第九話 しゅうらくのゴルド
支度は、夜明け前に済ませてあった。
キャロルの乳を搾り切り、水と草をたっぷりと置いた。
柵の扉を確かめ、鳴子の蔓を見て回り、狼避けの液を、もう一度丸太に塗り重ねる。
搾った乳は容れ物に詰めて、布で包んだ。
予備の分が、もうひとつ。
替えの布は、洗い回して薄くなったものを、三枚。
カインの体を清め、乾いた布で包み直したのは、空が白みはじめるころだった。
背には、荷を負う。
薬草の束、鞣した毛皮、傷薬の小瓶。
ずしりと重い。
その上で、胸にカインを抱いた。
抱き紐を二重に確かめ、頭を支える古い布の位置を直す。
慎重に、一歩目を踏み出した。
山道は、一人で歩くときとは、まるで違った。
一人で急げば、三時間ほどで降りられる道だった。
今日のハヤトは、その倍近い慎重さで進んだ。
足もとの石をひとつずつ確かめ、滑りやすい斜面では木の根を掴み、段差では必ず片手を胸のカインの背に添える。
両手がふさがっている分、均衡を保つのは、自分の体ひとつだ。
背の荷が揺れるたびに、腰を落とし、膝で受けとめる。
百年歩いた道でも、胸の重みを抱えて降りるのは、初めてだった。
カインは、最初のうち、目を輝かせていた。
いつもの散歩とは違う。
見たことのない景色が、次々と流れていく。
木々の密度が変わり、光の差し方が変わり、鳥の声が、山の上とは違う種類のものになっていく。
「あっ、あー!」
何かを見つけるたびに、声を上げた。
枝のあいだを飛ぶ小鳥。
沢を流れる水の煌めき。
風に揺れる、見知らぬ花。
全部が新しく、全部が面白い。
小さな手が、抱き紐の縁から飛び出して、あれもこれもと宙を指した。
けれど、道のりの半ばを過ぎたころから、興奮は疲れに変わっていった。
揺れが単調になる。
景色が、似たようなものになる。
腹が減る。
カインの機嫌が、急な坂を転がるように下りはじめた。
「うぅ……うぁ……」
不満の唸り声だった。
ハヤトは足を止め、木陰でミルクを与えた。
カインは貪るように飲み、いくらか落ち着いた。
けれど、歩き出せば、じきにまたぐずりはじめる。
抱き紐のなかで身をよじり、暑いのか窮屈なのか、小さな足をばたつかせた。
ハヤトは紐の締め具合を調え、カインの位置を少し高くした。
風が頬に当たるように。
山の風が触れると、ぐずりは、少しだけ収まった。
山道が、緩やかになりはじめた。
木々の間隔が広がり、陽の光が増える。
そして――匂いが変わった。
土と木と獣の匂いに、煙が混じっている。
かまどの煙。
人が暮らしている匂いだ。
カインが、鼻をひくひくさせた。
知らない匂いだった。
キャロルでもない。ハヤトでもない。木でもない。
何か、別のもの。
林を抜けると、眼下に広がるものがあった。
――人の村だ。
木造の家々が点在し、畑が広がり、細い道が蛇のように集落を縫っている。
煙突から煙が上がり、遠くで鶏の声がする。
人影が、小さく動いていた。
ハヤトは、そこで足を止めた。
店先に立つことなど、年に数度の用事でしかないはずなのに、胸に抱いたものの重さのぶんだけ、見慣れた景色が遠く感じられた。
カインは、動きを止めていた。
ぐずりも、ばたつきも、すっかり止んでいる。
目を見開いて、じっと見つめていた。
自分と同じ種族の世界を。
何も知らないまま、ただ、黒い瞳に映していた。
「……あ」
小さな声が漏れた。
怖れでも、興奮でもない。
ただ、圧倒されていた。
これまでの世界は、山小屋と山とキャロルと、ハヤトだけだった。
それが突然、何倍にも広がった。
カインは、反射的に、ハヤトの胸元の布を掴んだ。
きゅっと、小さな拳が握りしめる。
目は村を見つめたまま、手だけがハヤトにしがみついている。
知らない世界は、怖い。
でも、見たい。
だから、ハヤトを掴んでおく。
この人がいれば、大丈夫だから。
