六章 : 鈴の音色で描くキャンバス
何処へ行っても耳に衝く、うつせみを避けるかのように、カノンは人波を縫っていく。
懐古的な路面電車が何度か横を通り抜けた。
通りの中央にぽつりぽつりと添えられている、駅を幾つか横目に見た。
煉瓦を整然と並べた道を、稀に小型の車が走る。
電車と歩行者が大半の街。量は其れほど多くないが。
長く続いていた線路が、唐突に其処で途切れていた。
簡単な駅の傍らに、素朴な装飾の道標が、まるで人気の無いその場所と錆びた自身をも気にせずに、四方を指差し立っている。
東の方へ目を向けると、閑散とした其の空間に、白く巨大な建造物が他を呑むような景色を造り上げていた。
古代の神殿を其のまま残したかのような前景。
だが其の艶やかな佇まいは、それと言うには少々綺麗過ぎている。
真正面に立つと読み取れる、“Ar-m MichaL”の装飾文字。随分昔の物なのだろう、刻まれた其れを一瞥した。
低い階段を上り切り、開け放たれたロビーへ入る。
仮に一言声を出せば、何処までも響いて行くだろう。
足音さえもが木霊する。他に人気は感じなかった。
見慣れた光景。覚えた感覚。だからこそ彼は此処に来る。
凍った仮面を露にして、尊大に中を進んで行く。
小さな絵画とショーケースが、数少なに並べられた廊下を抜け、奥の広間へ踏み入った。
最奥の脇に扉が二つ。誰もくぐらない其処にさえ、建設者は拘っている。
それらに挟まれ、中心に、一際大きな絵が一枚。
全体を見渡せ、尚且つ最も近付いたぎりぎりの位置で、カノンは初めて足を止めた。
普通この手の、美術館を代表するような絵は、金の額に入れられるのだろう。
だが此処で一番大きなキャンパスに描かれた其れは、銀枠の中に入れられている。そして、其れが良く似合う。
『生死』と題されている、反転世界の風景画。
背中合わせの昏い世界の、上半分はぼんやりとした青が基調の柔い色合い。
下半分はモノクロの、退廃的な単彩画。
湖面に映る景色を描いたかのような、“間違い探し”の油絵だった。
中央は水面、上下は空。
周囲に森のある景色で、生い茂る木の葉が映っている。
地面の端は中心よりも少し右に。其処に覆い被さるように、桜が花を差し出していた。
目の焦点を下方に合わす。桜は硝子細工のような、無機質な樹に変えられていて。
周囲の森も、白く、固く―――――そう思うのは、此れが単彩画だからだろうか。
上に、戻す。泉の畔に唯一人だけ描かれた人。
遠目から見た風景に唯一描かれた人間は、細く小さいながら目に付く。
おそらく其れが此の絵の中で、異質な描写だからだろう。
少女の対になる位置には―――――、何も居ない。
「…………」
『生死』。
それ以外には何一つ、但し書きはおろか作者の名さえ記されていないプレートと絵に、人が言うのは極当たり前の賛辞だけ。
何を見たのか各々問い掛けたくなるような、感想にも考察にも満たない、意味の無い科白。
りん、とか細い鈴の音が、大部屋の中に木霊した。
自分も先ほどくぐって来た、廊下と部屋との区別の為の戸板の付いていない境目。
他と比べて低めに作られた天井の真下に目を向けると、今し方其処に来た人が、驚いて目を丸くする。
此の建物に良く似合う卯の花の服に身を包んだ、同じ年頃の若い男子。
彼の指には、音の源。
「邪魔しちゃった……わけじゃないよね」
「さぁ」
人と音さえ確かめれば、「どうでも良いけど」と直ぐに絵画に向き直る。
人が来た、ということも、其れが顔馴染である事も、カノンにとっては別段どうでもいい事だった。
其の、背後でくすくすと、控えめな笑い声を零す。
手が持ち上がると鈴も揺れ、小さな音を響かせる。
変わらないねと、笑っていた。
街では珍しく日頃から絵を観に来る彼にとっての周囲の音は、遥か遠くで鳴っている異界の雑音のようなもの。
たとえ話し掛けたとしても、普段は取り合ってもらえない。
人はおろか、目的以外の美術品も―――つまり、今も彼が見ている大判の絵以外の物は―――その存在など無いかのように、徹底して無視されるのが常。
