のまやかしの聖堂とガウンを背負っている事が、随分楽になったと思う。


一部を残して自分自身も、まやかしとなっている事が。


此の場にいるのに何処にもいない、消えそうな牧者の真影を、花瓶は其の細い線で、懸命に繋ぎ止めていた。


「分からない」。そう久時は言う。

青紫に目を向けて、「きっとそうだと思うけれど」と。


彼が、花を選ぶ時、気持ちは何時でも曖昧で。

フィルター越しに世界が在るような感覚を覚えてしまうのは、まるで自分の心さえ、遠くに置き忘れて来たような。

我を取り戻してから思う。“あぁ、そうかも知れない”と。



「気持は理解出来るけどね」



何処か突き放したような、兄への言葉とは取れないような高みから放つ言葉が飛ぶ。

御世辞にも多いとは言い難い、共通点の一つだった。

久時もカノンと同じように、“永遠”を切に望む一人だ。


宣教台に背を預け、其処にあった書物に手を伸ばす。

興味も感慨も無さそうな目で乾いた音を立て続ける、カノンを不思議そうに見遣る。

―――例えば、長く感じた過去の、何処かで時間が止まっていれば―――カノンは静かに書物を閉じた。



数日前に地を打った、あの雨の日が来なかったなら。

茂って日の浅かった若葉は、殆どが未だ生きていたろう。


此の、書物に描かれている“罪の昔日”が無かったら、かの信条の絵空事―――――永遠の命と云う物は、夢で終わっていただろうか。



報われないと知れた事を、並べても仕方が無いけれど。





ねぇ、と久時に問い掛ける。



「人が犯した禁忌への……罰って何だったと思う?」


「どうしたの? 急に」



ただ何となく気になったから。

本に目を落としそう答えると、彼は穏やかに微笑んだ。


全てを憐れむような目は、壁に掛けられたもう人の居ない十字架を、真っ直ぐに見上げ細められている。

常より暗いチャペルの中、太陽を仰ぎ見ているような、ひどく眩げな表情で。



「心と云うのを知ったこと」



「成る程ね」、と頷いて、もう一度其の書物を開ける。

“本”と銘打たれた其れの、薄い頁の束を薄く持ち上げる。

省略されたストーリー。多くの人が依り代とする、此れの中身が偽りだと云う事は当然知っているけれど。

確かに罪を犯す以前の“人”の心は描かれていない。

人形のように、神に忠実。蛇の言葉に人間が、欲を覚える其れまでは。



「それじゃあ、人の罪ってのは?」


「知ろうと、手を伸ばした事だよ。善悪の禁忌の果物が、甘い毒だと教えられたにも関わらず」



罪を知ろうと、人が其の手を伸ばした時。

其れは転じて報いとなって、人は荒野に突き落とされた。


もしも、本当だったなら――――――、



確かに其れは一番の、酷な仕打ちと呼べるのだろう。



世界の何処かを絶え間なく、照らし続ける太陽のように、想いや感情、心の揺れは、死ぬまできっと止められない。

どれほど失くしたいと願っても。


本当に其れを人が手放せたとしたら、その人はもう自分の足で地面に立ってはいないのだろう。

呼吸し、血を通わせる人形。

意志をも無くしてしまった其れが、自ら動くことは無い。


咎から解き放たれた“人”が、尚生き続ける事は無い。



―――――「気持は、……理解出来るけどね」



沈んだ夜半の教会を、離れる間際に紡いだ言は。

薄灯りで佇むチャペルの中で、先の物よりも響いて消えた。

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