ハヤトは、小さな背に掌を添えて、坂を下りはじめた。
畑のあいだの道へ入ると、畑仕事をしていた中年の女が、ふと顔を上げた。
エルフが、赤子を抱いて歩いている。
女の目が、大きくなった。
驚きと、好奇と、わずかな警戒。
カインは、その視線を受けて、さらに強く、ハヤトの胸元を掴んだ。
知らない顔だ。
ハヤトではない。キャロルでもない。
知らない生き物が、こちらを見ている。
怖い。
でも、泣かなかった。
ハヤトの心音が、抱き紐越しに、聞こえていたから。
――村に足を踏み入れると、空気が変わった。
山の静けさはなく、代わりに、暮らしの音が満ちている。
どこかで子どもが叫んでいる。
鶏が鳴いている。
鍛冶の槌音が、遠くから響いてくる。
風に乗って、どこかの家で焼くパンの匂いが漂ってきた。
カインは、ハヤトの胸元にしがみついたまま、首だけを動かしていた。
目が、忙しい。
あちこちに動くものがある。
人間が歩いている。
荷車が通る。
犬が駆けていく。
全部が初めてで、全部が多すぎる。
すれ違う村人たちの視線が、ハヤトとカインに集まった。
エルフが訪れること自体は、珍しくない。
年に数度、薬草や毛皮を売りに来る、長身で耳の尖った男。
村の者たちは、それを知っている。
けれど、その胸に人間の赤子が抱かれているのは、初めてだった。
「おい、あれ……」
「エルフさんが、赤ん坊を……?」
「人間の子じゃないか。あの黒い髪……」
ひそひそと、囁き声が追いかけてくる。
好奇と困惑が、半々だった。
敵意はない。
けれど、遠慮のない視線がカインに注がれるたびに、小さな拳が、ハヤトの服をきゅっと握り直した。
ハヤトは、カインの背を軽く撫でながら、まっすぐに歩いた。
向かうのは、いつもの取引先。
街道の入り口にある、雑貨屋だった。
雑貨屋の主人は、ゴルドという名の、五十がらみの男だった。
禿げ上がった頭に、赤ら顔。
腹は出ているが、腕は太い。
店は、先代のころからの取引先だった。
エルフの客は珍しく、先代のころから、一度来れば忘れられることがない。
ハヤトのほうでも、この村の人間のなかで名前を覚えているのは、この男くらいのものだった。
「よう、ハヤト。今年は遅かったじゃねえか。いつもなら、もう秋口には――」
ゴルドの声が、途切れた。
カウンターに近づいたハヤトの胸元から、小さな黒い頭が覗いていた。
「……おい」
ゴルドの目が丸くなった。
カウンターから身を乗り出して、カインの顔を覗きこむ。
カインは、その見知らぬ大きな顔に、びくりとして、ハヤトの胸に顔を埋めた。
「人間の……赤ん坊か? お前さん、どうしたんだ、そりゃ」
声に警戒はなく、ただ、純粋な驚きがあった。
ハヤトは、事情を話した。
山の森の入り口で拾ったこと。
親も、素性も、分からないこと。
放っておけば、そのまま死ぬだけだったこと。
自分が引き取って、育てていること。
ゴルドは、しばらく黙って聞いていた。
太い腕を組み、ときおり、カインのほうに目をやりながら。
「……そうか」
それだけ言って、ゴルドは深く頷いた。
詮索はしなかった。
「よこせ」とも、「村に預けろ」とも言わなかった。
ただ、ハヤトの目を見て、何かを確かめるように頷いた。
長い付き合いだ。
このエルフが、嘘を言う男でないことくらいは、知っている。
ハヤトの喉まで、ひとつの問いが上がってきた。
『この子を探している者の話は、聞かないか。』
けれど、声にはならなかった。
訊いて、もし「ある」と返ってきたら。
そのときの自分が、どんな顔をするのか、ハヤトには分からなかった。
問いは、喉の奥に仕舞われたまま、出てこなかった。
「で、今日は、その坊主のための買い出しか」
ハヤトは頷き、必要なものを伝えた。
種――大根、蕪、麦、芋。
布――赤子の肌に使える、柔らかいもの。
塩と油。
それから、できれば、番犬になりそうな仔犬の当てがあれば。
