(3)10時ちょうど
カラカラと窓を開ける。
心地よい風が僕の頬をなでる。
隣を見ると、蘭花の髪も揺れている。
「ふふっ。ここから飛び降りたら、痛いかな?」
「何か、話によると、四階ぐらいから飛び降りると、重力加速度の影響で血流が下がって、途中で気を失うらしいですよ? だから、痛みは感じないんじゃないですか?」
「え~? 気を失っちゃったら駄目じゃん。ちゃんと着地できないじゃん」
「部長。これも、流れ星の話のように、何かいい話があるんですよね?」
「ん? そんな物無いよ~。ただ、な~んとなく、空を飛びたい気分になっただけ」
僕は、蘭花とは思えない発言に蘭花の顔をまじまじと見たが、口元に笑みがこぼれるのを抑えられずにいた。
先ほどと同じような会話であるが、今は、蘭花の言葉が心地よい。
それは、先ほどと異なり、蘭花の心が前を向いているから。
だから、一見やばそうな発言でも、安心できる。
もう、大丈夫なのかな。
無限ループから一歩前進したことで、気が楽になったのだろうか。
教室の時計を見る。
九時五八分。
後、二分。
僕は、右手の黒いライトを見た。
何でも、ニューヨーク市警でもご愛用だとか言うライトの、小型版。
ライトなのに、材質が金属で出来ている。はっきり言って、武器になる。
それよりも、僕にとって有り難いのは、集光機能がついていると言うこと。
正直言って、教室にある非常用ライトを考えていたから、かなり望み薄だったのだが、蘭花のおかげで可能性がぐっと高くなった。
あとは、教頭が来ないことを祈るだけ。
僕は、窓の外の市街地に目を向ける。
遠くの方で、自動車の音、バイクの音、あ、爆音もやっぱり混じっているな。
風がこちらを向いて吹いているので、音が良く聞こえる。
市街地の右端に、あきらの家があるはず。
侵入時に出ていた月は雲にすっぽり覆われ、いわゆる闇夜になっている。
天候的にも、まさにうってつけの条件。
僕は手元のボタンを軽く押し、点灯することを確認する。
指の力を緩め、消灯することを確認する。
何度かそれを繰り返し、ボタンの重さを把握する。
ただ、点けるだけではいけない。
信号を送らないといけないのだ。
このライトだと、一分間に二十文字がやっと。
頭の中で送る言葉を反芻する。
僕は、もう一度時計を見た。
十時ちょうど。
「部長、ドアのところで見張っててください」
「うん。わかったよっ」
蘭花の足音が、後ろの方へ遠ざかっていく。
僕は、軽く深呼吸すると、あきらの家の方に向かって、ライトを持った腕を伸ばす。
時計回りに、大きく円を描く。
三回。
次に、五芒星を描く。
三回。
反時計回りに、大きく円を描く。
三回。
鼓動が高鳴る。
しかし、いつも超現実的かつ論理的に物事を考える蘭花が、よく反対しなかったものだ。
あの後、僕は蘭花に『作戦』を説明した。
まあ、確かに代案もないのだから、反対のしようが無かったのかも知れないが、蘭花は 何も突っ込まず『うん、それやってみよ!』と言ったのだ。
僕は、足下に落ちている半透明のビニル紐をぼんやりと見下ろす。
作戦を実行するためには、縛られている紐を切らなくてはならず、その事を蘭花に話したところ、『まかせといて!』と、とんでもない場所にナイフがあることを僕に知らせた。
何の罰ゲームだ?と思いながら、僕が、恐らく一生分の嫌な汗をかきながら、蘭花が身につけていたナイフを無事に取り出し、紐を切り、晴れて拘束を解かれたというわけだ。
その後、またとんでもない所からライトが出てきて、生暖かいライトに無意味に緊張しながら信号を送り、現在に至る。
蘭花がいつもの明るさを取り戻したので安心し、蘭花が実際どう思っているかについて深くは考えなかったが、もしかして、僕の言うことに全く反対せずに付いてくるのは、僕が大声を出したことが尾を引いているのだろうか。
この件については、全てが終わったらちゃんと謝る事にしよう。
もっとも、蘭花がどう考えているのかというより、一つだけはっきりしていることは、今、この瞬間、僕は、緊急信号を送るという、あきらと中学の頃にした他愛もない約束に、蘭花と、僕の命を預けていると言うことだ。
あきらが忘れていないことだけは、確実に言える。
停学になったあの日、二人で確認したではないか。
速攻忘れるような事があれば、それこそ二人の友情とやらは終わってる。
僕は、あきらの家の方向をしばらく凝視する。
『いいか、その合図を受け取ったら、受け取った側は、同じ動作でもって、返答の合図とするんだ』あきらは、続けてそう言った。
「来ないな。向こうに届いていないのか、向こうの光が見えないのか、両方か」