誰が騒いでも邪魔になることなど無いと、良く知った上での入室だった。
「雫。其れ、」
「え?」
突然聞こえた自分の名に、素っ頓狂な声を返す。
大凡で考えてもう数年、おそらく聞いていない呼び掛けだった。
其れ以前に聞いた時にしても、絶対に呼ばなければならない理由があった時だったと言える。
彼は頭が良かったが、覚えていたとも雫は思っていなかった。
「鈴、」ともう一度繰り返す声。
我に返った彼はようやく、「あぁ此れね、」と鈴を振る。
「さっき見つけたんだよ。見る?」
返答を聞く間を開けることもなく、彼の手を借りて鈴を手の平の上に置く。
丁重な扱いをされてはいるが、カノンの手に移った其れは何の変哲もない有り触れた、もとい、雨風に長年さらされたと言わんばかりに汚れが目立つ、まるでゴミのような物だった。
鳴らしもせず、感想も言わず、ただ一定の距離を保って鈴を見つめるだけの彼。
暫くの時。実際には、それでも数秒だったろう。カノンが、ふと口を開く。
「…………街境の……神社。一番の早咲きの……桃の麓」
「知ってたの?」
「行ったんだね」という淡々とした返答には、何処か物好きというニュアンスが込められているように聞こえ。
心外と言わんばかりに雫は両手をその腰に当てる。
君だって、と拗ねたように返せば、間髪入れずに「違うよ」と。
「僕と君では……理由も、結果も」
不思議そうに首を傾げる雫に、カノンは何も返さなかった。
『生死』のキャンパスに向き直り、ちりんと鈴を響かせる。
反転された風景画に、此の音色はよく馴染むのだが。
其れをそうと思う人間も、街にはきっと居ないはず。
儚さが、よく映えていた。
此の記憶に残る全てに対し、“儚い”という言葉ほど似合う物はあるだろうかと。
そして、その儚さに、―――――小鈴の此の音を、捧げた。
手の中で揺れる鈴の音色は、少しだけ鈍くなっただろうか。
思い浮かぶ景色の色もまた、目の前の絵と同じ白。
「カノン君」
笑い声で、雫が呼ぶ。
反応が無いのは何時もの事と気にせずに、その間も置かずに言葉を継いだ。
「持って行ってもいいよ、それ。……欲しいなら」
驚いて振り返るカノンに、面白がるような声が飛んだ。
「やっとまともに僕を見たね」と。
「初めてだね。君の心の在り処が……僕になったの」
「………」
「何時だって其の絵に向いてた。でしょ?」
同じく絵画を向いた雫に、どう、と試すような目を流される。
勘が良い、と思わず彼は眉根を寄せた。
例えば此の美術館の中に、初めて足を踏み入れた時。
美術館らしくない展示品に、カノンは我が目を疑っている。
廊下も、展示室も、その中に飾られた物は全て、有名な彫刻家や画家の作品ではなかった。
何処かの博物館に近い、此の街に所縁のある物ばかりを節操なしに置いた部屋々々。
だからこそ、人は寄り付かない。
見様によっては其の全てが、ただのガラクタでしかないから。
彼の、他者曰く“ガラクタ収集癖”は昔から見受けられた事だった。
けれど、カノンが見る限りその“鑑定眼”は確かなもので。
「末恐ろしいね」
吐き捨てるような哂い声。
其れには肯定のニュアンスが、珍しく隠す事なく含まれていた。
何時だって、此の心を置いている場所は。
事象だけが置き去りにされた、遠く。億兆の過去。
遥か昔と表すには、褪せの足りない淡い夢。
ちりん、と最後に一つ鳴って、小鈴は雫の手に落ちた。
「要らないの?」。意外そうな声に、常と変らない冷めた目で、肩越しに彼は目を向ける。
先ほどまで鈴を見ていた目が、それこそ幻だった、とでも言うように。
「いい。……折角だけど」
淡々とした言葉を残し、カノンは其処を後にした。
陽の光の届かない美術館を出ると、まだ其れほど長居はしていなかったと漸く気付く。
遠くに、電車の走る音。くすみのない空を、彼は見上げる。
―――――あれは、もういい。
欲しいと願い続けたものに、あの鈴の音は届かないと。
届かなかったと知っているから。