ゴルドは、カウンターの奥から帳面を引っ張り出し、指で項目を辿った。
「種はある。大根と蕪は、ちょうど秋蒔きの時期だ。
麦もある。芋は……今は切れてるが、来月には入る。
塩と油は問題ない。
布は、うちにもあるが、赤ん坊用となると、集落の仕立て屋のほうがいいのがあるだろう」
それから、顎を撫でた。
「犬は、猟師のフランツのところだな。この夏に猟犬が仔を産んだ。
まだ貰い手のつかん仔が、何匹かいたはずだ。
集落のはずれに住んでる、気難しい爺さんだが、犬の扱いは一流だ」
そこまで話したとき、カインが、ようやくハヤトの胸元から顔を出した。
恐る恐る、黒い瞳が、ゴルドを見上げる。
大きい。
ハヤトとは違う顔。
丸くて、赤い。
毛のない頭。太い指。
全部、知らない。
でも、この人の声は、怒っていない。
ハヤトと、普通に話している。
だから、多分、怖くない。
多分。
ゴルドが、にやりと笑った。
「おう、坊主。なかなか、いい目をしてるじゃねえか」
太い指が、カインの頬に伸びた。
カインはびくっとしたが、逃げなかった。
ゴルドの指先が、ぽんぽんと頬を軽く叩く。
乱暴なようで、力加減は心得ていた。
この男にも、子がいるのだろう。
カインは、数秒のあいだ、じっとゴルドの顔を見つめた。
それから。
「……あ」
小さく、声を出した。
怯えでも、歓迎でもない。
確かめだった。
この人は、大丈夫な人だ。
ハヤトが、この人と話している。
だから、大丈夫。
ゴルドが、カウンターの下から、何かを取り出した。
干した果物の欠片だった。
「まだ歯もねえか。じゃあ、こいつはお前さんが食え、ハヤト。
赤ん坊を連れた山道は、きつかったろう」
それから、ゴルドは、声を少し落とした。
「……赤ん坊の育て方なら、集落の仕立て屋のマルタに聞くといい。
自分も五人育てた女だ。このあたりじゃ、産婆代わりもやってる。
布を買うついでに話を聞けば、色々教えてくれるだろう」
ゴルドは、帳面の端を破り、何かを書きつけた。
文字を書く手は、太い指に似合わず、よどみがなかった。
「マルタには、お前さんは初めての客になるだろう。
初めての客のためだ。うちからの紹介だと分かるように、発注書を書いておく。
布の注文と、うちの取引先だって一筆だ。これを見せりゃ、話が早い」
差し出された紙片を、ハヤトは両手で受け取った。
胸の前にカインがいるので、片手では落としそうだった。
「助かる」
「何、礼を言われるほどのもんじゃねえ」
ゴルドは、ハヤトの荷に目を移し、薬草の束、毛皮、薬の小瓶を、ひとつずつ手に取った。
品質を確かめ、値をつけていく。
その手つきには、長年の目利きの確かさがあった。
「……相変わらず、いい薬だな。
この傷薬だけで、種と塩と油は、余裕で釣りが来る。
毛皮と薬草の分で、布も犬も賄えるだろう」
ハヤトは、軽く頷いた。
いつも、相応の値をつけてもらえる。
なぜなのかは、深く考えたことがなかった。
ゴルドは、硬貨を数えて、卓の上に並べた。
その横に、種の袋と、塩の壺と、油の瓶が並ぶ。
ハヤトは、種と塩と油を荷に加え、硬貨を懐へ収めた。
発注書は、別にして、懐の奥へ仕舞った。
そのあいだ、カインは、いつのまにか、ゴルドの太い指をじっと見つめていた。
さっき、頬に触れた指。
怖くなかった指。
興味が、怖さを上回りはじめている。
「……大事にしてやれよ」
ゴルドはそれだけ言って、カウンターの奥に引っこんでいった。
店先から外を見ると、日は、もう高くなっていた。
帰りにも、同じだけの時間がかかる。
長居はできない。
キャロルが待っている。
次は、集落の仕立て屋、マルタ。
布と、子育ての知恵。
それから、集落のはずれの、猟師フランツ。
番犬の仔犬。
胸元で、カインが、ハヤトの顔を見上げた。
「あう」
まだ、怖い。
でも、大丈夫。