僕は呟く。
『返答がなかった場合、十秒おきに同じ動作を五回繰り返す。ここまでで一〇〇秒』
僕は、再びライトを回す。
相変わらず、自動車の音、バイクの音。
その後、五回まで、あきらからの返答は見えなかった。
『五回で駄目なら、届いているかも知れないから、その後、必要事項を送る』
僕はライトを持ち直し、心の中でもう一度復唱した後、
「えっと、ア……だから、ツーツートツーツー、ツートツートト……」
口の中で呟きながら、ライトのボタンを操作する。
ライトから発せられるビームが、かなり遠くの家の外壁に点滅する光を映し出している。
これだけあれば、あきらにもわかるはず……だよな。
喉はカラカラだ。
☆
遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえる。
窓を閉めたから、遠く感じているだけで、市街地の方だろう。
「薫君、汗びっしょり」
蘭花が心配そうな顔で、僕をのぞき込む。
僕の鼓動は、先ほどから高鳴ったままだ。
結局、十時十分まできっちり何度も『送信』した。
だが、返答はなかった。
だから、届いているのかどうか判らない。
たまたま、あきらは今日見なかったかも知れない。
逆に言えば、今日あきらが何か送ったとしても、僕は家にはおらず、あきらの信号を受信することは出来なかったのだ。
そのことは、蘭花には言っていない。
蘭花は何も追求せず、『うん、わかったわ』とだけ言い、僕の提案に従って次のアクションを待つことにしたのだ。
冷静に考えれば、何という儚い望みにすがっていたのだろう。
先ほどまでは、絶対大丈夫だと思っていたのに、急に様々な懐疑心が心を満たしていく。
第一、あきらが今日『出動』だったら、望みは全くない。
あのバイクの爆音の中に、あきらがいたら……。
「あ、すみません。大丈夫です」
僕は、うつろな視線を蘭花に向ける。
蘭花は、スカートのポケットをごそごそやっていたが、
「あちゃ~、ハンカチもティッシュも忘れちゃってる。駄目だな~あたしって」
ばつの悪そうな笑みを浮かべ、肩をすくめた。
おいおい、エアガンとナイフとライトは忘れないのにかい?
僕は心の中で突っ込むが、表情を改める。
「部長。教頭が来るかも知れませんから、ね?僕は大丈夫ですから」
僕が蘭花を促すと、蘭花は頷き、僕に身体を寄せた状態で手を後ろにして腰を下ろした。
僕が『教頭が来るかも』と言ったのは、その儚い望みにまだすがっている証拠。
あきらが信号を受信していれば、何事かと電話をしてくるだろう。
あきらのことだ、僕が出るまで電話するかも知れない。
教頭が手に余り『よけいな事言うなよ』とか言いながら、電話を僕に手渡すという仕組みだ。
電話さえ出来れば、こちらのものだ。
『初等暗号入門』をお互い勉強した間柄。
教頭にばれずに、状況を伝えることはたやすい。
とにかく、それだけが望み。
――本当に、来るのか?
突然、僕の中で闇の部分が鎌首をもたげる。
いや、絶対に来る。
よけいなことを考えるな!
――だけど、もう五分も経っているぜ? 電話ならすぐに来るはずだろう
教頭が無視しているだけだろう。
――まあ、いいさ、安易な希望にすがるのは自由だからな
僕の呼吸が荒くなる。
額から、手から再び嫌な汗があふれ出てくる。
何だか目眩がしてきた。
これが、プレッシャーって奴か?
僕は呼吸を整えようと試みる。
「薫君。本当に大丈夫?」
顔を向けると、蘭花の心配そうな顔。
「……大丈夫です」
僕は、なんとか頷く。
蘭花は、しばらく僕を見ていたが、おもむろに僕の両手を握り、
「信じよ? 結果は結果。だけど、まだ結果はわかっていない。そうでしょ?」
口を開いた。
蘭花の目は、笑っているわけでも怒っているわけでも、心配しているいるわけでもない。
敢えて言えば、その瞳には、蘭花自身の感情は何も映っていないのだ。
ただ、僕の不安に満ちた顔が映っているだけ。
そうか、多分、蘭花は、僕の心を視ているんだ。
今まで、たまに蘭花が何も言わずに僕をじっと見ることがあった。
僕が、解を見いだせずに迷走しているときだ。
だけど、その次に発する蘭花の一言で、何度も心のループから抜け出して来られたのだ。
今回も、その言葉に救われようとしている。
心のもやが少しずつ薄らいでいく。
そうだ、そうだよな。作戦の大前提を疑ってはいけない。
蘭花の瞳の中の僕が、落ち着きを取り戻した。
同時に、蘭花の瞳に、ホッとしたような感情が映る。
「ありがとうございます。もう大丈夫です……ん?」
僕は蘭花に礼を言ったところで、僅かな変化に気付いた。




